魂に響く神事─住吉大社「観月祭」で感じた歴史の矛盾
中秋の名月に
10月6日、中秋の名月のこの日、大阪・住吉大社で「観月祭」が執り行われました。
月明かりの下、住吉大社を象徴する赤い太鼓橋(反り橋)の上での神事は、絵物語のように美しいものでした。
実はこの日は、前回の「東大寺転害会」の翌日。
まだ疲れは取れていませんでしたが、「中秋の名月」に合わせて日程が組まれているため仕方がありません。
昨年は腰を骨折した直後で断念しているだけに、今回は無理をしてでも鑑賞したかったのです。
昨日は雨でしたが、この日は午後から見事に晴れ。
夜空には煌々と輝く月が浮かんでいました。

輪郭がぼやけるほど輝いている!
翌日が満月なので、少しだけ右下が欠けている。
普段あまり空を見上げることのない私ですが、この夜は改めて月の美しさを実感しました。
明るいうちに境内を散策

この日のお供はお久しぶりの偏光さんです。
なんと、彼女は初すみよっさんなので、境内散策をするためにまだ明るいうちにやってきました。
阿倍野橋駅で待ち合わせして、情緒たっぷりのチンチン電車(阪堺電車)に乗り「住吉鳥居前」で下車。
駅名のとおり、鳥居の前に到着できます。

「住吉大社」は全国に2300社ある住吉神社の総本社で、摂津国一之宮、1800年の歴史を誇る神社なのです。

住吉大社の詳細は過去記事がありますので、今回は割愛します↓↓↓
ちなみに大阪人は「すみよっさん」と言います。
「すみよしたいしゃ」と、正しい発音で言う人はほぼいません(笑)。
さて4つの本殿を丁寧にお参りしたあと、境内を散策しました。

今回は狛犬たちに着目!
住吉大社には本当にたくさんの狛犬がいます。
今回は別の目的で訪れたのですが、目に留まった狛犬だけを記録しておきます。
南側中央鳥居前

チン電を降りてすぐ、中央の鳥居前に見上げるほど大きな狛犬が鎮座しています。
台座を含めると3メートル以上ありそうで、とても全体をアップでは撮れません。
見たところ傷みも少なく、形状から見ても近代の作と分かります。
調べたところ、昭和52年(1977)に復元・建立されたものですが、台座には「嘉永2年(1849)再建」と刻まれています。
つまり、昭和に入ってから古い基壇に新たな狛犬が据えられ、先代の狛犬たちはさらに南に広がる住吉公園へ移設されたとのことです。
今回はその先代を観察できませんでしたが、後日確認したいと思います。
南側東鳥居前

あれ?これは東大寺南大門にある狛犬と同じかたち?

左右とも口を開けた阿形なので、どちらも獅子ということになります。
胸を張って直立し、両脚をピンと伸ばした姿は、まるで東大寺の宋風狛犬そのもの。
明らかに中央の巨大狛犬とは異なるスタイルで、おそらく宋代の像を模したもの、もしくはそれに倣って日本で作られたのでしょう。
こんなところに共通項があるとは、面白い発見です。
種貸社本殿前

平成26年製なので、
見るからに新しい。
児安社
種貸社の敷地内の奥にありました。

文化9年といえば1812年。今年で213年も経つ狛犬です。
かなり彫りは浅くなってはいますが、丸い目と、吽形は立ち耳、阿形は垂れ耳なのが特徴的。
詳しくは私の師匠・komajinさんのnoteをどうぞ。

ホントかな?
観月祭の準備は着々と

一回りして戻ってくると、すでに赤い太鼓橋は通行止めになり、長椅子が整然と並んでいました。
中段付近にロープが張られていて、その前方エリアは関係者のみしか座れませんが、後方エリアは一般参拝者用とのことなので、これは席取りが重要になりそうです。
まだ16時頃でしたが、先に軽食を摂って、出来るだけ前の席を確保することができました。

初めて知る和楽の音符
観月祭の開始予定は18時。まだ1時間以上もあります。
御詠歌を嗜む偏光さんが、持参した「和楽の音符」を見せてくれました。
この日の観月祭でも和歌が詠まれるため、おそらくこの音階が基本になるのでしょう。

