キリスト再臨① 携挙の真実「雲に包まれ上げられ空中で主に会う」の意味
携挙信仰の出発点
聖書では、この世の終末にキリストが再臨すると理解されます。
そしてその時、一部の解釈では「信者は天に挙げられる」と解釈し、これを携挙信仰と言います。
その解釈の根拠が、次の箇所です。
【テサロニケ人への第一の手紙 4章16-17節】
すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。
その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
主ご自身(キリスト)が天から下って来るとあります。
これがキリスト再臨です。
その時、生き残っている信者(キリストにある者)が「雲に包まれて引き上げられ空中で主に会う」とあります。
キリスト再臨時に、空中に引き上げられキリストに会う──携挙される──描写は、近年、物理的現象(人が身体ごと空に向かって上昇する、または、地上から肉体が突然消える)として解釈されることが多く、映画や画像でも「信者が空に吸い上げられる」イメージが定着しています。
この「雲に包まれて引き上げられ空中で主に会う」を、文字通りの空中浮上と捉えるか、それとも象徴的表現と捉えるか、解釈の分岐点になります。
📌この記事では──
「雲に包まれて引き上げられ空中で主に会う」とはどういう意味なのか、その「目的地」はどこなのかを、聖書で読み解きます。
1. 聖書における「雲」とは
神は出エジプトにおいて民を雲の柱で導く
【出エジプト記 13章21-22節】
主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。
昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。
イスラエルの民をエジプトから脱出させたとき、神は雲の柱によって民を導きました。
雲の柱は、夜には火の柱のようになり民を照らし進ませました。
神は雲の中から十戒を告げる
【申命記 5章22節】
主はこれらの言葉を山で火の中、雲の中、濃い雲の中から、大いなる声をもって、あなたがたの全会衆にお告げになったが、このほかのことは言われず、二枚の石の板にこれを書きしるして、わたしに授けられた。
神は十戒を告げる時、濃い雲のうちにあってモーセに臨み、民に聞かせました。神は雲の中に臨在し、それは火のようでした。
雲が幕屋を覆い神が宿営に臨在する
【民数記 9章15-16節】
幕屋を建てた日に、雲は幕屋をおおった。
それはすなわち、あかしの幕屋であって、夕には、幕屋の上に、雲は火のように見えて、朝にまで及んだ。
常にそうであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。
幕屋が設営されたとき、雲が会見の天幕を覆い神の臨在が示されました(出エジプト40章34-35節)。幕屋を覆う雲は神の栄光によって、夜は火のように見えました。
変貌山で雲が弟子たちを覆い、神の声があった
【マルコによる福音書 9章2-8節】
六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。
すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
(中略)
すると、雲がわき起って彼らをおおった。
そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。
彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。
新約聖書においても、雲は神の臨在を象徴しています。
キリスト再臨時に「雲に乗って来る」
また、キリスト再臨時に「雲に乗って来る」とあるのは、空を飛ぶ移動手段やキリストが物理的な雲に乗って来るのではなく、神の臨在と栄光を伴って天から人々が住む地上に臨むことを象徴しています。
【ダニエル書 7章13節】
わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。
【マタイによる福音書 24章30節】
そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。
またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
【ヨハネの黙示録 1章7節】
見よ、彼は、雲に乗ってこられる。
すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。
しかり、アァメン。
「人の子が天の雲に乗って来る」のは、キリストの到来(再臨)が、神の臨在と栄光のうえにあるということでしょう。
【使徒行伝 1章9節】
こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
これはイエスの昇天の場面です。
物理的な身体を伴って上昇したように描写されていますが、そうではなく、「天の父の右に着座される」霊的現実を象徴的に表していると理解するのが妥当でしょう。
イエスはロケットやウルトラマンのように、物理的に空に向かって上昇し続け、物理的な雲に隠れて見えなくなったのではなく、変貌山でエリヤとモーセが雲に覆われいつの間にか見えなくなったように、霊的な神の領域へ遷移したことを象徴的に表現しているのでしょう。
👉「雲」=神の臨在の象徴
このように聖書において「雲」は、一貫して神の臨在と栄光を表す象徴として用いられてきました。
2. 聖書における「空中」とは
創世記の「おおぞら」から天を読み取る
【創世記 1章6-23節】
神はまた言われた、
「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
そのようになった。
神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。神はそのおおぞらを天と名づけられた。
夕となり、また朝となった。
第二日である。
(中略)
神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。
神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。
夕となり、また朝となった。
第四日である。
神はまた言われた、
「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。(中略)
