<書評>『水いらず』 『悪魔と神』
『水いらずIntimite』ジャンポール・サルトル Jean-Paul Sartre著 伊吹武彦・白井浩司・窪田啓作・中村真一郎訳 新潮文庫 1971年 1976年第9刷 原著は、1938年 パリ

『悪魔と神Le Diable et Le Bon Dieu』ジャンポール・サルトル Jean-Paul Sartre著 生島遼一訳 新潮文庫 1971年 1977年第7刷 原著は、1951年、パリ

第二次世界大戦後の日本で、実存主義文学兼共産主義思想文学として、知識人の間に大流行したジャンポール・サルトルの初期の作品である。なお、サルトルの著名な小説としては「嘔吐」があるが、私は読む予定はないので、サルトルの小説作品についての書評は本作だけとなる。また、哲学作品である『存在と無』や『弁証法的理性批判』も読む予定はない。理由は、いずれも長大過ぎる上に、読む気持ちが湧いてこないためである。
一方、昔興味を持って買った(一時の気の迷い?)サルトルの『聖ジュネSaint Genet,Comedien et Martyr(直訳すれば、聖ジュネ、喜劇役者にして殉教者)』)があるので、今後書評をアップする予定となっている。
『水入らず Intimit』
標題作の他に四つの短編を含む短編集である。それぞれの短編について個別に感想を述べたい。
「水入らず Intimite」
男である作者サルトルが、女の登場人物になって物語を展開するという意外な語り口になっている。しかもその内容は、不能の夫に関するものに加えて、異性及び同姓の友人・知人との痴話げんかと下ネタが次々と語られていくものである。ところで日本の左翼活動家には、反体制ということを共通の理由にしているためか、エロ雑誌などの出版に関係している者が多くいる。また、連合赤軍事件の一部となったように男女の恋愛問題から殺人まで発展する事例があるくらい、高尚な左翼政治思想とは正反対の形而下の男女問題を抱えている場合が多い。そして著者のサルトルは「戦う左翼文化人」ということで活動してきたから、こうした痴話げんかの記述が多い小説を書くのは自然なことだ。また終戦直後の左翼思想全盛時代の日本で、この小説がとても評判になったということは以上の論理から当然に導きだされる現象であったと考える。
一方、現代思想別冊のサルトル特集(noteに書評を投稿している)で、サルトルの死亡後のフランス人の感想として紹介されている「過去の作家」という言葉が如実に示すとおり、ここ日本でもサルトルは「過去の作家」になっている。しかもこの手のエロ話であれば、日本には谷崎潤一郎、渡辺淳一、もっと言えば川上宗勲、宇野鴻一郎という大家が沢山いるから、わざわざサルトルの出る幕はない。
一応この作品のストーリーを紹介しておく。不能の男と結婚している女が、知人の男とセックスをしてパリからニースへ逃げようとするが、その男とのセックスに満足しない(というか、自分が男とのセックスに馴染まないことを知った)ため、ニース行きの約束をすっぽかして、元の不能の男の元に戻るが、知人の男に対しては「愛しているが、不能の男(夫)を私が必要としている」というわけの分からない理由を伝える。それを知った友人の女が深く考える=人生の不条理を知る、というストーリーである。
しかし、読んでいてまったく面白くもなんともない作品である。オチもなにもなく、しかも精神病的な自己中心主義の自分勝手な女の理屈を、延々と読まされる内容にあくびが出るだけである。恐らくこの主人公の女性像がボーヴォワールの主張する「性に自由な新しい女」ということなのだろうが、発表当時はそれなりに話題になっても、「過去の人」が書いた作品としか見なせない今となっては、既に歴史の中に深く埋もれてしまい、二度と表面に出ることはない三文小説であるというのが、私の評価である。
「壁 Le mur」
