直感を信じる
(少し長めの記事ですので、最下部に【要約】をつけました)
情報 → 感情 → 決心 → 生きる
「生きる」とは、「決心の連続」であると思っています。決心には大小あり、今日の朝ごはんを何にしようか、どんな服を着て過ごそうかといったものから、どこに住むか、どんな家を買うか、どんな人と一緒に過ごそうかといったものまで多岐にわたります。今日はのんびり過ごそう、なんてのもありますねw
決心をするには、その手掛かりとなる情報が必要です。そして、情報を基に判断し、こうしようと思える感情が必要です。
つまり、この「情報」と「感情」がどのように形成されるかを紐解けば、決心するしくみ、ひいては生きることの本質を少しは明らかにできるのではと思い至りました。
情報とは
まず、「情報」とは、一次的には身体のセンサーがとらえるものです。一般的には、五感と呼ばれる 視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚 がセンサーに相当します。それらに加えて、第六感や肌感覚と言われるような、明確には認知されていないセンサーもおそらくあるのでしょう。これらで知覚したものは全て情報となります。
さらに、今まで蓄積した情報を使ってあれこれと推察や想像した結果も、二次的な情報となり得ます。
実は、この「情報」というものの扱い方次第で、「感情」の育まれ方が大きく変わると考えています。
情報を扱いやすくするために
話は少し回り道をしますが、悠久の時を経て、現代の自分たちがより知能的に進化できたのは、ある行為が爆発的に行われるようになったためであると確信しています。これによって、あらゆる情報を体系化して継承し、さらなる進化の礎を築くことができました。その正体は、「定義」と呼ばれる行為です。
知覚した情報を、より多くの人が理解でき、より広く共有できるようにするため、太古の昔からさまざまな表現手法が構築されています。例えば、壁画や人型文字、数字などの視覚的な表現手法、音楽などの聴覚的な表現手法などです。
これらの表現手法を解釈するために行われてきたのが「定義」です。この文字はこう読み、こう解釈する。この絵が表していることはこういうことだ。平均律の12音階はこのような周波数とし、ドレミファソラシやシャープ・フラットとの組み合わせで表現する、といった具合です。
さらに、幅広い分野で行われてきた「定義」を、教育や自己学習によって定着化するしくみが構築された結果、現代の自分たちは、先代たちが得た・築き上げた情報をより多く解釈できるようになり、それを継承しながらさらに進化していくことができています。もし定義がなければ、今こうして note を書き、それを読んでいただくことなんて実現できていなかったのでしょう。
このように、恩恵が非常に大きな「定義」という行為ですが、実はこれによって、現代の自分たちに生み出されている不幸があると感じています。
定義によって制約される「情報の表現」
情報を表現する方法には、絵を描いたり音楽にしたりといったさまざまな方法がありますが、ここでは比較的多くの方が用いている「言葉」という表現手法に着目してみます。
例えば、得た情報を表現するために、赤色・こじんまり・ぷっくり・かわいらしいといった、国語辞典に定義されているような言葉を主に使います。てんとう虫を見たと仮定し、それがてんとう虫であると知らない状態で、視覚から得た情報を言葉で表現してみたのですが、そうだねと思う方もいれば、かわいくはないでしょうと思う方もいらっしゃると思います。
つまり、表現手法に頼った時点で「主観」が入ることになります。したがって、言葉を受け取る相手の「価値観」や「感性」との相性問題が出てきます。さらには、情報が必ず欠落します。てんとう虫はてんとう虫なのです。それを別の言葉で表現した時点で、ある側面だけを切り取ったものとなってしまいます。これを逆手に取ったお題当てクイズのような遊びもありますね。
さて、話がここで留まるのであればまだ良いのですが、実は、このようなことは自分自身の中でも起こってしまいがちです。
表現の不完全による感情の誤誘導
得た情報を整理するために、ともすれば言葉という表現手法に頼ることが多いです。なまじ普段から使い慣れた表現手法であるがゆえに、情報を言葉に変換し、頭の中でその言葉を理路整然と並べて理屈をつけ、やってみたい・やりたくないといった感情に納得性を与え、決心へ繋げるというプロセスが日常化しているように思います。