夕となり、また朝となった。
第五日である。
ヘブライ語で「大空」に相当する原語は、「 רָקִיעַ:raqia':ラキア」です。「打ち延ばされたもの」「大空」または「天のドーム」を意味します。
二日目:神が「水の間にラキアがあって、水と水を分けよ」と言われ、「ラキア」を「天」(שָׁמַיִם:shamayim:シャマイム)と名付けました。ここで「大空=天(ラキア=シャマイム)」となります。
四日目:神は光(太陽、月、星)を造り「シャマイムのラキア」に置きます。ここでも同じ単語が使用され「天の大空」を意味します。
五日目:神が「鳥は地の上、シャマイムのラキアを飛べ」と言います。ここでも同じ単語で「天の大空」を意味します。
創世記1章の二日目、四日目、五日目の「天の大空」は、いずれも同じ単語が使われており、これらは、原語的に区別されていません。
天(シャマイム)について後代(第二神殿時代)のユダヤ教は、ヘレニズム文化やバビロニア・ペルシアの影響を受け、多数層で構成される複雑な天の階層概念を独自に発展させたのです。

新約聖書における「天」
パウロが手紙を書き送ったコリントは、ギリシア語圏でヘレニズム文化の中心地でした。
ヘレニズム文化に親しんだコリントの信者には、ユダヤ教の複雑な七層モデルではなく、ヘレニズムの宇宙論(大気、天体、神の領域)を用いて効果的に伝えたようです。
パウロは、自身が「第三の天」に上げられたと、コリント人への手紙で述べています。
パウロが語る「第三の天」
【コリント人への第二の手紙 12章2節】
わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。
この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた──それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。
神がご存じである。
パウロは、自身をある人として「第三の天にまで引き上げられた」と述べています。
この「天」には、ギリシア語「οὐρανός:ウーラノス」が使用されており、いわゆる天を意味します。
この天は神の霊的な領域のことで、パウロ自身が「肉体のままか離れてか知らない(分からない)」と述べてます。
おそらく肉体は地上にあるままで、霊的ビジョン(夢や幻)を見せられるなどの霊的体験をしたものと解されます。
👉パウロが上げられたとする「第三の天」は、神の臨在する霊的領域を指しています。その時、肉体は地上のままで霊的ビジョンを見たのでしょう。
「空中」とは「第一の天」を指す
一方、「空中」と訳される単語はギリシア語「ἀήρ:アエール」であり、新約聖書において四回使用されています。
【コリント人への第一の手紙 9章26節】
そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。
【エペソ人への手紙 2章1-2節】
さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
【テサロニケ人への第一の手紙 4章16-17節】
(略)その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
【ヨハネの黙示録 16章17節】
第七の者が、その鉢を空中に傾けた。
すると、大きな声が聖所の中から、御座から出て、「事はすでに成った」と言った。
一つ目の「空を打つような拳闘」とは、空振りのパンチのことで、この場合の「空」は、地表から高さ百数十センチ程度の空間になります。見上げるような位置ではありません。
二つ目のエペソ2章1-2節に「空中の権を持つ君」とあり、それは「不従順の子らの中に今も働いている霊」とあります。この霊は端的に言えば悪霊です。つまり、空中とは悪霊の王の支配圏と言えます。
三つ目は冒頭で挙げた箇所であるテサロニケ第一4章16-17節です。これはキリスト再臨時の描写がされており、(キリストにある)よみがえった人々と生きている者とが「空中で主と会う」とあります。
最後の黙示録16章17節は、第七の鉢が「空中」に傾けられるとあります。この鉢とは神による災害のことで、「七つ目の災害が空中に注がれる」と、神の計画が成就し「事は既に成った」と宣言されるのです。
これら一連の記述から、
「空中」とは、いわゆる第一の天のことであり、悪霊の王(サタン)の支配圏と言えます。
👉「空中」=第一の天(地上を含む大気圏内)=サタンの支配圏
そして、
七つ目の災害が注がれ、主に会うのは、サタンの支配圏においてということになります。
3. 「雲に包まれて引き上げられ空中で主に会う」とは
👉「雲」=神の臨在の象徴
👉「空中」=第一の天(地上を含む大気圏内)=サタンの支配圏
パウロ自身が述べていますが、パウロが引き上げられたのは「第三の天」で、主と会うのは「空中」であると区別しています。
この「空中」とは第一の天で、地上を含む大気圏内なので、わたしたちが生活する地上を含みます。
つまり、キリスト再臨時にキリストにある者は、地上に居ながらにしてサタンの支配圏で主に会うと言えるのです。
変貌山での出来事
前掲の変貌山に現れたエリヤとモーセは、地上でイエスと語り合っていました。
この場面も絵画的には、三人の身体が宙に浮いているイメージが先行しますが、彼らは高い山にいて雲に包まれたのであって、「宙に浮いていた」といった記述はありません。
ペテロは二人と語り合っているイエスに話しかけており、宙に浮いたイエスに叫んだような描写もなく、地上にあって同じ目線で話しかけたと言えます。
弟子たちは(山上なのか山中なのかは、ともかく)地上において、霊的な存在であるエリヤとモーセと変貌したイエスとが語り合う霊的ビジョンを目の当たりにし、彼らと共に雲に包まれ神の声を聞いたのです(マルコ9章2-8節、マタイ17章1-8節)。
キリスト再臨の場面
次の箇所をご覧ください。
再掲になりますが、これらは同じ場面の描写でキリスト再臨の場面です。
【ヨハネの黙示録 16章17節】
第七の者が、その鉢を空中に傾けた。
すると、大きな声が聖所の中から、御座から出て、「事はすでに成った」と言った。
【ヨハネの黙示録 11章15節】
第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。
すると、大きな声々が天に起って言った、
「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。