この作品も、左翼思想家たちから見れば、「スペイン市民戦争後のフランコ派政府軍による、捕虜に対する残虐な対応に光を充て、その中でも己の実存を問い詰めている男の心情をよく表現している。さらに、ラストの意外な結末によって、不条理に苦しめられる現実存在を提示している。」とでもなるのだろう。しかし、その意外な結末は、もうオチが読めるような安易なものであり、主人公の心情描写というものも、まるで田舎芝居のようにとってつけた薄っぺらいものでしかない。
そのため、主人公に感情移入することはできず、また主人公の置かれた不条理かつ政府軍の非人道的な対応に憤る気持ちも湧いてくることはない。そうした陳腐な内容をいくら繰り返し主張しても、小説としての価値(芸術的完成度)には何ら影響はないし、またその形式も紙芝居のような低次元なものであるため、そこには読ませるような優れた文体もない。全くの三流作品であるというのが私の感想だ。
「部屋 La chanbre」
この精神病者の夫とそれに付きそう妻を描いた小説も、左翼思想家的に評価すれば、「世間体だけを考えるブルジョワ社会からの疎外に対して、現実存在の厳しさという幻覚から逃避する精神病者の夫と、その世界を理解しつつ次第に引き込まれていく妻という、存在の不条理性を描いた実存主義小説」ということになるのだろう。しかし、正直読むことが辛くなるような、まったく面白くもなんともない内容に終始している。さらに物語創作の基本である起承転結をも欠いており、あたかも平凡な長編小説の見栄えのしない一つの章を抜き出したかのような中途半端な内容となっている。当然思わず読ませられるような優れた文体も何もない、まったくの駄作であるというのが私の正直な感想だ。
「エロストラート Erostrate」
明らかに社会から疎外された妄想的精神病者、しかも無差別殺人を意識する性的不能者を主人公にしている作品である。主人公の男が、いかに疎外を感じているかを描いた後、その一方で娼婦を小馬鹿にすることで性的な満足を得ていること、そして会社を首になった後に束の間の贅沢をし、無差別殺人をするまでをたんたんと記述している。ところが、結局主人公が無差別に殺害したのは、偶然道案内を聞いてきた男だけであり、その後群衆に向けて二発銃を発砲しているが、殺人に至ったという描写はない。最後に主人公は、警察から逃げてあるカフェのトイレに閉じこもるが、そこで自殺できないでいるところを逮捕されて終わっている。
この終わり方、つまり自殺できないで終わるとい中途半端な結末は、読む者の期待を裏切る(それまでの書きぶりから、確実に自殺するものと思わせているのにも関わらず)が、それは同時に物語としてのカタルシスを裏切るものとなっている。それをヌーヴォー・ロマン(新しい小説)とかアンチロマン(反小説)と称することは作者の自由だが、そこには小説としての、また物語としての、読むことの喜びはまったくない。また、無理矢理そこから、実存主義的な不条理性や精神病による犯罪者の心理分析をしたところで、なんらかの小説を読む喜びが生じることもない。
全体の文体と構成からは、少しばかり読ませる部分がある作品であるが、物語としての完成度の低さからは、やはり三流作品という評価に落ち着く。
「一指導者の幼年時代 L’enfance d’un chef」
本短編集の最後の作品であり、通常は作者が最も力を込めて作るものになるので、この作品には少し期待を持って読んだ。一方小説の主人公は、サルトル自身がモデルと思われるブルジョワ階級(工場経営者)の息子で、一般的に記憶を持たない幼年時代の心理描写から始められている(自分の記憶ではなく、想像から書いたものと思われる)。そこには、男でありながら女の子として扱われていた(養育されていた)サルトル自身の姿と心情を見ることができる。