そういえば、
ずっと前に「ブラタモリ」で真言宗のお経にも音階があって、楽譜を見ながらタモリさんがお経を上げていたことを思い出しました。
私たちが和楽を知らないのは、教育課程で習わなかったからです。
明治維新後、政府は日本古来の音楽を封印し、「音楽」教科では洋楽式の五線譜を必修化しました。
そのため、昭和後半の平和な時代に生まれた私たちには、和楽譜に触れる機会がなかったのです。
ピアノしか習っていない私のような者は、まさにその典型です。
富国強兵のために列強と肩を並べようとする気概は理解できます。
しかし、なぜ祖国の独自文化まで封印してしまったのか?
どれほど努力しても、それでは「模倣」から抜け出せません。
廃仏毀釈や神仏分離もしかり。
日本人の風習や感性まで切り離す必要があったのか。
そのせいで私たちは本来の日本の「和楽」を知らないまま過ごすことになり、日本人でありながら自国の音楽を知らないことに、少し恥ずかしさを覚えました。
メインイベントは
なかなか始まらない
和歌の音階を学びながら待っていましたが、一向に始まりません。
明治政府への愚痴をこぼしているうちに、予定の18時を過ぎ、太鼓橋はすっかりお月見ステージとして、スタンバイOKなのに始まる気配がないのです。
こんなにも待たすなんて、どういうこと?

そこでハッと気づきました。
私たちは観客ではなく、「神事の立会人」として、自ら望んで勝手に来ているのだと。この祭りは神様のための儀式であり、観賞のための催しではないのです。
おそらく本殿での行事が押していたのでしょう。
結局始まったのは19時過ぎでした。
しつこいようですが、
公表するならHPにも19時からと明記して欲しい。「観月祭」は感動の嵐
待ちに待った観月祭は、それはもう素晴らしいものでした。
直前まで激論を交わしていた私たちも、思わず無言で見入ってしまい、あっという間の約2時間でした。
月明かりと提灯と篝火。
それだけの光源の中で繰り広げられる神事は、崇高で幻想的であり、まるで現世を離れて別世界へワープしたかのようでした。
ハイライトシーンを1分45秒にまとめています。
良かったらどうぞ。
どうして物部は倒されたのだろう?

感無量のまま席を立とうとした時、偏光さんがぽつりと呟きました。
「だってこの舞楽を日本に伝えたのは聖徳太子でしょ? これってどう見ても“神道”やん。」
その一言にハッとしました。
「舞楽」が神道行事だとしたら、仏教を崇拝する聖徳太子が、なぜ将来した?
丁未の乱で神道派の物部守屋を討ったのはなぜ?
丁未の乱(ていびのらん)は、587年に蘇我氏(崇仏派)と物部氏(排仏派)が、仏教の受容を巡って対立し、最終的に蘇我氏が勝利した抗争
聖徳太子は崇仏派なので蘇我氏側に付いたのですから、神道行事である舞楽を推奨するのは矛盾します。
この時はギョッとしたのですが、後で冷静に考えて確認してみると、舞楽には「朝鮮系」と「中国系」の二系統があり、いずれも仏教と共に渡来したもの。
当時の舞楽は間違いなく仏事であり、それが日本の神仏習合の影響でやがて神道の儀礼にも取り入れられたと考えられます。
つまり、舞楽は日本で神道と融合したのです。
そして聖徳太子は一貫して仏教を推奨していたとわかります。
この話からなぜか「忠臣蔵」まで飛び火し、吉良は被害者だとお互いに熱弁していたら、帰り道はあっという間でした(笑)。
こうした話題で盛り上がれる私たち、なんて楽しい変態仲間でしょう。
普通の人ならドン引きされますからね(笑)。

考えてみたら45年ぶりぐらい⁈
高校生の頃はよく乗っていたことを思い出して、
感慨深いものがあったなぁ。
様々な神事や仏事に参加することで、過去に見聞きした歴史などと妙にリンクしてしまう事があります。
そこになんともいえない醍醐味を感じずにいられないのです。
この日もそれをつくづく感じた日となりました。
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