【テサロニケ人への第一の手紙 4章16-17節】
すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。
その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
👉第七の鉢が「空中」に傾けられると、サタンの支配圏に災害が注がれます。そして、第七の御使が最後のラッパを吹き鳴らすと、「この世の国はキリストの国となった」と声が上がります。
そのラッパの鳴り響くうちに、キリストは「天」から下って来るのです。
👉その時、キリストにあって死んだ人々がよみがえり、生き残っているキリストにある者は、よみがえった人々と共に、「雲に包まれて引き上げられ空中で主に会う」。
つまり、キリスト再臨時に、
👉キリスト者は「神の臨在に包まれて霊的ビジョンを見せられ、サタンの支配圏でキリストに会う」のです。
📍第七の鉢から第七のラッパへ、そして雲に包まれ空中で主に会う。この流れの詳細は、下の記事をご覧ください。
ハルマゲドンでの戦い
「神の臨在に包まれて霊的ビジョンを見せられ、サタンの支配圏でキリストに会う」この場面は、黙示録19章11節以降に描かれている次の場面に繋がります。
【ヨハネの黙示録 19章11-19節】
またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。
それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。
(中略)
そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。
その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。
彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。
(中略)
また見ていると、ひとりの御使が太陽の中に立っていた。
彼は、中空を飛んでいるすべての鳥にむかって、大声で叫んだ、「さあ、神の大宴会に集まってこい。そして、王たちの肉、将軍の肉、勇者の肉、馬の肉、馬に乗っている者の肉、また、すべての自由人と奴隷との肉、小さき者と大いなる者との肉をくらえ」。
なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。
11節の「天が開かれ」の天は、パウロが体験した第三の天と同じ「οὐρανός:ウーラノス」です。第三の天から、白馬に乗っているキリストが霊的ビジョンにおいて現れるのです(おそらく物理的顕現ではありません)。
14節にある「天の軍勢」は、純白の衣を着た者たちで白馬のキリストに従います。彼らは、黙示録19章7-8節、7章9-17節にある、白い衣の大群衆です。ここでの天も霊的ビジョンであって、物理的な上の方向から軍勢が降りてくるのではなく、地上における天的な(天に属する)軍勢といったニュアンスです。
白い衣の大群衆(キリストの花嫁=天の軍勢)
【ヨハネの黙示録】
19章6-8節(大群衆=キリストの花嫁)
わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。
それはこう言った、
「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。
小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
7章9-17節(白い衣の大群衆)
その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、
「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。
(中略)
「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。(以下略)
👉白い衣の大群衆とは、大患難を経て来た者たちで白い衣を着ることが許されたキリストの花嫁です。彼らは「天の軍勢」となって主に従いハルマゲドンでの戦いを戦います。
彼らこそが、地上において「神の臨在に包まれて霊的ビジョンを見せられ、サタンの支配圏でキリストに会う」者たちで、悪霊の王サタンと口の剣で戦うのです(イザヤ11章3-4節)。
👉彼らは、自らが神殿であり昼も夜も自身の身体である神殿で神に仕える者たちで、神は彼らの上に幕屋を張って共に住む(居る)のです。
これら一連の場面は、霊的な戦い(支配権と権威の奪還)と勝利宣言です。
キリストと天の軍勢(白い衣の大群衆=花嫁)は、敵地(サタンの支配圏)に侵攻し、諸国民を救出し(婚宴に招き)ます(マタイ22章1-14節、黙示録19章9節)。
諸国民の中から羊(主を知らなかったが正しい者)を選び出し、勝利宣言をするのです(マタイ25章31-46節)。
【ヨハネの黙示録 19章9節】
それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」。
またわたしに言った、「これらは、神の真実の言葉である」。
思い出してください。
「神と共に奮闘し、人と戦って勝つ者」がイスラエル(神の民)でした。
つまり、
👉キリストにあってよみがえった人々と再臨時に生きているキリスト者とは、共に「空中=地上のサタンの支配圏」で主に会う白い衣の大群衆であり、花嫁であり、天の軍勢となってキリストと共に奮闘し、人と戦って勝つ者なのです。
【エペソ人への手紙 6章12節】
わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
まとめ
👉「雲に包まれて引き上げられ空中で主に会う」とは
物理的現象ではなく、地上において神の臨在に包まれて霊的ビジョンを見せられ、サタンの支配圏でキリストと共に奮闘し、ハルマゲドンでの戦いを戦うこと(ハルマゲドンでの戦いへの召集)を象徴しているのです。
そして、勝利の後、
👉目的地は、地上の相続地である神の王国【千年王国】なのです
【マタイによる福音書 6章10節】
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
思うこと
携挙とは召集令状のようなものです。
もしかしたら、患難を逃れたくてキリストを信じたつもりのような人は召集されないのかもしれません。

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