「悲しみの風景」 ショートショート 願い
白い壁にグラスが勢いよく当たり、パリン! と割れた。落ちる間もなく、今度は皿が当たって粉々に砕ける。
「やめろって!」
男性が女の腕をつかみ、物を投げるのを止めさせようとした。両腕を固定され、それでも振りほどこうと身をよじらせている。──それが、私だった。
私と夏生くんには子供がいた。とてもかわいい男の子で、彼が笑うと周りがパアッと明るくなった。光に満ちた日々で、晶の成長を見守ることに私は生きがいを感じていた。
けれど、あの子は行方不明になってしまう。ある嵐の日、ちょっと目を離したすきに玄関から出て行ってしまったのだ。気がついた私は、裸足で外へ出て探し回った。けれど、1週間たっても見つからない。
数ヶ月後、家から遠く離れた山の中で、裸で倒れているのが発見された。変わり果てた姿を目にして、思わず言葉を失った。
「晶……」
呼びかけても返事がない。名前を呼ぶと、
「なあに」と笑顔でぎゅっと抱きついてくれたのに──
理解することができなかった。どうしてこの子は返事をしてくれないの?
「沙由! 沙由!」
名前を呼ばれて抱きしめられ、自分が悲鳴をあげていることに気づく。
「どうして……?」
問いかけても、答えはない。私はただ、涙を流す事しかできなかった。
***
私はベッドルームで目を覚ました。ぼんやりした頭で体を起こす。しばらくすると夏生くんが顔を見せた。
「どう? 体調は」
ぼうっとしたまま、こっくりとうなずく。
「ご飯、食べよっか」
そう言うと、手を取ってリビングまで連れて行ってくれた。テーブルには彼と私の席にトーストと目玉焼き、ベーコンの載った皿が置いてある。なんで2人分しか用意してないんだろう? そう思うと、なぜか頭がズキンと痛んだ。
「う……」
私は頭を押さえる。何か思い出してはいけない事があったような……
「沙由?」
「ああ……ああぁっっ!」
割れるような痛みに耐えきれず、悲鳴をあげる。体が勝手に暴れだし、周囲の物をなぎ払った。ガチャガチャと耳障りな音が、室内に響いて耳朶を打つ。耐えきれず、再度悲鳴をあげて意識を失った。
私はそれ以来、現実か夢か分からない日々を送った。晶と笑いながら楽しく散歩しているかと思えば、どこか知らない所に1人きりで、暗く冷たい空気だけが漂っている。かと思うと、不意にどこからか誰かの声が聞こえてきたりした。
「おまえが晶から目を離したから、いなくなったんだ。あの子が死んだのはおまえのせいだ」
「……やめて‼︎ いや!」
耳をふさいでも、それはしつこく聞こえてくる。胸が張り裂けそうになり、悲鳴を上げた。夏生くんの声も時々聞こえるけれど、どこにいるのか分からない。私は寂しくてたまらなかった。
ある日、気がつくと家のリビングにいた。足元に、小さな箱がある。何だろうと開けてみた。それは、あの子が肌身離さず持っていたポケノンの青いフィギュアだった。そういえば、晶はどこに──
そう考えると、不意に悲しみで胸がいっぱいになる。それはどんどんあふれて、溺れてしまいそうになった。
私は悲鳴をあげる。感情に飲み込まれてしまわないよう、必死でもがいた。
「……‼︎」
不意に誰かの怒鳴る声が聞こえて、顔に衝撃を受ける。少し遅れて頬が熱くなった。
誰かに殴られた……⁈ 怖い。誰? 目を凝らしても、暗くてよく分からない。恐怖に襲われ、必死に抵抗する。相手の勢いが緩んだ、と思ったら、首に手の感触を感じた。それがギリギリと締め上げていく。
息が……
薄れていく意識の中で、今にも泣き出しそうな夫の顔がぼんやりと見えた。目の下に、濃いクマがある。
──ああ、そうか。
私は全てを理解した。彼はずっとそばにいてくれていた。悲嘆にくれる私をそっと抱きしめて、背中を摩ってくれた。なのに、それに気づいていなかった。
そして今、私の終わらない悲しみに終止符を打とうとしてくれている。
夏生くん、ありがとう。私の最後の願いを聞いてくれて。
あなたの笑顔はまるでお日様みたいで、とてもとても大好きでした。
了
花澤薫さんの「悲しみの文芸賞」に参加させていただきました。第2弾です。
#タイトルから書く文芸賞
どうぞよろしくお願いいたします。
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ショートショート集『いつか君と遠く離れても』1話から↓
