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『満員電車のホームで、僕は愛ではない何かを叫ぶ ——事象の文法——』③

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第三話 ピンクの粉塵と、完璧な不在

 四月中旬。その日の朝、斜め前の澤村のデスクは空席だった。

 朝礼で伝えられた欠席の理由は「自宅マンションのスマートロックの電池が突然切れ、部屋から物理的に出られなくなったため、業者を呼んでいる」という、ひどく間抜けなものだった。

 いつも涼しい顔で定時に帰る完璧な男が、自室のちっぽけな電子錠に裏切られ、スウェット姿のまま途方に暮れている。その滑稽な姿を想像して、僕は心の中で少しだけ溜飲を下げた。

 なんだ。あいつだって、ただの人間じゃないか。物理法則のエラーや予測不能な事態に振り回される、僕らと同じちっぽけな存在なんだ。

 しかし、僕のそのささやかな優越感は、午前十一時を過ぎた頃に無惨に打ち砕かれることになった。フロアの空気に、じわじわと冷たい緊張が走り始めたのだ。

 岩巻が、人事部にいる同期のネットワークから「厄災」の情報を仕入れてきたらしい。

「氷室社長のゲリラ視察だ。今日の十四時きっかりに、この部署を回るらしいぞ」

 岩巻が周囲に聞こえるか聞こえないかの絶妙な声量で言った途端、フロアの湿度がべっとりと不快なものに変わった。

 ほどなくして、浅沼課長が足音ひとつ立てずに僕らの島へ近づいてきた。血の通っていない深海魚のような目をした彼は、絶対に自分の口からはフロア全体への指示を出さない。

 浅沼は岩巻の背後にそろりと立つと、その太い首筋に顔を近づけ、粘液質の声でボソボソと何かを囁いた。料亭の不祥事会見で囁く女将のような、極めて陰湿で、責任の所在を完璧に隠蔽するボリュームだ。

 岩巻は浅沼の囁きに何度か深く頷き、さも今、自分が組織の危機を救う重大な決断を下したかのような顔で勢いよく立ち上がった。

「いいかお前ら! 社長がいらっしゃるまでに、デスク周りの私物は全部隠せ。指紋ひとつ残すなよ!」

 岩巻の声が、調整の狂ったメガホンのように空気を震わせた。浅沼はすでに、自分のデスクへ戻る途中の通路で、誰にも気づかれないような微かな安堵の笑みを浮かべていた。危険な号令はすべて下部組織に叫ばせる。これが彼の生存戦略だ。

 岩巻の怒号を聞きながら、僕は湿気たマッチ棒のような疲労を感じていた。

 普段、岩巻のデスクはひどい有様だ。いつ買ったのかわからない海外製の巨大なプロテイン容器や、丸まったスポーツ紙が地層のように積み重なっている。しかし今日に限って、彼のデスクの上は不自然なほど綺麗さっぱり片付いていた。

 もちろん、彼が心を入れ替えたわけではない。行き場を失ったその無秩序は、手近な段ボール箱に無造作に詰め込まれ、あろうことか僕のデスクとキャビネットの間の足元に、「仮置き」という名目で強引に押し込まれていた。

 十四時。

 フロアの空気が急激に氷点下まで冷え込んだ。
 重厚な足音とともに、社長の氷室圭介と、取り巻きの役員たちが姿を現した。

 氷室は、浅沼と同じブランドの、しかし彼の肉体に合わせて完璧に計算し尽くされたスリーピースのスーツを身にまとっていた。銀縁の眼鏡の奥の目は、感情という揺らぎを一切持たない冷徹なAIのように澄み切っている。浅沼が着るとただの不気味な布切れが、氷室が着ると、この不条理な会社という巨大組織を統べる絶対者の、美しく冷酷な装甲に見えた。

 浅沼は岩巻の斜め後ろにぴったりと張り付き、揉み手をしている。決して自分のデスクで堂々と待ち構えず、岩巻の巨体を盾にする完璧な布陣だ。

 僕は息を殺し、ただこの厄災が目立たずに通り過ぎることだけを祈っていた。
 社長の列が、僕らのデスクの横を通過しようとした、まさにその時だった。

 先頭を歩く取り巻きの一人が、不注意で僕の足元の段ボール箱に革靴のつま先を引っ掛けた。
 ガンッ、という鈍い音とともに箱のバランスが崩れる。

 次の瞬間、フタの緩んでいた二キログラム入りの徳用プロテイン容器が弾け飛び、静まり返ったフロアに、人工的なストロベリーの匂いが爆発した。

 極彩色のピンクの粉塵が、煙幕のように空中に舞い上がる。
 氷室の足が止まった。彼は一切の表情を動かさず、ただ靴の先に舞い降りたピンクの粉を氷のように冷たい目で見下ろした。それを見た取り巻きの役員たちが、親の仇でも見るような目で僕を睨みつける。

 浅沼が、岩巻の背後からすっと顔を出し、血走った目で僕を睨みつけた。そしてまた、岩巻の耳元で囁く。

「山野辺……お前という奴は、神聖な職場にいったい何を持ち込んだ!」

 岩巻が、大げさに僕を叱責した。「まったく、困った後輩ですよ」とでも言いたげな顔で、わざとらしく首を横に振る。すべての元凶は彼の無秩序だというのに。

 「あんたのプロテインでしょ」という言葉が喉の先まで出かかった。

 しかし、僕はダークスーツをうっすらとピンク色に染めながら、ただ俯いて沈黙するしかなかった。これが会社だ。誰かの怠慢のエントロピーは、必ず立場の弱い者の足元で爆発する。

 甘ったるいストロベリーの匂いにむせながら、僕はふと、斜め前の無人のデスクに目をやった。
 チリひとつ落ちていない、完璧に無傷な空間。整然と置かれたクリアファイルには、ヘルメットを被った丸っこい鳥のキャラクターの付箋が、一枚だけ呑気に貼られている。

 そのとき、僕の脳裏に電流のような気づきが走った。
 スマートロックの電池切れ。そんな間抜けなトラブルは、果たして本当に「不運」だったのだろうか。
 もし彼が、今日このフロアに巨大な不運の渦が巻き起こることを、何か野生の勘のようなもので事前に読み取っていたとしたら?

 あえて電池の切れたスマートロックを放置し、自分自身を部屋に「隔離」することで、このピンクの粉塵と理不尽な叱責から完璧に逃れ去ったのだとしたら。

 さもなくば、彼は神の恩寵を一身に受ける生まれながらのラッキーボーイなのだろうか。
 僕の足元には、無残に散らばったピンクの粉。

 そして斜め前には、神がかり的な「不在」というバリアに守られた、澤村の静かな空席があった。


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