『つつじの前、十月十日』
よもぎさんに捧ぐ
二限の終わりを告げるチャイムは、乾いた音で教室の空気を切り分けた。窓の外は明るいのに、どこか冷たい。季節がひとつ先へ進もうとして、まだ決めきれずにいるみたいだった。
ノートを閉じた瞬間、スマートフォンが震える。
「終わった?」
彼女からのメッセージ。
「今」
とだけ返すと、すぐに続きが来る。
「ラーメンフェス、行かない?」
少しだけ間を置いてから、「行く」と打った。本当は、考える余地なんて最初からなかった。
校門の外で彼女は待っていた。白いパーカーの袖が少し長くて、指先を隠している。
「遅い」
そう言って笑う。
「今終わったばっかりだから」
「じゃあちょうどいいね」
彼女は歩き出す。僕はその隣に並ぶ。
フェンスの向こうに、公園が見える。のぼりが揺れていて、人の流れがひとつの塊みたいに動いている。
「あそこ、すぐなのにね」
「回らないと行けない」
「乗り越えたら早いのに」
「やったら怒られるよ」
「だよね」
そんなことを言いながら、遠回りの道を進む。彼女の話は途切れない。講義のこと、友達のこと、どうでもいい話ばかりなのに、不思議とずっと聞いていられる。
気づけば、公園の入口だった。
中に入ると、空気が一気に濃くなる。湯気と匂いと、人の声。
「多いね」
「思ったより」
どの屋台も行列ができている。並ぶ気力を削ぐには十分な長さだった。
どうするか迷っていると、端の方に視線が引っかかる。
そこだけ、人がいない。
小さな屋台。控えめな看板。「しょう油ラーメン」それだけ。
彼女と目が合う。
「行く?」
「うん」
自然に決まった。
店主は無言で頷いた。鍋の中でスープが静かに揺れている。派手さはない。
しばらくして差し出された丼は、驚くほど普通だった。透明なスープ、細い麺、最小限の具。
「いいね」
彼女が言う。
近くのベンチに腰を下ろす。
一口、啜る。
その瞬間、言葉が止まった。
「どう?」
「……懐かしい」
自分でも意外だった。
「わかる」
彼女もすぐに頷く。
それ以上の説明はいらなかった。
「卵、頼もうか」
半分に割られたゆで卵を、彼女が差し出す。
「半分こ」
受け取るとき、指先が触れた。
音が少し遠くなる。
口に入れる。優しいはずの味が、なぜかぼやけている。
隣で彼女が同じものを食べている。
それだけのことが、妙に鮮明だった。
食べ終えて、丼を返す。
店の脇のごみバケツに、見慣れた赤いパッケージがいくつも見えた。
出前一丁。
彼女と目が合う。
「……あ」
「……ああ」
納得してしまう。
「まあ、いいか」
「うん」
それで十分だった。
少し歩いたところで、ふと口に出る。
「……ラーメンマン」
一拍の間。
彼女が立ち止まる。
「ちょっと待って」
顔を押さえる。
「今、同じこと思った」
「やっぱり」
「似てたよね」
「似てた」
次の瞬間、二人とも吹き出した。
笑いが止まらない。息が整わなくて、前が見えない。
「なんであの顔なの」
「わからない」
どうでもいいのに、妙におかしい。
しばらく、まともに歩けなかった。
笑いが落ち着いたあと、空気が少し軽くなる。
さっきまでの人の多さも、どこか遠い。
ふと、視界の端に赤が入る。
立ち止まる。
つつじが一輪だけ咲いていた。
この時期にはないはずの色。
「きれいだね」
「うん」
それだけで十分だった。
フェンスの前に戻る。
向こう側は、相変わらず近くて遠い。
でも、越えたいとは思わなかった。
回ればいい。
時間がかかっても。
彼女が隣にいる。
それだけで、十分だった。
白いシャツの胸元に、小さな染みができているのに気づく。
スープが跳ねたのかもしれない。
落ちるかどうかはわからない。
少しだけ考えて、やめた。
このままでいいと思った。
季節外れのつつじが、風に揺れている。
あの赤は、しばらく消えない気がした。
消えなくて、構わない。
