『満員電車のホームで、僕は愛ではない何かを叫ぶ ——事象の文法——』②
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第二話 確率論と、予約された座席
木曜の朝。津田沼駅から乗り込んだ総武快速線の車内は、すでに人間の尊厳を奪うほどの密度に達していた。
他人の整髪料と生乾きのシャツの匂いが、肺の奥にまでねっとりとへばりつく。息苦しい湿気の中、ふと視線を泳がせると、数メートル先のドア付近のスペースに澤村の姿があった。
手すりに寄りかかり、涼しい顔でスマートフォンを眺めている。船橋から乗ってきたのだろうか。この、他人の肘や鞄が肋骨に食い込む地獄のような密室で、彼だけは別の次元から切り取られたように無傷だった。額に汗ひとつかいていない。
僕は小さく息を吐き、目の前の座席に座る男子学生のつむじを睨んだ。
この私立高校のブレザーを着た学生は、たぶん新小岩で降りる。いや、降りるはずだ。以前、同じエンブレムの学生が新小岩のホームへ吐き出されていくのを見た記憶があった。これは単なる運頼みではない。三年間、この総武線という泥水の中で揉まれながらすくい上げた、僕なりのささやかな確率論だった。
案の定、新小岩駅に到着すると、学生は重たそうなリュックを背負い直して立ち上がった。
僕は周囲の乗客の視線を牽制しながら、素早く、かつ自然な動作でその空席に腰を下ろす。他人の体温が残る不快な座面だったが、背に腹は代えられない。勝利の瞬間だった。これで新橋まで、ほんの少しだけHPを温存できる。
しかし、ドアが閉まり、電車が再び重い音を立てて走り出した直後だった。
僕の目の前の人の壁が、モーゼの海割れのように不自然に形を変え――一人の老婆が、ぽつんと押し出されてきたのだ。
杖をつき、小刻みに震えている。木曜の、この殺人的な通勤ラッシュになぜ、どうやって乗り込んできたのか。悪趣味な舞台監督が、僕を絶望させるためだけに、天井の暗がりからワイヤーでこっそりと吊り降ろしたとしか思えない唐突さだった。
座席を確保してから、わずか十二秒。
僕は無言のまま立ち上がり、老婆に席を譲った。
「すみませんねえ」というかすれた声を聞きながら、僕は再び、工場のハムのようにつり革にぶら下がった。
不運だと口にしてはいけないのかもしれない。善行は積める時に積むべきだ。だが、僕が三年かけて導き出した確率論が実を結んだわずか十二秒後に、ピンポイントでこの老婆が僕の目の前に「配置」される確率を思うと、心の中で理不尽な神様を罵るくらいは許されるだろう。
圧倒的な徒労感とともに、ふとドア付近へ視線を戻す。
いつ移動したのか、澤村は窓際の座席に深く腰掛け、文庫本を開いていた。しかも彼の前には、壁のように分厚い胸板をしたラグビー部出身のような屈強な若手サラリーマンが立ちはだかり、周囲からの圧迫を完璧に防ぐテトラポッドの役割を果たしている。
澤村はページをめくる手を止めず、ただ静かに活字を追っていた。
僕の泥臭い確率論をあざ笑うかのように。最初からその無風の特等席が、彼のためだけに予約されていたとしか思えない、ひどく滑らかな光景だった。
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