雫(しずく)の旅 ショートショート
ある年老いた男がいた。その寿命が尽きてとうとう亡くなった。
その妻は深い悲しみにくれたが、もうどうすることもできない。妻とその家族は葬葬儀を行った。
棺に釘を打つ前、親族や彼の友人、知人が花や写真などを代わる代わる彼の周りへ順々に添えていく。
もうこれで夫の顔を見るのは最後かと思うと、彼女は身を引き裂かれるような思いだった。震える指で白い百合の花をつかみ、彼の顔のそばに入れながらつぶやいた。
「さようなら、またね」
その時に堪えきれずに流した涙が、大理石の固い床にポタリと落ち、やがて蒸発する。それは水蒸気となって雲になり、雨になって地上へしとしと降った。
雨粒は大地や川へ落ち、流れていってそれを魚がゴクリと飲み込んだ。魚は下流へ泳いで行き、さらに大きな魚に食べられ、やがて海へ出る。
魚は海流に乗って大海原を泳ぎ回り、漁師の網に捕らえられた。彼は重い網を引き上げると
「やったな。今日は大漁だ」
と言う。
その船は漁港へ戻り、水揚げされ、魚たちはカチカチに冷凍された。仲卸が買い付け、市場へ運ばれて競りで落札される。そしてスーパーへ運ばれ、一匹ずつパックされて店先に並べられた。それを老婆がネギやほうれん草、豆腐などと一緒に買っていった。
彼女は夕飯のおかずで煮魚にし、家族で
「おいしいね」
と言いながら食べる。
その骨とアラを、飼っている猫に与えた。その猫はネズミを捕り、ネズミの仲間はそれを嘆いた。ネズミ達は見る間に増えて、農家の倉庫に蓄えている米を食い荒らし、その農家は生計を立てるのが難しくなる。
困った彼らは一か八かでクラウドファンティングを募った。すると、同情した人たちが全国各地から寄付をして驚くほど資金が集まった。
農家は喜び、新しく苗を買うことができる。彼らは次の年に実った米を
「ありがとう」
と、返礼品として寄付をした人々に送った。
その米をある母親が炊いて、子どもたちに食べさせる。女の子と弟は
「今日のご飯はいつもよりおいしいね」
と言いながら喜んでおかわりをした。
ある日、女の子と仲のいい友達が遠い町へ転校することになる。学校でお別れ会が開かれ、ジェスチャーゲームやフルーツバスケットなどをしてみんなで楽しんだ。そして、友達と仲のいい幾人かが代表で、クラスの思い出を綴った作文を音読する。
女の子は彼女が好きなキャラクターが描かれたノートを渡して
「またいつか一緒に遊ぼうね」
と言い、2人はハグをして別れを惜しんだ。
友達は転校先で、図工の授業に2人の絵を描く。担任の先生が
「これはいい作品だ」
と市の展覧会に出し、展示される。
その展覧会に行った女の人が、その絵を見て「ノスタルジーを感じる」
というコメントとともに、画像を添付してSNSへ投稿した。
それを見た若い男性が
「こういう絵ってなんか好きだな」
と返信する。彼が勤める会社の同僚が、その話をランチの時間に聞き、大いに盛り上がった。
彼女は展覧会に行き、その絵を眺める。他の絵や、子ども達が作った木の作品なども鑑賞し、彼らの素直でのびのびとした発想に心を動かされた。そして、以前好きだった音楽に関わる仕事をしようと触発され、休みの日もライブハウスでバイトをするようになる。
あるミュージシャンがそこでライブを催し、会場でいそいそと立ち働く彼女をひと目で気に入った。
2人は付き合うようになり、やがて周囲に祝福されながら海の見える教会で結婚する。
数年後、彼の故郷の近くにある、山あいの小さな街で彼らはひっそりと生活を始めた。
何年か経たち、彼女は立ち合い出産で玉のような双子の赤ん坊を産む。
赤ちゃんたちは生まれると、口々に大きな産声をあげた。それはまるで、祝福する教会の鐘のような響きだった。
周りの人々は
「とってもかわいらしい子たちねえ」
と口々に言い合いながら喜ぶ。父親も、いたく感動して
「ありがとう。本当によくがんばったね」
と彼女に礼を言った。
そうして、誰かのための涙はみんなの笑顔をもたらすプレゼントに変わったという。
了(1656字)
ショートショート集『いつか君と遠く離れても』 1話から↓
