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つつじの前、十月──『水辺のつつじ』ep.24

この日、僕は白いシャツを着ていた。
その上から厚手のカーディガンを羽織る。
十月ももう、半ばに入っていた。

二限終わりの鐘が鳴る。
そそくさと去る教授の背を眺め、グンと伸びをした。
腹の虫も気が抜けたのか、グゥと鳴く。
どことなく、弱々しく感じられる。

僕は今朝、朝食を食べそびれた。
前日の夕飯も食べそびれた。
何を食べるか決めあぐね、気付けばそのまま眠っていたからだ。
かれこれ二食分、すっ飛ばしている。
僕は胃の上を撫でた。

つつじの茂みの手前、彼女が佇んでいるのが見える。
僕は久しぶりに心臓が駆け足気味になるのを感じ、足を止めた。
彼女は時折、学生とひとことふたこと交わしてはにっこり微笑んで、でもまたすぐ不安げな顔に戻って時計を見上げたり、奥の建物を見つめたり、足元の枯葉を軽く蹴飛ばしたりしている。
茂みの間からは人の列がすっかり長く伸び出していた。

僕はそれを柱の陰からしばらく眺めていた。
そこでようやく自分が柱の陰なんて怪しげなところに身を隠していることに気づき、慌てて柱の前に出た。

あくまでも自然に、自然に。
そう言い聞かせ、僕は列の最後尾を目指す。

僕に気付いた彼女が駆け寄ってくる。
状況が読めなくて、先ほど覗き見た後ろめたさもあり言葉が前のめり気味に飛び出してしまった。

「お昼、もう食べた?」
「ううん、まだ。」

いくら昼休みが始まってから時間が経っているとはいえ、早弁でもしない限りたいていの学生が腹を空かせているであろうタイミングで僕はなんという愚かな質問をしているのだろう。
僕の腹の虫が鳴いた。

「もう行った?」
今度は彼女の方がこんなことを言い出した。
それも僕の腹の音に気づいたのか、何か堪えるような顔で。

「もう行った? ラーメンフェス!」
「行ってないよ。」
「やっぱり!」
「やっぱり?」
「人混み、嫌いでしょ?」
「え……ああ、うん……まあ。」
「この後行くけど?」
「行っても、いい?」
「だめって言ったら?」
「行かない。」
「やっぱり!」

僕たちは校門を出て左へ曲がった。
「ねえねえ、あのフェンス越えれば秒で着くのにって思ったことない?」
確かにそうだ。
僕たちの大学はあの公園に面しておきながら、とんでもない高さの障壁に阻まれていて、最低でも五分は歩かざるを得ない。

乗り越えればすぐそこだ。
そう思ったことは何度もある。

「やろうとしてる人は見たことある。」
「え! その人どうなったの?」
「半分くらいまで登っては滑るを繰り返してて……」
「うん。」
「天空を目指す蟻地獄みたいだなあって……」
「うん。」
「そしたらカーテン閉められて。」
「え?」
「追い出されたんだよね。」
「瑞樹君が?」
「そう。」
「それで?」
「見に行ったんだ。」
「直接?」
「そうそう。」
「……どうだったの?」
「まだやってた。天空を目指す蟻……」
彼女は顔を押さえて「だめ! もうやめて!」と叫んだ。
周りの人が僕のことを変な目で見ている。
「ごめん……あの……その……天空を……」
彼女は震えている。
「天空を目指す蟻地獄?」
彼女は「もう!」と僕の背中を引っ叩いてゲラゲラと笑い始めた。
気づけば公園の中ほどまで来ていた。
だから、たぶんもう十分は歩いている。
驚くほど、近く感じた。

眼前の茫茫たる人の海……
「…………君! ……樹君!」
僕はくらくらしてきた。
「瑞樹君!」
「え?」
「はぐれた時のため!」
人の海はぼやけ、代わりにQRコードに焦点が合う。
「あの……これは……」
僕は印籠の如く突き出されたそれに屈服するのみだった。
「お願いし……」
彼女にスマートフォンを渡した。
「はい、おしまい!」
「……ます。」
ものの十秒で……いや、それ以下だったかもしれない。
何が変わったのかわからない僕のスマートフォン。
「これで、大丈夫!」
大丈夫を手に入れたらしかった。

推定大丈夫・・・な僕たちは猛然と海へと漕ぎ出した。
匂いそのものが熱い。
湯気に阻まれ彼女の声が聴こえない。
そんな、感覚がじわじわと狂わされていく不安のままに人々の中へと押し流されていく。

「ねえ、瑞樹君。」
彼女は僕を見上げる。
カーディガンの裾を摘んだまま。
「辛いの食べられる?」
「ああ、うん。」
「激辛地獄らあめん」の幟がたなびいている。
屋台の周りでは、唇をぱんぱんに腫らした人たちが火を吹いたり、涙を流したりしていた。
「食べる?」
彼女は躊躇い半分に目を輝かせて頷いた。