しかし、ここで大きな問題が2つほどあると考えています。
ひとつは上述した情報の欠落です。自分の感情を決定づけるのに必要となる情報であるにも関わらず、言葉に変換してしまった時点でそれは不完全なものとなっています。理屈で整理しやすい形にはなりますが、失ってはいけない情報を、その時の主観で欠落させてしまっている可能性があります。
もうひとつは言葉(表現手法)を使いこなすスキルです。言葉のいろいろな定義を幅広く学習できていれば、それらを使いこなしてより高度に頭の中を整理し、より納得性のある感情へ繋げることができるのかもしれません。しかし、それでも情報の欠落があります。ましてや言葉を使いこなすスキルが足らない場合は、かなり絶望的な状況となる可能性が高いです。
例えば、いろいろと知覚した情報を、総じて「やばい」とか「すげえ」といった言葉でしか表現できない場合です。実は最近、自分にもこの傾向があります。得た情報を効率良く端的に表現するには、簡単でしかも共通認識を確保しやすい言葉を使うのが楽だからです。
しかし、これに慣れてしまうと、頭の中での情報整理も端的になりすぎて、「やばい」→ 感情が昂る → やろうと決心する、といった短絡的な決心につながる可能性が高くなります。物事がシンプルになって良い面もありますが、その裏に隠れている危険性などの見過ごしてはいけない情報が無視されてしまいます。
逆も然りです。例えば「こわい」→ 感情が閉ざされる → やめようと決心する、といった短絡的な決心も起こり得ます。一見こわいと思えることでも、実は自分が本当に求めているワクワクが隠されているのかもしれません。
表現の制約をとっぱらうための一計
ここまで長々と回り道してしまいましたが、そこで大切にしたいのが「直感」です。
あらゆるものの定義が進み、さまざまな表現手法が便利なツールとして普及した結果、その弊害として情報の欠落や齟齬が発生するようになり、感情が誤った方向に誘導され、自分が望まない決心をしてしまいやすい環境に自分たちは置かれているのかもしれません。
そこで、情報はありのままの情報として捉え、あらゆる表現手法では表すことのできない「直感」を頼りに感情を揺り動かし、決心を行う、というプロセスも時として大切だと思っています。いわゆる「なんとなく」という感覚です。決心に至ったプロセスを、言葉という言わば不完全なツールで表現し尽くせる必要なんてないのですよね。
直感というギフテッドな才能(素質)
使い慣れた便利な道具があると、どうしてもそれに頼りたくなります。しかし、人間の根源的な能力に目を向け、それに頼ることが、本当に自分のしたいことを見つける最適解となる可能性も無視できないぐらいに高いと感じています。
たしかに、直感に頼ることは、理屈で説明できない何かを頼ることであり、不安が大きく周囲の理解も得にくく失敗を招くことも多いです。一方、場数を踏めば、みるみるうちに直感の能力は磨き上がっていくのも事実です。いわゆる目利きができる状態になり、それが「自信」へと繋がっていきます。
日常的に直感を使う機会をつくることが、長い目で見たときに、自分の本当に納得できる決心を、自信を持って進めていけることに繋がり、自分の「生きる」をよりこうありたいと思える方向へ持っていけるのでは、と日々考察している次第です。
追記:
直感を信じると、裏切られたような気持ちが発生しにくいのも利点です。理屈が成立しない決心なので、失敗しても諦めがつきます。だって自分を信じて失敗したのだから、仕方ないよねという感じです。ましてや他人がとやかく口をはさめる余地はゼロです。他責ではなく自責、どこまでも主体的です。そのため、失敗してもいずれは自信へとつながっていきます。あの時の失敗が今では糧になっているなと、そのように振り返れる日が必ず来ます、経験的に。ただ、無茶はしないようにしましょうね、お互いに。
追記2:
言葉はたしかに不完全ですが、偉大な表現手法です。この記事も本を正せば言葉です。想いは形にしないと伝わりません。実は、欠点として紹介した「情報の欠落」を上手く使うライフハックがあります。これはまた別の記事として執筆してみたいと思います。
この記事を引用している別の記事
【要約】
言葉などの表現手法と定義が広まったおかげで、より広範に情報を伝達できる恩恵を被っているが、そこには情報の欠落や伝達の齟齬が必ずあり、それは自分の頭の中での決心にも同様に影響する。時には直感に従ったありのままの情報を本能的に「なんとなく」感じ、決心していくこともアリなのでは、というお話です。
