『吾輩はおっさんである?』──新旧かわいい対決──
──俺はおっさんである。
今、スーツを着込んで降伏のポーズで腕の痺れと戦っている。
現実に降参しているのだ。
満員電車はつらい。
あらぬ疑いをかけられぬよう、はなから降伏しておくのだ。
これはポーズなんかじゃない。
真の降伏だ。
かつてかわいい系男子でならした俺も、今じゃ見る影もない。
ぷっくり涙袋だったものは重力に負け垂れ下がり、頭の方も頭頂部がやや怪しい。
そして、最愛の息子が絶望している。
「目の下、象のキンタマみたいになるのか……!」
透き通る色白の顔を華奢な指で覆い尽くし鏡の前で嘆き悲しんでいる。
すまない、息子よ。
父の為体を許したまえ……
「ああ……千葉雄大も原型を留めていなければいいのに!」
「パパー! おトイレついてきて!」
「うわ! ……夏樹? 夏樹?」
きょとんとしている息子の頬を両掌でグイとつぶした。
「パパ? パパ?」
「うん、そう。パパ。パパだよ!」
「パパ、おしっこ!」
「うん。パパは、おしっこじゃあない。」
「パパ、漏れる!」
「うん。パパは漏れ……え?」
俺は夏樹の両脇の下に手を突っ込み、中腰で走る。
こういう時だけセレブが住んでいる世田谷あたりの大豪邸くらいトイレが遠く感じる。
「うお?」
腰に約十万ボルトが走った。
いや違う。
そんな気がする。
実際問題、あの黄色いネズミの放つ例の電撃を喰らったらこの世からさよならバイバイだ。
それともあれか?
あれに耐えられたら永遠の十歳でいられるとか?
「パーパー! ついてきてって!」
目的地を前にして二の足を踏む我が息子よ……
「俺の屍を超えて行け……!」
「やーだー! ついてきて!」
無様に四つ足で進む俺。
いつの間にかお馬にされる俺。
ああ……
それにしてもなんという、おぞましい夢を見てしまったのだろう。
「パパー?」
「はーい?」
「いるー?」
「うん、いるいる。」
──ガチャン、ガチャン
「夏樹? 鍵はやめなさいって言ったよ?」
「やってないよ?」
「やっている、それはやっている! さすがにやってるよね?」
──ジャー!
「いいこ、いいこ。パパいいこ! よく待てました!」
「夏樹もいい……って君ぃ? 手は洗ったのかね?」
「へへっ……」
「うわあああ!!!!」
俺は基本的にズボラだ。
正真正銘、徹底的にズボラだ。
学生時代なんて地面に落ちたグミだって何食わぬ顔で食ってきた。
でも「トイレの後手を洗わない男」、これだけは我が息子とて許すまじ!
頭頂部を、撫でる。
うん、ある。
後頭部も、撫でる。
ある、ある。
なんなら寝癖も、ある。
安堵したのも束の間、夏樹がリビングのテレビの音につられて走っていく。
「夏樹ー! 家の中走らない! それから……」
手を洗っていないだろう!
「いてて……」
三十二にして初のギックリか……?
俺もヤキが回ったものだ……
「ほら……夏樹、お手手洗……」
ピョコピョコ跳ね飛ぶ四歳児をヨタヨタと追い回している。
仕方あるまい。
俺はこやつの八倍も生きてしまっているのだから。
すると、リビングから劈くような悲鳴が聴こえてきた。
振り向く息子。
真っ直ぐに互いを見つめた。
そして、手を取り合い声をそろえる。
「ママが!」
「麻衣が!」
「危ない!」
「助けなきゃ!」
息子と俺はがっちりと手を繋ぎ、その声の元へと……
「ストップ! 夏樹! ごめん! ストップ!」
「パーパー……もう!」
すまない、息子よ……
不甲斐ない父を許したまえ。
打ち砕けし小趾、束の間忘却せし腰痛……
俺はダンジョンにでも住んでいるのだろうか?
目的地に辿り着くのに幾つの試練を乗り越えればいい?