その後主人公は、学校へ通学することで悪友たちと知り合い、芸術や文学に目覚める一方、ランボーの影響から同性愛に入りこみそうになる。しかし、そうした同性愛から抜け出した主人公は、友人の紹介で恐らく売春婦の女を知り、彼女の身体で童貞を捨てる。同じ頃、別の友人の影響で、ユダヤ人排斥思想を持つ政治活動に与するようになり、友人とともにユダヤ人に暴行を加えたり、友人宅のパーティーに来たユダヤ人に非礼な態度をとったりする。
そうした政治的な活動を経ることで、主人公は、自分が「大人」に成長したと勝手に思い込むと同時に、童貞を捨てた女との関係を止め、処女である友人の妹と結婚することを夢想する。こうした生き方からわかるのは、実に自分勝手なブルジョワそのものの主人公の半生であり、そこにサルトル自身が同意しているとは思えないが、しかしどこかそうした行為に好意的なものを匂わせている部分が読み取れた。そのため、この最後を飾るべき短編も、私にはなんの興味も感動も持てない駄作としか読めなかった。
なお巻末の解説では、この短編集に収められた各作品は、皆サルトルが若い頃の習作であるため、それらの完成度が低いことを認めている。しかし一方で、サルトル崇拝のようなベクトルが解説者には働いていて、こうした短編の中に、サルトルが長編で表現した実存主義思想の萌芽があることを無理矢理見つけて称賛している。私としては、いくら解説で称賛されても、ダメなものはダメなのであって、ここに収められた短編はいずれも凡作・駄作であり、読むに値しないものだと断言したい。
それでも一つだけ実存主義的な描写があったので、紹介しておく。それは、「一指導者の幼年時代」のP.201にある、主人公がパリの学校に進学した後、同級生たちから様々な刺激を受けた後の感情を表現している部分だ。
「そうだ。と彼は考えた。そうだ!確かだったんだ。僕は存在していないんだ。」
ここにおける「存在」とは、決して哲学的な「存在」ではないが、それでも哲学的なものへとつながっていく、あるいは発展していく原点を見る思いがする(それは解説者が見つけた部分でもあるかも知れない)。サルトルがどこまで評価すべき哲学者であるかを判断することは、私には到底無理筋なことだが、サルトルが哲学者的三文作家であったことがこの表現から推定することができた、というのが私の結論である。
『悪魔と神 Le Diable et Le Bon Dieu』
解説者によれば、この上演に四時間もかかる大作戯曲について、「サルトルが彼独特の実存主義的哲学の立場で、人間倫理の根本である『善』『悪』の問題をここで究明することが目的である。」と解説されており、またサルトル自身も「この時代は現代にとって暗示的だ。これが、私がこの時代を選んだ時代だ」として、十六世紀のドイツ農民戦争の頃を背景に描いた理由を説明している。
一方、なぜ十六世紀ドイツ農民戦争を舞台に選んだのかを私なりに考えると、カール・マルクスの盟友であるフリードリッヒ・エンゲルスの『ドイツ農民戦争』という歴史書に代表されるように、二十世紀前半における共産主義革命の原点をそこに見たからだろうと思う(『ドイツ農民戦争』については、書評として投稿予定)。なんといってもサルトルは根っからの共産主義者であり、スターリンの大量虐殺、ハンガリー動乱、プラハの春といったソ連帝国主義による恐怖政治や他国への侵略があっても、それは変わらなかったから、本作品は共産主義思想を背景としている。
ところで私は、『悪魔と神』という題名から、イングマル・ベルイマンの映画『第七の封印』のような悪魔と人間との対決を描いた作品を期待したが、期待外れであった。しかし、解説者が「サルトルの書くもので、正直のところ、私は戯曲がいちばんおもしろい。」と述べているように、「水いらず」のような三文小説に比べれば、戯曲の方が数段良く出来ている。また、「フランスでサルトルの名と思想をもっとも普及する力があったのは戯曲だろう。」と解説者は書いていることも頷ける。サルトルは、日本では哲学者及び小説家として認識されているが、フランスでは劇作家なのだと思う。そしてこれは、日本のサルトル研究においてかなり重要なことなのではないか。
