あの日の明太子は反省の味がした・元祖博多めんたい重(西中洲店)
東京モンに博多を案内された日のこと
オレはあるキンドル本を書くコミュニティにいた。
生徒は約七千人。
先生は三十人。
オレはその三十人の中のひとりだった。
先生といっても偉くもなんともない。ただキンドル本を書くことについて多少はものを知っているというだけの男が三十人集まっているだけのことなのであった。
ある日、東京に住む大空先生が福岡に遊びに来てくれることになった。
大空先生もそのコミュニティの先生である。オンラインでは何度も顔を合わせているが、リアルで会うのは二回目だった。
最初は僕はAI実績者としてCMに出るために上京したときに、彼が幹事をしてくれた。
その時に初めて大空先生にあったのだ。
初めてリアルで会う人間というのは不思議なもので、画面の中で見ていた顔がそのまま三次元になって目の前に立っているのだから、脳みそのほうが追いつかないのであった。
待ち合わせ場所は博多駅のエンジェルポストの前にした。

知らない人のために説明しておくと、エンジェルポストというのは博多駅にある巨大なハート型のポストで、上に金色の天使がしがみついているという、なんともけったいなシロモノである。カップルが写真を撮る名所になっているらしいが、六十八のおっさんと五十代のおっさんが二人でその前に立っているというのは、まあ、なかなかの絵面なのではないかと思う。

大空先生はアディダスのジャージを着こなして颯爽と現れた。ピースサインなんかしている。オレはカーキのニット帽をかぶっていた。十月の博多は半袖でもいけるくらいの陽気だったのだが、オレのニット帽にはファッション的な信念があるので季節は関係ないのであった。
ちなみに、はげているわけではない。
以前失礼な受講生がいて、「その中は髪がないのですか?」
と聞いてきた。
そうなると意地でも取りたくなくなる。
さて、オレはこの日のために計画を練っていた。
博多に来た東京モンには、やはりうまいとんかつを食わせてやるべきではないかと考えていたのである。博多にはうまいとんかつ屋がある。ラーメンともつ鍋だけが博多ではないのだ。
ところがである。
大空先生は、エンジェルポストの前で、こう言ったのだ。
「宇佐美さん、それもいいんですけど、中洲のめんたい重のお店に行きませんか?」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。
福岡に住んでいるオレが、東京から来た人間に、福岡の店を案内されようとしている。これはどういうことなのだろうか。東京から移住して5年、福岡に住んでいるこのオレが、めんたい重という店の存在すら知らなかったのである。
地元の人間というのは案外そういうものなのかもしれない。灯台もと暗しとはまさにこのことであった。
店は西中洲にあった。
「元祖博多めんたい重」。
白い暖簾に提灯。木の温もりがある落ち着いた佇まい。入口の階段の前で大空先生がサムズアップしている写真を撮った。この人は本当にカメラの前でポーズを取るのがうまい。四十年以上カメラマンをやってきたオレが言うのだから間違いない。

中に入ると、竹と石の坪庭が見えるカウンター席に通された。照明は暗めで、木のテーブルが温かい。まず生ビールを頼んだ。大空先生はグラスを持ってにっこり笑っている。オレはカーキのニット帽のまま向かい合っている。
「乾杯」

ビールがうまかった。昼間っから飲むビールというのは、なぜこんなにうまいのかと毎回思うのだが、毎回思うだけで答えは出ないのであった。
そして、めんたい重が来た。
蓋を開けた瞬間、オレは声を失った。

