「どっちでも、いいと思うけどな」|葬送のフリーレン
以前に、『葬送のフリーレン』の勇者ヒンメルが『勇者の剣』を抜くことができなかった、というエピソードについて、人間の「理想投影」と「歴史の書き換え」という視点から記事を書いた。
(「偽物だろうが本物だろうが、関係ない」)
今回は、そのときに取り上げた勇者ヒンメルのセリフを、また別の角度から読み解いてみたいと思う。
真の勇者なら抜けるはずだと言われていた『勇者の剣』を抜くことができなかったヒンメルは、その直後に以下のように言った。
僕は魔王を倒して、世界の平和を取り戻す。
そうすれば、偽物だろうが本物だろうが、関係ない。
そう。関係ないのだ。
本来であれば、魔王討伐に打ち勝った剣が、事後に「本物」と呼ばれるべきではないのか。
もとの剣に付随しているラベルなんて、関係ないのだ。
偽物だろうが、本物だろうが。
そしてヒンメルは事実、レプリカの剣で魔王を倒し、「真の勇者」となった。
偽物でも、本物でも、どっちでもいい。
信じたい方を、信じればいい。
この考え方は、『葬送のフリーレン』における信仰や思想のあり方にも通底しているように思う。
思い出すのは、S1E4『魂の眠る地』だ。
ヒンメル一行が、アイゼンの家族の墓参りをする回想シーンが出てくる。
アイゼンは、かつて自分の村が魔族に襲われた時の話をする。
するとアイゼンの横で、僧侶ハイターがひざまずき、墓に向かって祈りを捧げる。
無信仰のアイゼンは、祈るハイターを見て「人は死んだら無に返る」だけだ、と言う。
フリーレンも、「無に返る」考え方の方が伝統的で、彼女自身も天国には懐疑的だ、と話す。
そこで、ヒンメルがこう言葉をはさむのだ。
どっちでも、いいと思うけどな。
ヒンメルの、この「どっちでもいい」という言葉は、異なる信仰や信条を、突き放す言葉ではない。
むしろ、人それぞれの選択を尊重し受容する、という意味の「どっちでもいい」であると私は解釈した。
そして、ヒンメルの言葉に、ハイターが言葉を重ねる。
僧侶である彼も「実在するかどうかはどうでもいい」と思っていることを明かす。
その理由について、ハイターは以下のように説明する。
でも、たとえ実在しなかったとしても、あるべきものだと思います。
その方が、都合がいいからです。
必死に生きてきた人の行きつく先が、無であっていいはずがありません。
だったら天国で、ぜいたく三昧していると思った方が、いいじゃないですか。
そして4人は、全員で手を合わせ、墓に向かって祈りを捧げる。
私が、大好きなシーンのひとつだ。
異なるものを信仰していようと、無信仰であろうと、関係ない。
大切な人の思想を尊重し、大切な人の大切な人に想いを馳せて共に祈ることができれば、それでいいじゃないか。
ヒンメルたちが、そう伝えているように思うのだ。
信仰も、思想も、生き方も、人それぞれでいい。
このシーンを見ると、私はいつも願ってしまう。
「どっちでも、いいと思うけどな」
そんなふうに自然に言い合える社会が、現実にもあってほしい、と。
余談になるが、私はこのヒンメルの「どっちでも、いいと思うけどな」というセリフと、4人全員で祈りを捧げる場面が好きすぎて、noteの「ぽていとぽたあと」という名前を選んだ。
英語の「potato, potahto」にも、「どっちでもいい」「違いを気にしすぎなくていい」という意味がある。
以下に詳しく書いているので、よければご一読ください。
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