短編小説|死ぬ予定ですが、母は今日も元気です|第3話
【これまでのお話】
第1話「同じ日に」 | 第2話「目も笑ってたよ」
第3話「賭ける」
7月。
温泉旅行のパンフレットを、
引き出しの奥に押し込んだ。
9月に、
誠さんと2人で行く温泉を予約していた。
キャンセルの電話を切ったあと、
誠さんが台所に入ってきた。
「温泉、どうした?やめちゃうの?」
「やーめた」
「なんでよー?」
「更年期。遠出がしんどくて」
誠さんが「……そうか」と言って、
椅子に腰を下ろした。
「あのかわいい直子ちゃんも更年期ねー」
「心は永遠のハタチだけどね!」
誠さんが笑った。
「まあ、もうすぐ定年だし。
落ち着いたら、ゆっくり行けばいいか。
1ヶ月くらいな」
「……そうだね」
誠さんに、まだ言えていない。
バスで、30分かけて病院に来た。
今日は、採血の後に先生の診察があった。
先生がモニターを見ながら言った。
「前回より腫瘍マーカーが上がっています。
画像の結果も踏まえると、
現在の治療では抑えきれなくなっています。
より治療強度の高い抗がん剤に
切り替えることをお勧めします」
「……そうなんですか……
副作用とか、変わりますか?」
先生が、少し止まった。
「今より吐き気、倦怠感が増える方が多いです。
それから、脱毛も」
「髪……抜けますか、やっぱり」
「抜け方が早くなる方が多いです」
わたしは天井を見た。
蛍光灯が、白かった。
「効果が出た場合は?」
「腫瘍の進行を
より強く抑えられる可能性があります。
結果的に数ヶ月単位で長く過ごせた方もいます」
数ヶ月。
「……効かなかった場合は?」
「現在の治療と大きく変わらない可能性もあります。
ただ体への負荷は増えます」
しばらく、返事ができなかった。
「つまり、賭けですね。
負けたら、しんどい思いをして終わるだけ」
先生は黙った。
「……霜月さん、それでも切り替えますか?」
「……先生、その前に………
左腕から今までの薬、
右腕から新しい薬を点滴みたいに、
もっと効き目あげられませんか?」
先生が小さく息をついた。
「そんな裏技があれば、私が論文を書いてますね。
残念ながら、そんな都合よく効き目を
足し算できるわけではないんです」
「……ですよね」
手のひらが、汗ばんでいた。
「やります」
わたしは先生を見た。
「わたし、11月、予定あるんですよ」
先生が顔を上げた。
「初孫が、生まれるんです」
先生が黙った。
「なので、できれば」
そこまで言って、やめた。
先生は静かにうなずいた。
「……わかりました。治療が強くなります。
繰り返し投与を安全に行うために、
胸に小さなポートを入れる処置を行いましょう。
それから、追加の痛み止めも出しておきますね」
胸の処置の日と、
次の点滴の日程を決めて、診察室を出た。
廊下を歩いた。
途中で立ち止まった。
背中が、痛かった。
壁に手をついて、一息ついた。
エレベーターで1階に下りた。
会計へ向かう途中、産婦人科の前を通った。
ベンチで、拓也さんがスマホを見ていた。
「あれ、拓也さん?」
拓也さんが顔を上げた。
「あ、おかあさん!
……今日はどうされたんですか?」
「えっと、定期的に来てるの。検査ね」
「そうですか……」
「拓也さんは、さくらの検診?」
「はい。今日は休みで、
エコーだけ一緒に見せてもらって、
あとは外で待ってます」
拓也さんがスマホをポケットにしまった。
「あの、おかあさん。
少しだけ時間ありますか?」
「ええ、あるけど」
「ちょっと、外出ませんか?」
目が、真剣だった。
中庭へ出た。
ベンチに腰を下ろした。
目の前で、ヒマワリが咲いていた。
子どもの泣き声が、どこか遠くで聞こえた。
しばらく、空を見ていた。
「おかあさん……」
拓也さんが、空を見たまま言った。
「俺を生んでくれた母は、もう死んでいます」
「そうだね……」
わたしは黙った。
「いつも明るくて、元気だったんです。
死ぬ前なんて、不自然なくらい……
たぶん、俺に心配させないように」
ヒマワリが、揺れた。
「おかあさんは、いつも通り、
元気なだけ……ですよね?」
言葉が、すぐには出てこなかった。
拓也さんのお母さんのことを、想った。
「……実はさ……」
風が、強くなった。
「わたし、末期のがん、なんだ」
そのあと、
わたしは、拓也さんに、全部話した。
拓也さんは、最後まで黙って聞いていた。
拓也さんの喉が、動いた。
「さくらには言ってない。わかるでしょ?」
「…………はい」
「孫の顔、
見られるかどうかもわからないんだ」
拓也さんは、言葉を探しているようだった。
「おとうさんは……知っているんですよね?」
「まだ……」
「え……」
わたしは、目を伏せた。
「……夫婦だから、かな。
嬉しいことは、一番に話したいでしょ。
でも悲しいことは……一番言えないんだよね」
拓也さんが、黙った。
「……すみません」
しばらくして、
「……おかあさん」
「うん」
「おとうさんには、絶対言ってください」
わたしは、黙った。
「夫婦なんですよね」
「……うん」