有田焼の重箱の中に、有明海苔がぎっしりと敷き詰められている。その海苔の海の上に、昆布巻きの明太子が丸ごと一本、どかんと横たわっているのである。白胡麻が散らされ、大葉が添えられ、糸唐辛子が赤い糸のように絡みついている。
これはもう料理というよりも芸術品なのではないかと思った。
横に添えられた小さな器には特製のたれが入っていて、これを上からかけるのだという。かけた。食べた。
うまい。
とんかつの数千倍うまい。
いや、とんかつに罪はないのだが、この明太子のぷちぷちとした食感と、海苔の磯の香りと、たれの甘辛い旨味が渾然一体となって押し寄せてくる感覚は、とんかつとはまったく別の次元の話なのであった。辛さは「基本」を選んだのだが、それでも舌の上にじわりと広がる辛味が心地よくて、ご飯が瞬時に消えていく。
大空先生はにこにこしながらオレの顔を見ていた。
「でしょう?」
でしょうじゃないのである。なぜ東京モンがこの店を知っていて、福岡に住んでいるオレが知らなかったのか。この理不尽をどこにぶつければいいのかがさっぱりわからないのであった。
しかたがないので、照れ隠しに両手両足を上げて激しく踊り狂ってみたりした。
ウソである。
話は弾んだ。
キンドルの話、コミュニティの話、これからの出版の話。ビールは二杯目に突入していた。木のテーブルの上で箸を転がしながら、オレたちは気がつけば二時間近くも喋っていた。
そこでオレは、大空先生に病気の話をした。
普通に食べているのに体重がどんどん減る。疲れがひどい。朝起きるのがつらい。なんだかわからないが、身体の奥のほうで何かがおかしなことになっているような気がする、と。
大空先生の顔が変わった。
さっきまでにこにこしていた優しい目が、すっと三角に光ったのであった。
「病院には行ったんですか?」
真剣な声だった。
オレはとにかく病院が嫌いだ。注射が嫌いだし、待合室のあの独特の匂いが嫌いだし、白衣を着た人間に「ちょっと横になってください」と言われるあの瞬間が嫌いなのである。
「いや、行ってない」
オレは正直に答えた。
とたんに大空先生の三角の目がさらに鋭くなった。今にもその三角形の目から赤いビームが放たれて、オレは真っ二つにされるのではないかという恐怖を感じた。

「オレに話す前にドクターに話すべきでしょう!」
怒られた。
それもこてんぱんに怒られた。
上品で静かな店の中で、である。
隣のテーブルの客がちらちらとこちらを見ていた。
明太子の上品な佇まいと、大空先生の怒声のコントラストがすさまじかった。
大空先生はひたすら怒った。怒りながらも、その目はずっと心配の色を帯びていた。怒っているのではなく、心配しているのだということは、オレにもわかっていた。わかっていたのだが、怒られている最中というのは「わかっています」とも言いにくいもので、オレはただ黙ってビールの泡を見つめていたのであった。
それから数日後、オレは倒れた。
敗血症。糖尿病。腎臓炎。
九十五キロあった体重が六十九キロまで落ちた。二十六キロである。小学三年生ひとり分くらいの肉が、オレの身体から消えていったことになる。
あとから医者から聞いて知ったのだが、筋肉が溶けていたのだそうだ。
血糖値は六百を超えていた。正常値の上限が百四十くらいだから、もはや血液の中を砂糖水が流れているようなものなのであった。
オレは意識がなくなった。
とにかく寒かった。
病院のベッドの上で、薄い毛布一枚にくるまりながら、オレは震えていた。点滴の管が腕に刺さっていて、あそこにはステントが差し込まれていて、ナースコールのボタンが枕元にあって、天井の蛍光灯がぼんやりと白い光を放っていた。
あのまま死んでもおかしくなかったと思う。
大空先生が言ったとおり、早く病院に行くべきだったのだ。
もっと遅れていたら、どうなっていたかわからない。めんたい重を食べている場合ではなかったのだ。本当は。
長々と書いたが、要するに言いたいことはふたつある。
ひとつ。めんたい重はうまい。有田焼の重箱に鎮座する昆布巻き明太子は、福岡に来たら絶対に食べるべきものである。特製のたれをかけた瞬間に広がるあの香りは、何度思い出しても唾液腺が全力で稼働するのであった。
ふたつ。体調がおかしいと思ったら、すぐに病院に行け。めんたい重を食べている場合ではない。友人に相談している場合でもない。まずドクターに話せ。大空先生の三角ビームが正しかったのだ。
あの日のめんたい重は、オレにとって反省の味である。
うまかった。本当にうまかった。だが、あのうまさの奥に「おまえは馬鹿か」という大空先生の声がずっと響いているのであった。
いやはや、いやはや。
体調が悪い時はすぐに病院に行こう。オレが言うのだから間違いない。オレみたいになりたくなければ、の話だが。
元祖博多めんたい重(西中洲店) 福岡市中央区西中洲6-15 営業時間 7:00〜22:30(L.O.22:00) https://www.mentaiju.com/
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