しろくまの逆襲(セブンイレブン)
三十三年前のことである。
ぼくは三十五歳で、「陽子先生」というエッセイのなかで「しろくま」のことを書いた。鹿児島と宮崎の、あの練乳がたっぷりとかかった、フルーツの乗った、冷たくて甘くてどうしようもなくうまい、あの「しろくま」のことである。
編集者がすぐに赤を入れてきた。
「しろくまって、動物の白熊と間違えられますよ。ここは『かき氷』にしたほうが」

かき氷。
ぼくは電話を握りしめたまま、しばらく黙っていた。黙っていたのは怒っていたからではなくて、「かき氷」と「しろくま」の差というものを、どうやって東京の人間に説明すればいいのかがわからなかったからなのであった。

これはもう、「カレーライス」と「オムライス」くらい違うのである。
どちらも米の上に何かが乗っているという点では同じかもしれない。しかしカレーライスを食べたい人間にオムライスを出したら、それは暴力ではないか。暴力は言いすぎかもしれないが、少なくとも裏切りではある。
しろくまは、かき氷ではないのだ。
かき氷というのは、縁日の屋台でおばちゃんがガリガリと氷を削って、上からイチゴだのメロンだのブルーハワイだのという毒々しい色のシロップをかけた、あの透明で儚い食べ物のことである。舌が青くなったり赤くなったりする、あれである。
しろくまは違う。
まず練乳がある。北海道の牧場の匂いがするような、濃厚でねっとりとした練乳が、氷の中にまで染み込んでいるのである。そしてその上に、いちご、みかん、パイナップル、ブルーベリーが、まるで宝石のように散りばめられている。果物ひとつひとつが主役なのだ。かき氷のシロップとは格が違う。出自が違う。生き方が違う。
しかし、ぼくは「全国区」という言葉に屈してしまった。
全国区。
この言葉の暴力性というものについて、もう少し世の中は真剣に考えたほうがいいのではないかと思う。全国区でないものは存在しないことにされてしまうのである。九州のローカルな氷菓子は、東京の編集者のペン一本で「かき氷」に変えられてしまうのだ。まったくひどい話なのであった。
あれから三十三年が経った。
ぼくは六十八歳になった。血糖値を気にしながら生きる年齢になった。糖尿病で入院もした。敗血症も腎臓結石もやった。吉野家の牛丼を食べるときですら、スマートウォッチの歩数を確認してから注文するような男になってしまったのである。
そんなぼくの目の前に、セブンイレブンの「七プレミアム 練乳の味わい白くま」がある。

コンビニである。 セブンイレブンである。 全国で買えるのである。
いちごが赤く輝いている。みかんがオレンジ色に光っている。パイナップルが黄色く存在を主張している。ブルーベリーが一粒だけ、奥ゆかしくその隅に座っている。練乳の白い氷が、それらすべてを受け止めている。
おっさん(ぼくのことだけど)は、両手両足を頭上で激しく振りながら、2分ほど踊った。ウソである。
三十三年前、東京の編集部で「かき氷」に書き換えられたあの食べ物が、いま、福岡の自宅のキーボードの前に、コンビニの透明なカップに入って、堂々と「白くま」の名前で座っているのであった。
えらいえらい。
よくここまで来た。
ぼくはスプーンを手にとって、まずいちごを食べた。冷凍のいちごが歯に当たって、シャリッと音がした。練乳の甘さが口の中にじわりと広がった。
血糖値のことが一瞬だけ頭をよぎったが、三十三年越しの再会に水を差すのは野暮というものなのであった。
あのとき編集者に言えなかった言葉を、いまなら言える。
太鼓腹を突き出して言える
「だから言ったじゃないですか。しろくまは、かき氷じゃないんですよ」
まったく、時代が追いついてきたのである。 三十三年かかったが、悪くはない。 悪くはない夜なのであった。
いやはや、いやはや。