本戯曲の主人公である傭兵隊長ゲッツは、十六世紀ドイツ農民戦争で実在した傭兵隊長ゲッツ・ファン・ベルリッヒンゲンをモデルにしているが、実在の人物と『悪魔と神』で描かれたイメージとは同じものではないだろう。ゲーテに同じくゲッツをモデルにした作品があるということだが、解説によればそのゲッツ像は全く異なっているということだ。
本作品中のゲッツは、最初は貴族・領主の傭兵隊長として、反乱する農民軍を虐殺する「悪魔」として登場する。しかし、背徳修道士ハインリッヒや農民軍の指導者であるナスチらの影響を受けて、突然開明的(共産主義的)指導者(「神」)に変貌する(この書きぶりは、かなり不自然に感じられた)。そしてゲッツは、自分が支配した都市の領地を農民に解放し、自分自身は農民から「神(預言者)」の如く慕われることで満足する。ところが、ドイツの他の地域では農民戦争が激化しており、過激化した農民によってゲッツ支配下にある無抵抗を旨とする農民たちは、戦争に参加しないことを理由に全員虐殺されてしまう。こうした経緯を経て、ゲッツは反貴族・領主である農民軍の軍事指導者になることで、再び「悪魔」に戻る。その理由は「神の不在」だったとされている。同時に、ハインリッヒやナスチも「悪魔」のような人格に変化している。
以上がこの劇のストーリーの概要だが、その「悪魔」→「神(預言者)」→「悪魔(神の不在による)」と変化していく下りは、現実の二十世紀後半における、フランスや世界各地の共産主義運動の流れを彷彿とさせるものがある一方、「神は死んだ」、「おれはあの頭上のからっぽの天を相手に孤独にとどまるのだ」というセリフからは、サルトル得意の実存主義哲学の主張(巻末の解説にあるサルトル自身の説明によれば「この戯曲は人間と神との関係、あるいは人間と絶対との関係を終始あつかっている」とある)が伺われる。しかしそこには、左翼思想家による演劇に特徴的な、いかにもとってつけたような「田舎芝居臭」があることは否めない。そのため、特にゲッツが「悪魔」であった前半部分を中心にいくつかの面白いセリフがある一方で、全体の印象はかなり陳腐な「政治活動アジテーション芝居」のようなものとなっている。
上述の面白いセリフがあった箇所を紹介したい。これらはいかにも左翼思想家が好きそうな言葉使いでもあるが、それでも演劇的にはなかなか力を持った響きがあった。なお、引用部分だけでは理解できない箇所は(注)を付した。また、<参考>として私の意見を付記した。
P.20
ナスチ:そうだとも。まだこれから七年間は、この世に悪が支配する。だが、われわれ一人一人がみんな勇敢にたたかえば、おれたちはたがいにみんな助けあえる。神さまともどもにさ。おれのいうことを信じるかい?
<参考>
まるで、典型的な左翼思想活動家・扇動家の演説のお手本である。
P.21
ハインリッヒ:(前略)主よ、わたくしはあの男(注:ゲッツ)に黙らせる勇気を持ちませんでした。罪を犯してしまいました。しかし、神よ、わたくしは信じます。あなたの全能を信じています。イエスの聖体、わが母胎であり、わたくしがその一員であるあなたの神聖な教会を信じます。すべてがあなたの法(おきて)から生じ、一人の幼な子の死さえそうであり、すべてが善であることを信じます。それが不条理であるゆえに、信じます。不条理、不条理!
<参考>
これも左翼思想活動家・扇動家が、アジ演説で使う典型である。ここにある「神」を「共産主義」あるいは「共産主義運動のリーダー」と言い換えれば、一目瞭然である。
P.77
カテリーナ(注:ゲッツの情夫である売春婦):なぜ悪いことをするの?
ゲッツ:善はもうしたやつがいるからだ。
カテリーナ:だれがそれをしたの?