這いつくばって、虫の息の俺の目に飛び込んできたのは赤と青のスーツを着こなすあの俳優だ。
人差し指を立て、相変わらずのきらめく瞳で微笑んでいる。
「ねえ! ちょっと! ほらほら! 夏樹! 見て!」
テレビの真ん前に連れてこられた息子は「ママ、髪の毛くすぐったい!」と顔にかかる巻き髪をかき分けている。
「かわいすぎる! 尊い!」
「ぼく?」
「千葉君!」
いまいち状況の掴めていない息子が若干不憫である。
そこは、「そうよ、なあ君のこと……」って微笑んで差し上げろ!
すまない……息子よ。
父は今……
「あれえ! パパ? パパ!」
夏樹は画面と俺とを交互に指さしている。
──……アールで……
「あーる!」
俺は、渾身の笑顔で人差し指を立てた。
「違う……」
次の瞬間、テレビの主導権は息子に代わり、満開の花を纏ったおにいさんが朗らかに歌っている。
すでにパリッとスーツを着込んだ麻衣が、慌ただしくトースターにパンを突っ込んだり、ゆで卵の殻をカンッとヤカンにぶつけたりしている。
「あと俺やるし、もう行きなよ。」
「え、大丈夫? また白身全滅の黄身爆弾みたいにならない?」
「大丈夫であーる!」
俺は人差し指を立てた。
束の間の静寂。
なんだろう、あの夏の初めの甘酸っぱい瞬間とは違う鼓動の乱射は。
……もしや不整脈?
俺は胸をおさえる。
「ちょっともう! それ。」
麻衣は俺の背中を叩いた。
年々この力が増していることに慄きを隠すことなく
「痛い……うう……痛い……麻衣ちゃん、それ怖い。」
と怯えて見せる。
「で、今日わかってるよね……?」
どすを効かせたその声が……
嫌いじゃない、むしろ好き。
そしてもちろん……
「大丈夫であーる!」
もう一度、にこやかに人差し指を立てた。
麻衣は上を向いている俺の指を九十度に折り曲げる。
その先にはショートケーキのイラスト入りの小さな紙が貼り付けられている。
額が脂汗でテカッている気がする。
今一度背中にドスッと衝撃がきた。
俺は冷蔵庫にへばりついている。
「ああ! もうこんな時間。」
項を垂れる俺をよそに、麻衣は慌ただしく玄関へと駆けていく。
「いってらっしゃい!」
「ママ、いってらっしゃーい!」
ドアが閉まる。
「ふう……」
なぜ、俺は今ため息をついたのだろう。
「パパ?」
息子が服の裾を引っ張る。
「ん?」
白と黒の犬がデカデカとプリントされたシャツを着ている。
俺の大好きなキャラクターだ。
うん、趣味がよろしい。
「パパ、今日おやすみなの?」
上目遣いで潤むな、それは反則だ。
だが、わかっている。
さすがは俺の息子だ。
「えっとね、お仕事……」
夏樹の肩へと伸ばした自分の腕が柔らかな青いチェック模様に包まれている。
テレビでは白と緑のふわふわの犬がキレのいい踊りを披露している。
だめだ、こうしてはいられない。
もうここからどう動いたのかもわからない。
ただ、小趾は両方とも砕けたこと、ショートケーキのイラスト入りの小さな紙をスーツのポケットにねじり込んだことは覚えている。
「行ってきます!」
俺は夏樹と手を繋いで家を出る。
「いってらっしゃーい!」
「お、今のは……」
「おうちさんの声!」
ポケットに鍵をしまう。
あの紙がくしゃっと指に引っかかる。
ほんの少し強過ぎる陽射しと、息子の笑顔に目を細めながらいつもの道を歩き始めた。
(続)
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恋愛小説もある。
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大正時代のお手紙。
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書店で放屁したことを詫びるエッセイ。
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ゆきお様・作
この家族の未来を描いてくださいました。
そこに光はあるのか?
そもそも光ってなんだ?
幸せって、本当に光るもの?
“幸せ”とは、を定義し直す問題提起の作品。
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