僕たちは列に並んだ。
と言っても前に一組いるのみで、あっという間に順番が回ってきた。

「いらっしゃい!」
「あ、あの。ラーメン・フロム・ヘル……ひとつください。」

僕は声を大にして言いたい。
なんでこんな小っ恥ずかしい名前をつけるんだ。
これを言い終えた僕の頬は激辛ラーメンよりも紅かったはずだ。
すると快活な、あまり僕たちと年の変わらなそうな男性が、湯切りついでに意地悪く「お兄さん、大丈夫そう?」とにやりとしたから僕は少し意地になって「ええ。」とだけ答えた。
なるべく表情を動かさないようにして。

程なくして白い使い捨て容器になみなみと入れられたラーメン・フロム……地獄級の激辛ラーメンが手渡された。
やはり彼はにやついている。
じっと見られている気がして、その場を離れた。

少し人がはけたところまで来ると、彼女が先に立ち止まる。
そして口元に手をやって、ククッと小さく笑った。
僕が首を傾げると、「なんでもない」と言ってまた笑い始めた。

手元のラーメンはまだ熱かった。
僕は真っ赤なそれを彼女に差し出す。
「大丈夫そう……?」
言ってしまってから僕は「あ」と思った。
彼女もそれに気付いたらしく、僕たちは見合わせて笑った。

「いただきます……」
彼女は恐る恐るスープを口に含んだ。
途端に「ンー!」と目を見開いて首をブンブンと振り始める。
彼女はおずおずと真っ赤なラーメンを僕に差し出す。
僕は啜る。
次の瞬間のことだった。

咽せた。
油断していた。
想像以上だった。
辛いというよりも、痛い。
ふと、店の彼の言葉が思い出される。
──大丈夫そう?
あれは意地悪でも挑発でもなく至極真っ当な心配だったのかもしれない。
僕は咽せ、彼女は笑っていた。

「はい!」
目の前に差し出されたゆで卵。
半分に割られ、今にも黄身が垂れ落ちそうだった。
「え?」
この時すでに、わずかに唇に触れていた。
いよいよ断る理由が見つからない。
腫れた唇を開く。
──味はわからなかった。
ただ体温よりわずかに低いものが舌の上で溶け、喉奥に落ちていった。
直前の激辛のせいか、それとも……

雑踏がぼやける。
彼女の輪郭がくっきりと浮かび上がる。

「おいしい?」
たぶん同じものを食べた彼女が微笑んでいる。
つい、首を傾げてしまった。
頭上の葉のこすれる音、彼女の声。
笑い合う人々の顔、ただこちらはにじんでいる。

「やっぱり?」
彼女は僕の持つ空の器に視線を移す。
その底で地獄の残渣が僕たちを睨んでいた。

「ちょっと! 瑞樹君?」
僕は咽せた。
彼女は笑う。

「もう! 何その顔……」

僕はまだ咽せていた。
人の波の切れ間から、さっきの男がまた小っ恥ずかしい名前を客に言わせては悦に浸っているのが見える。

よそ見をしたせいですれ違いざま人にぶつかった。
「ごめんなさい!」
謝る時の手の癖が、半分になった。
「あ……」

彼女が僕のカーディガンの袖を握りしめていた。

人の群れが遠ざかっていく。
喧騒の音がはっきりとし始める。
ただもうそれはほとんど聴こえない。
BGMの低音域が僕の鼓動にかき消され、ただただ静かだった。

彼女の指先が僕の袖から離れていく。
二人して黙ったまま、言葉もなく笑い合った。

チャイムの音が聴こえる。
気付いた時には、もう最後のひと鳴りの余韻だった。

あのフェンスさえ、なかったなら……
公園と大学とを隔てる黒い鉄格子に悪態をつく。

歩幅を広げた。
でも、すぐにやめた。

右手に見えるつつじの生垣はもう狂い咲いてなんかいなかった。
一輪、凛としてそこにある。
その事実だけで十分だった。

僕の白い胸元は、また色を変えている。
これはきっと、もう二度と落ちることはない。

落ちなくて、構わないんだ。


創作大賞2026、恋愛小説部門エントリー中。
文学部国文学科三年の貝原瑞樹は風邪をひいた。
これは比喩でもあり、事実でもあり、また夢でもある。
幸せが似合わない、笑ってはいけない。
自分に化したルールや自罰の意識は年々深まる一方で?




【エッセイ】
たしかここにガキの頃書いた作文引用していたと思う。


創作大賞2026、こちらはオールカテゴリ部門。
大正の文学青年の成長と青春を描く。


メロウゴールド、季節終わった?
最近見かけない。


ゆきお様・作
もう私の作品など必要はないでしょう。
そろそろ断筆したい。
私は私の筆を折りたい。

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