「大丈夫であーる、家族」
よもぎさんに捧ぐ
「何があっても、大丈夫であーる」
これは、
ちょっと年をとったパパと、
四歳の元気いっぱいの息子・夏樹と、
しっかり者のママ・麻衣の、
ドタバタな朝のお話――だった。
パパはある朝、洗面台の鏡をのぞき込み、ため息をついた。
「昔はかわいかったのに……今は完全におっさんであーる」
語尾をふざけて伸ばすのは照れ隠しだ。
夏樹はそんなことおかまいなしで、トイレへ全力疾走する。
「パパおそい!もれちゃうであーる!」
いつ覚えたのか、その妙な口調まで真似する始末。
二人は廊下をバタバタ走り、途中でぶつかり、笑い、ママに叱られる。
「はいはい、二人とも静かに。朝から運動会しないの」
テレビのヒーローを見ては張り合い、歯磨きの泡を飛ばし、靴下はいつも片方行方不明。
家の中は騒がしいのに、なぜかあたたかかった。
パパはよく言っていた。
「大丈夫であーる。人生は、だいたいなんとかなる」
その言葉は冗談みたいで、でも本気だった。
――それから、五十年。
パパは八十九歳になった。
物忘れが進み、同じことを何度も聞く。
昔のことは鮮やかに覚えているのに、今日のことはこぼれ落ちていく。
「夏樹は、トイレ間に合ったか?」
もう四歳ではないのに、時々あの朝に戻る。
夏樹はというと、脳溢血で倒れ、病院のベッドで静かに横になっている。
たくましく働き、笑い、転び、立ち上がってきた人生だったが、体は今、ゆっくりとしか動かない。
麻衣もまた、交通事故で足を悪くし、車椅子生活になった。
あの頃、家中を走り回っていた人とは思えない。
けれど、目の奥の強さは少しも変わっていない。
若いころ、麻衣は夢見ていた。
夏樹が結婚し、孫が生まれ、にぎやかな食卓を囲む未来を。
それは、かなわなかった。
けれど、麻衣は言う。
「まあでも、生きれただけで、よかったわ」
少し笑って、肩をすくめる。
「大丈夫であーる、でしょ?」
その口調は、あの人そっくりだ。
麻衣は今、介護の仕事をしている。
自分も車椅子なのに、毎日忙しい。
書類、連絡、訪問、声かけ。
思い通りにいかないことの連続だ。
それでも、夫と息子のお見舞いは欠かさない。
午前はパパの施設へ。
「こんにちは、パパ。今日は何曜日でしょう?」
「うーん……夏樹の運動会であーる」
まちがいだらけの答えに、麻衣は笑う。
「じゃあ優勝した?」
「もちろんであーる!」
胸を張る姿は、少しだけ昔のままだ。
午後は夏樹の病室へ。
「お母さん、来たよ」
ゆっくりまばたきをする息子の手を握る。
昔はあんなに小さかった手が、今は自分より大きい。
「パパ、今日も元気だったよ。トイレ間に合ったって」
夏樹の口元が、わずかにゆるむ。
病室の窓から光が入る。
完璧じゃない人生の、やわらかい午後だ。
麻衣は思う。
うまくいかなかったことは、たくさんある。
思い描いた未来とは、だいぶちがう。
でも――
朝、目が覚める。
コーヒーの湯気が立つ。
誰かの手を握る。
笑う。
それだけで、十分ではないか。
帰り道、車椅子を押しながら空を見上げる。
夕焼けがにじむ。
「大丈夫であーる」
小さくつぶやく。
あのドタバタの朝も、
今の静かな夕方も、
全部まとめて、この家族の時間だ。
派手ではない。
理想通りでもない。
それでも確かに、ここまで生きてきた。
パパは時々、昔のヒーロー番組の話をする。
「悪者が出てもな、最後はだいたい勝つのであーる」
麻衣は笑う。
「負ける日もあるけどね」
「でも大丈夫であーる」
その言葉は、もう呪文のようだ。
夏樹のベッドのそばで、
パパの施設の廊下で、
麻衣の胸の中で、
その言葉は静かに生きている。
五十年たっても、
トイレへ走った朝の笑い声は消えない。
家族は形を変える。
体も変わる。
できないことも増える。
それでも。
今日も会いに行く。
今日も声をかける。
今日も笑う。
「大丈夫であーる」
明るさとは、何も起こらないことじゃない。
いろいろあっても、笑うことをやめないこと。
この家族は、
うまくいかない人生を、
にぎやかに引き受けながら、
今日もちゃんと、生きている。