ゲッツ:父なる神がさ。おれはすこしかわったことをやるんだ。(以下省略)
<参考>
これは、政治思想とは別に、この世に成り上がりたい者の心理をよく表現しているセリフだと思う。
P.121
ナスチ:《世界がそのためにほろびようとも、おれはおれが善いと思うことをする》というやつは偽りの予言者、悪魔の手先だ。
ゲッツ:《まず世界はほろびよ。そのあとで善が可能であるかどうか考えよう》というやつこそ偽りの予言者、悪魔の手先だ。
<参考>
どちらも、この世の独裁者や政治家に多くみられるタイプではないか。
P.232
ハインリッヒ:おまえ(注:ゲッツ)はかわらないよ。ちゃんとそのままよ。相棒がおしえてくれた、(悪魔を指さす)地上は外観(あらわれ)にすぎんてさ。天と地獄、あるのはそれっきり。死というのは家族の者の目をくらます子供だましだ。死んだ当人にとっちゃ、何もかもつづく。
<参考>
どこか仏教的、禅的な死生観がにじみ出ている。サルトルとしては、実存主義思想の一端を紹介したセリフなのだろうが、この仏教的なニュアンスに、日本でサルトルが流行した背景があるのかもしれない。
P.234
ゲッツ:(頭をおこす)おれ一人だよ、坊主(注:ハインリッヒ)、お前のいうとおりだ。おれ一人だ。おれは嘆願した。しるしをもとめた、天に言葉をおくった。なんの答えもない。天にはおれの名だって知られておらぬ。いつもいつも、おれは自分が神の目に何でありうるかを、心に問うていた。いまやっと答えがわかった――無、だ。神にはおれなど見えぬ。おれの声など聞えぬ。おれなどという人間は知られておらぬ。おれたちの頭上のあの虚空がおまえには見えるかい?あれもまた神だ。沈黙が神だ。不在が神だ。神は、人間の孤独だ。ただおれがあるのみだったのだ。おれも一人で悪を決定した。おれは一人で善を発案した。いんちきをしたのはおれ、奇蹟をやったのもおれ、今日おれを裁くのはおれ、おれの罪をゆるしうるのもただおれ一人だ。おれ、つまり人間だ。もし神が存在するなら、人間は虚無だ。もし人間が存在するならば・・・おい、どこへ行く?
<参考>
ここには、サルトルの主張する実存主義思想の一端が良く表現されている。この部分だけを見ても、サルトルは戯曲において小説よりも優れた作品を残したことが理解できるだろう。
一方、この「神の沈黙」というテーマでは、イングマル・ベイルマンの有名な映画『沈黙』がある。また、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を論じた寺田建比古の論文『神の沈黙―ハーマン・メルヴィルの本質と作品―』を、私は連想してしまう。もちろん、フリードリッヒ・ニーチェの「神は死んだ」という叫びも聞こえてくる。ただ、ここに言及されている「神」は、あくまでもキリスト教カソリックの世界に限定した「神」である。我々極東の豊かな自然に囲まれた人間のイメージする「八百万の神」とはまったく違う。それはまた、人間の精神に自動的に出現した「神」ではなく、ユダヤ教において「言葉にできぬもの」、「あって、あらぬもの」という、一部の人間が作り上げた思想としての「神」である。
従って、サルトルの主張する実存主義思想の原点は、キリスト教カソリックへの諦念と反発であり、またキリスト教カソリックの文脈に沿った実存という概念なのだと思う。一方、例えばニーチェの述べる実存という概念には、ツァラトゥストラというアジアのイメージを利用したことと併せて、どこか東洋的色彩があり、そのため我々日本人にも親しみやすくなっているのではないか、と私は想像している。
<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している短編小説集です。>
いいなと思ったら応援しよう!
しがない年金生活の一方、健康状態の関係から身体を使う仕事は難しいため、趣味と実益を兼ねてnoteに様々な投稿をしています。皆さまからの私の投稿へのご支援をいただけることは、今後さらに多種多様な投稿を継続していくことにつながりますので、どうぞ宜しくお願いいたします。