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あたし機械は好かないの ~下町の酒屋で、そろばん弾く看板娘~

これは私の会社員時代の話です。
今もたびたび彼女のことを思い出します。


会社の真ん前に、小さな酒屋さんがあった。
昔からある、地域に根付いた下町の酒屋さん。
お酒だけでなく、お菓子や缶詰、切手なんかも扱っていた。

社内にウォーターサーバーがまだ設置されていない頃、水を買いによく通った。職場の建物の目の前にあり、コンビニより、安かったから。
理由は、それだけだった。はずだった。

店の奥から、ゆったりと出てくる人がいた。その家のおばあちゃんだった。
「いらっしゃいまし」
今どき、あまり聞かない言い方だな、と思った。
語尾が「ませ」ではなく「まし」になるだけで、なんだか粋に感じる

何度か顔を合わせるうち、いつのまにか話し相手に認定されていた。
私がお店に入っていくと、店の奥に置かれたテレビを見て笑っている顔がこちらを振り向く。
そしていつもの「いらっしゃいまし」と言いながら、笑顔で出てくる。


「あたしが女学生の頃は・・・」

おばあちゃんの昔語りが始まると、なかなか終わらない。
水を買うだけのつもりが、気づけば二十分ほど経っていることもあった。
周囲には「目の前の店だから」とだけ伝えていたが、内心では毎回、時間が気になっていた。

その内、社内の席周辺の人たちに、私が水を買いに行くと言い残して5分以内に戻ってこない時は、おばあちゃんに捕まっているのだろうと認識されるようになった。

近所のお年寄りたちも、切手を買いに、ビールを買いに、ちょっとした物を買いに、おばあちゃんと世間話をしに立ち寄る店だった。

東京の下町で、その空間だけサザエさんに出てきそうな懐かしい雰囲気で、仕事がなければずっと見ていたいようなほのぼのさだった。

しかし仕事には戻らなければならない。
新しい客が来て話が途切れると、私はそそくさと「じゃあ、戻りますね」と出口へ向かう。
話を遮るのが下手で、いつも向こうから区切りをつけてもらっていた気がする。
おばあちゃんの話術というより、こちらの間の悪さだったのかもしれない。

おばあちゃんは、その地域で生まれ育ったので、江戸っ子のアクセントで話す。

朝日(あさひ)→ あさし
まっすぐ → まっつぐ

そういう「音」を聞いているのも、楽しかった。

レジのそばに、駄菓子のような小さなお菓子が並んでいた。話を聞きながら、つい一つ手に取ってしまう。あれも、商売のうちだったのだろうか。だとしたら、なかなかの策士である。

おばあちゃんは今でも、電卓ではなくソロバンを使う。

「あたし機械は好かないの」

と言い、すぐそばにレジの機械があっても電卓があっても、決まってソロバンを取り出す。
彼女の前の代から使っている、かなり使い込まれたものだそう。
きっと手になじむのだろう。
パチパチという小気味いい音が、レジの横から聞こえてくる。
指の動きは早く、迷いがない。これもなんだか粋でかっこいい。
そのひと呼吸の間だけ、店の時間がすっと巻き戻るようだった。



そのうち、彼女は通院で店を空けることが増えた。
体も、少しずつ弱っていったのだろう。階段の上り下りが大変になったそうで、お店にいる日より、いない日のほうが多くなっていった。
状況は、当時大学生だったお孫さんが教えてくれた。

職場にウォーターサーバーが入ったのは、ちょうどそのころだった。
水を買いに行く理由が、静かになくなった。

最後は忙しさに紛れて、挨拶もできないままバタバタと退職してしまった。
それが、今も少し心に残っている。

職場の目の前に店があるので、たまに外から様子は見ていたのだが…
寄ろうと思うと自動ドアに「外出中です」の張り紙とともに施錠がされており、タイミングが合わなかった。
(この辺が下町っぽい)


「いらっしゃいまし」

もう一度、あの声を聞いてみたい。
今も好きなテレビを見て笑ったり、ソロバンを弾いているだろうか。



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