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牛丼十杯の男が食べる吉野家の明太高菜マヨ牛丼

牛丼十杯の男

台風一過。
雨上がりの曇り空の下、吉野家の前にわしは立った。

オレンジ色の看板が、灰色の空にぽつんと浮かんでいた。ドライブスルーのコーンが三つ、行儀よく並んでいる。福岡の、どこにでもあるような郊外。西区の吉野家なのであった。

のれん、ではなく、自動ドアをくぐる。

そういえば、と思い出した。

上京して、わしが初めてやったバイトが、吉野家だったのである。目黒駅前店。もう、何十年も前の話なのであった。

成人式のときも、わしはあの店で牛丼をよそっていた。式が終わったあと、目黒区から白いアルバムが送られてきた。あれがいったい何だったのか、今となってはうまく思い出せないのだが、白いアルバムというものだけは、なぜかはっきりと覚えているのであった。

店長は、横山さんといった。

ある昼のこと、横山店長が「好きなだけ食べていいよ」と言った。
ん?
好きなだけ?
言ったよね?
わしがリアルな大食いというものを、まだ知らない人だったのである。

わしは牛丼の大盛りを食った。一杯、二杯、三杯。横山店長の顔から、だんだんと笑みが消えていった。

十杯食ったところで、横山店長は薄笑いを浮かべながら、「も、も、そのくらいでいいだろう」とつぶやくようにかすれ声で言ったのであった。

あれから、48年。
吉野家はめちゃくちゃオシャレになった。
タブレットで注文して、タブレットに呼び出され、自分で牛丼を取りにいくのである。

昔は八百屋さんのような、ざるレジだったのだ。

本日、初めて明太高菜マヨ牛丼というものを頼んでみた。並盛、税込六百六十円。牛肉のうまみに、高菜の食感、出汁入りの明太子、別添えのマヨソース、という触れ込みである。

来た。

というか、取りに行ったー!

わしは、セルフサービスの赤い紅生姜を山のように盛った。
高菜の緑、明太の赤、マヨネーズの白が、ぐじゃぐじゃと折り重なっているのを、やや涙目でみつめながら、儀式のようにわしは、天井を仰ぎ、そして祈りつつ七味のオレンジを、上から雪のように「えいや!」と振ったのだ。
やけに、にぎやかな丼になってしまった。

箸をつけた。

うまい。たしかに、うまいのである。明太の塩気とマヨのコクが、牛肉の甘辛い味に乗っかってくる。高菜のしゃきしゃきが、ときどき歯にあたる。

ただ。

食べ進めるうちに、わしはあることに気がついた。

普通の牛丼のほうが、うまいのではないか。

なぜそう思うのかがうまく説明できないのだが、あの、肉と玉ねぎとつゆだけの、何も足していない牛丼の、あの潔さというものが、無性に恋しくなってきたのであった。

十杯食えた男が、今は一杯でちょうどいい。明太もマヨも、乗っていないほうがいい、と思うようになった。

食べれるかもしれないが、食べてはいけないのである。

これが、年をとるということなのかもしれない。

食後の血糖値のことは、食べ終わってから考えることにした。考えたところでもう遅いのだが、まあ、そういうものなのである。血糖値計を持ちながら暖簾をくぐる男、いや自動ドアーを開けるというのも、世界中を探してもそうはいないのではないか。

それでも、吉野家は変わっていなかった。牛丼の味も、たぶん、あの頃と変わっていない。

変わったのは、わしのほうなのであった。

横山店長は、今ごろ、どうしているだろうか。

昔、知ってた人が、生きてんのかな?
と、思う年になってしまった、ということは、わしも日本のどこかで、そう思われているのかもしれない。

いやはや、いやはや。

#おいしいお店


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