『満員電車のホームで、僕は愛ではない何かを叫ぶ ——事象の文法——』①
あらすじ
新橋の会社で働く山野辺は、定時に帰って二歳の息子の顔を見ることだけを望む、くたびれた会社員だ。
ある日、同じ部署に異動してきた澤村という男の存在が、彼の日常を静かに揺さぶり始める。澤村はいつも無傷で定時に帰り、面倒ごとを一切引き受けない。だが山野辺は気づく。
それが単なる要領の良さではなく、世界の「事象の文法」を読み、極小のノイズで運の流れをわずかに変える技術であることを。
会社という名の巨大な濾過装置が、下層の人間から不運だけを吸い上げ、上層へ幸運を送り届ける構造の中で、二人はやがて奇妙な共犯関係を結ぶ。
そして、満員電車のホームで、山野辺は生まれて初めて、声の限りに叫ぶことになる。
第一話 しなしなの布と、異物の背中
僕はしなしなの布のようにくたびれた会社員だった。ただ一つのささやかな望みは、定時にあがって、起きているうちに二歳の息子の顔が見たい。本当にただそれだけ。そんな男だ。彼――澤村という異物と、この新橋の本社で再会するまでは。
十七時五十九分。
フロアに滞留する空気が、一日のうちで最も重く、不快な粘度を持つ時間帯だ。
デスクトップPCをシャットダウンし、息を殺してデスクの下のカバンに指をかけた瞬間。視界の端で、黒い影が微かに動くのを感じた。
「山野辺君、悪いがこれ、明日の朝イチまでに頼みます」
背後から、ぬまったような声が降ってきた。課長の浅沼だ。頬骨が張り、ギョロリと浮き出た目は決して部下とまっすぐ視線を合わせようとはしない。仕立ての良いイタリア製のスーツが少し大きめに見える。猫背気味で痩せ細った立ち姿は、ダークソウルに出てきてもおかしくない不気味な雰囲気を帯びていた。
浅沼は決して自分では怒鳴らない。彼はきまって、定時前に僕の背後にそろりと現れる。もっとも抵抗しないヘタリきった胡瓜のような僕に面倒ごとを押し付けるのだ。
今日も駄目だった。絶望とともに顔を上げると、斜め前のデスクの澤村が、涼しい顔をしてオフィスのドアを抜けていくところだった。
彼が席を立つ直前、ふとデスクの上の分厚いファイルを数ミリだけずらしたように見えた。ただそれだけだ。だがその微小な動作が防波堤になったかのように、浅沼の厄介な視線は見事に澤村を滑り落ち、僕のところに漂着したのだ。
澤村はまるで、最初からこの重苦しい空間に存在していなかったかのように、誰の注意も引かず、一切の摩擦を感じさせない滑らかな足取りでオフィスのドアを抜けていった。
「山野辺、頑張っているな」
隣の席から、同情と、ほんの少しの安堵による優越感を混ぜ合わせたような声が降ってきた。四期上の先輩、岩巻だ。
ガハガハという擬音がこれほど似合う男もいない。坊主頭で恵まれた体躯を持つ彼は、冷徹に管理されたこのオフィスにおいて、一人だけ昭和の任侠映画から迷い込んできたような異質な存在感を放っている。さながら海坊主だ。
かつて「お前のその長髪はなんだ。俺をリスペクトしているなら髪型から見習え」と言い放ち、新入社員を震え上がらせたこともある。
ただ、浅沼が岩巻の背後に立ち、その太い首筋に何かを囁く時だけ、彼は不気味なほどに従順になる。あの巨体が、まるで操り人形のように素直に動き出す瞬間を、僕は何度か目撃していた。それが少しだけ、不憫だと思うこともある。
「それにしても澤村の奴は、四月に異動してきたばかりなのにもう定時か。エリート様は仕事の要領がいいのかねえ」
カタカタと無意味にマウスをクリックしながら、岩巻は続ける。その音が他の人の1.4倍くらい大きいのは恵まれた体躯のせいだろうか。
「それにひきかえ、山野辺は頑張ってるよ。昭和のモーレツ社員がこの会社を大きくしてきたんだ。ガッツが一番だよな。まあ、俺たち平成生まれだけど」
「……まあ、そうですね」
僕はそれだけ答えて、浅沼から押し付けられた分厚いファイルを開いた。
岩巻は自分の気の利いた冗談に満足したのか、自身のモニターへ視線を戻した。僕はファイルの冷たい一ページ目をめくりながら、もう二度と追いつけないだろう澤村の無傷な背中を、ただぼんやりと思い出していた。
気づけば、僕は新橋から総武快速線に揺られていた。
暗い車窓に映るやつれた男を眺める。そこには、月曜の夜だというのにすでに五歳は年老いた自分の姿があった。外に視線を移すと、暗闇のなか、無機質なビル群の背後にほのかに桜の木が見え隠れした。春の息吹すら、窓ガラスを隔てた遠い世界のものに思える。
徐々に高層の建物が少なくなり、約三十五分後。僕は無心で津田沼の駅を降りた。
自宅マンションのドアを、時限爆弾の配線を切断するような手つきで極めて慎重に開ける。案の定、リビングの奥から妻のひそめた声が降ってきた。
「起きちゃうから、物音たてないで」
僕はくたびれたスーツのまま、暗闇に向かって小さく頷いた。
寝室のドアの向こうからは、今日も起きているうちに会えなかった二歳の息子の、規則正しい寝息が聞こえてくる。それは先ほど車窓から見た、夜の底に沈むほのかな桜の白さにも似て、僕が触れることの叶わない、圧倒的に静かで無垢な領域だった。
世間には『おしどり夫婦』という言葉があるが、現実のおしどりは毎年つがいを変えるらしい。僕たち夫婦はもはや、世間で言うところのおしどり夫婦とは呼べないかもしれない。すれ違い、疲弊し、最低限の業務連絡だけが交わされる関係。けれど、現実なんて、いつでもどこでもそんなものだ。
洗面所で薄暗い鏡と向き合いながら、僕はひどく疲れた自分の顔を見つめた。
明日もまた、この澱んだ空気の底で息を止めながら、誰かが吐き出した理不尽な泥をすすってやり過ごすのだろう。
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