拓也さんが、少し顔をそむけた。
「拓也さん……」
「はい……」
「さくらとね、
生まれてくる子を、ずっと支えてほしい。
わたしがいなくなった後も。ずっと」
拓也さんの肩が、小さく動いた。
「……もちろん……もちろんです」
声が、かすれていた。
「ありがとう。安心した」
肩の力が、少し抜けた。
わたしはバッグから封筒を取り出した。
「これ、さくらに。
……渡すタイミングは、拓也さんに任せる」
拓也さんは、すぐには動かなかった。
拓也さんが受け取った。
両手だった。
「重くないし、卒業証書でもないから」
拓也さんが、泣きそうな顔で笑った。
しばらくして、拓也さんが言った。
「……おかあさん、
実は子どもの名前、もう決めてるんです」
「えっ、ほんと?」
「……はい、聞きますか?」
わたしは考えた。
中庭を、小さな男の子が走っていった。
「ううん。言わなくていい」
「……そうですか」
「生まれてから聞く」
病院の帰りに、いつもの美容院へ寄った。
「あ、霜月さん、こんにちは。
今日はご予約……でしたっけ?」
「いえ、急に来ちゃって」
「大丈夫ですよ。ちょうど空いてますから」
席に案内された。
「今日は、どうされますか?」
「えーと……」
鏡の中の自分を見た。
首筋が前より細くなっていた。
頬も、少しこけていた。
「全部、いっちゃってください」
美容師さんが手を止めた。
「……えっと、全部と言いますと」
「ベリーショートで!」
「え…………かなり短くなりますよ。
カタログお持ちしましょうか」
「いいです。
ちょっと、気合い入れようかと思って」
美容師さんが
「は、はい……」と言った。
「どうせ夫は、気づかないかな」
「さすがに気づくと……」
「たぶん。金髪にしても気づかない人だから」
美容師さんが笑った。
シャンプーをしてもらった後、席に戻った。
ハサミの音が続いた。
パチ、パチ、と床に落ちるたびに、
鏡の中の自分が変わっていった。
知らない人みたいだった。
でも、鏡から目をそらさなかった。
家に着いた。
夕飯の支度をした。
誠さんが帰ってきた。
玄関を開ける音がして、わたしは玄関に出た。
「ただい……ま?」
誠さんがこっちを見た。
動きが止まった。
「えっと……直子……髪……」
「切った」
「……なんで」
「気分」
誠さんが、鞄を持ったまま、じっと見ていた。
「……すごく似合ってる」
「でしょ?」
わたしはその場でくるっと一回転した。
誠さんが
「……何してんの?」と言った。
「お披露目!」
「えっ?」
「誠さんに」
二人で笑った。
夕食の時間。
誠さんが冷蔵庫を開けた。
「たらこマヨネーズ、賞味期限切れてるよー、
新しいのどこー?
あれ、ちくわも切れてるな、あれ、これも……」
「冷蔵庫の横の棚にあるよ。上から2段目。
少しくらい過ぎても大丈夫よ。気にしすぎ」
「見てるけどないよー、見つけるの無理ゲー!」
わたしは吹き出した。
あの歳で「無理ゲー!」と言った。
「あった!」
誠さんが
たらこマヨネーズを出した。
勝ち誇ったみたいに持ってきた。
嬉しそうに、ちくわをかじっていた。
しばらくして、
「…………誠さん」
「ん?」
「今日は……ちょっと大事な話があってね」
誠さんの顔が、変わった。
テレビのリモコンを取った。
バラエティ番組の笑い声が消えた。
リビングが、静かになった。
「…………実はね」
間があった。
「えーと、
すごく言いにくいんだけど……」
「うん、ゆっくりでいいよ」
誠さんは黙って待っていた。
「……トイレットペーパー、間違えてさ。
シングル、買っちゃった」
誠さんが固まった。
「は?……それだけ?」
「それだけ」
誠さんが「なんだよ」と言った。
わたしは笑った。
誠さんも、遅れて笑った。
明日にしよう、と思った。
食事後、台所で食器を洗っていた。
誠さんが、隣に立った。
「手伝う」
「え、珍しい!
誠さんってジェントルマンなのね」
「昔からだろ」
誠さんは笑った。
誠さんの視線が、
わたしの腕のあたりで止まった。
点滴のせいで、かさぶたと黒ずみが、
両腕の手首の上にいくつもある。
「……なあ、直子、
そろそろ本当のこと言ってくれよ。
何年一緒にいると思ってんだよ」
「……29年。
出会ってからを数えると32年……でしょ?」
「……だな」
わたしは、深呼吸をした。
もう一度、した。
「……じゃあ言うね」
誠さんが、わたしを見ていた。
「わたし、
すい臓がん……なんだって」
誠さんは、何も言わなかった。
「それも末期でね…………もう、長くないって」
流しっぱなしの水の音だけが、続いていた。
「…………おい、直子」
少し間があった。
「トイレットペーパーの次は、どんな冗談だよ」
誠さんが、笑った。
うまく笑えていなかった。
声が、震えていた。
・・・続く
読んでくださって、本当にありがとうございます。
※本作はフィクションです。
マガジン(第1話~最終話まとめ)
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