『殴り殴られ詩人酒場』ep.91「老耄の揺り椅子」
「ずいぶんと精が出るじゃねェか。」
熱っぽい煙草の匂いが耳朶を撫でる。
「なあ、朔。」
尾骶骨へと這い上がっていく骨ばった感触に脊髄が痺れた。
肺が震え、奥歯が鳴った。
「ちょっと、あんた! 汚い手で朔ちゃんに触るんじゃないよ!」
「いやだね、イヨちゃん。 ちゃァんと洗ってきたさ。それともなんだい? 妬いてるのかい?」
斜向かいの親父は悪びれもせず、口から鼻から煙たい笑いを噴き上げた。
「まあいいじゃねェか、減るもんじゃねェんだし。なあ?」
季節にそぐわぬ粘着質の汗が背をぬめり下る。
指の突きどころが悪く、俺は沓脱石に膝を打った。
「それにしたってなんだってまた松の内も明けねェってのに障子なんか……」
男は此処にきて二本目の煙草に火をつけた。
指から落ちた燐寸が濡れ土の上で、ジッと音を立てる。
錆を甘くしたような匂いが鼻先をつく。
「おや、あんたにしちゃ珍しくまともなこと言うじゃないか。」
イヨさんは肘で親父を小突く。
親父は「おっと」とよろめき、緩い土を踏み、苦い顔をして煙を吐いた。
「この子ったらね、カツレツよりも帝大よりもコレがいいんだって。」
椿の葉が鏡面の如く光を弾き、雀が一羽、舞い降りた。
「そうかい。んまァ、俺がこいつでもそうすっけどな。」
そう言うと親父は俺の右手側の椀に小指を突っ込んで舐めた。
「ま、俺ならコレはいらねェけど。」
さっき自分が踏んだ土に唾を吐き、「口直し、口直し……」とぼそぼそ呟き吸い紙を噛み潰した。
土の上には泡と白粒が塊になって落ちている。
「おおよそ、そこのお二人さんで燃やしたか、突き破ったか……」
男の視線は下方を流れる。
「馬鹿言ってんじゃないよ、この助平親父が!」
イヨさんが親父の脛を一発蹴飛ばした。
「いいねェ、イヨちゃん。そりゃ、こいつもうちに帰りたがらねェわけだ。なあ、朔太郎?」
「朔太郎でねェ。朔也な。」
「相変わらず細かいねェ……」
雀が続けざまにもう一羽、もう二羽と舞い降りてきた。
まんまるな小鳥はじく、じくと盛んに土をつついている。
度に白粒が飛ぶ。
俺は、ぞっとして沓脱石へ飛び乗った。
男は口の端から煙を上げつつ粘っこい笑いを浮かべ、三羽の雀を眺めている。
「ほれほれ……雀の子。お逃げよ、お逃げ。舌、切られっぞ……」
奴は歌うように囁いた。
「誰が意地悪婆だって?」
イヨさんが男の影になんらか衝撃を与えたらしい。
尻餅をつく親父を尻目に俺は椀を引き寄せた。
男は少々蒼くなって柿の木に凭れ、煙を吹いている。
「なあ。おめェ、もっと早く手、動かせねェか?」
口の端に吸い口を引っ掛け手振りした。
「おめェ、まさか……」
「それとこれとは話が違ェだろ。」
「ん?」
いつの間にやら真横に移動してきた男は糸を引きそうな笑みを浮かべる。
「なに想像した?」
不穏な指を俺は見逃さなかった。
しかし、それは核心に到達する僅か手前でぴたりと止まった。
そして、火の消えるように視界から失せた。
手拭いの翻る音が空を割る。
「ああ、ああ……見てらんねェや。ほれ、貸してみ。」
親父は煙草を沓脱石に放り下駄の歯で躙ると、着物の袖をたくし上げた。
そして俺の手から刷毛をかっさらい、木格子の上を走らせる。
「紙、紙よこせ。」
丸めてあった古ぼけた真新しい障子紙を男に差し出した。
「そんで、おめェは奥持ってくれ。」
俺は言われた通り、下駄を脱ぎ捨て縁側によじ登り、言われた奥を持った。
「で、角に合わせてとめとけ! そうだ、そう。おめェにしちゃあ上出来だ。」
「ああ?」
文句のひとつでも言ってやろうと思ったが、そんな思いは瞬間掻き消えた。
「やあ……藤吉っつぁん、すげェや……」
心の底から漏れた言葉だった。
「俺の手にかかりゃァ、こんなもん朝飯前だ。」
男は脂下がった顔で鼻を弾いた。
五秒程後になって、例の漏れ語を悔やんだが、もうどうする術もない。
とはいえ、すっかり気をよくした親父は「その他、御用命は?」などと御用聞きして回る。
「あるよ、たァんとね。」
「へいへい、なんなりとお申し付けくだせェ。お代の方は……」
「弾まないよ、ゴムマリじゃああるまいし。」
「チェ……ケチ臭ェ婆だな。」
「聴こえてるよ!」
この後、親父は桐箪笥の取っ手を付け替えた。
玄関扉の悲鳴は止んで、半開きの間抜けな窓はぴたりと閉じた。
その度、俺は手を叩き、感嘆の息を漏らす。
黄色の陽が微睡み始めた刻のことである。
「おい、朔太郎! ちょっとこっち来い。」
「んだよ! あと、朔太郎でねェ! 朔也だ。何回言わせんだ。」
「まあ、そうかっかすんな。おめェもこの年になりゃァわかるさ。」
親父は鼻の下を擦った。
わかってたまるものか、そんな思いで俺は残り雪を蹴飛ばす。
かんっと下駄の歯が鳴った。
「いつまで突っ立てんだ。こっち来。」
男の手招きする空間の入り口には、いつ架けられたやもわからぬ主人なき蜘蛛の巣やら夏草の残骸と思しき色彩を失くしたものどもが、てんでんばらばらに揺らめいている。
さほど広くも無い物置は、親父の吐いた息のせいか薄らと煙草の匂いがした。
「ほれ、これ。」
そこには古びた籐の揺り椅子があった。
左の橇は無く、埃をかぶっている。
親父は腕を組んだまましばらく黙っていた。
「おめェよ、この椅子見たことあるかい?」
記憶を手繰った。
此処に越してきた日から今、この瞬間まで。
屈んで、立って、一回り。
立って、屈んで、二回り。
「いんや、見たことねェな。」
俺が首を捻ると親父はぶっと唾を飛ばした。
「朔也、おめェ、随分と律儀じゃねェか!」
そう言うと俺の頭をもみくちゃにした。
肝の悪そうな眼が、わずかな光に濡れている。
俺は黙って、頭を垂れたままにした。
「これ、藤吉! あんた、また朔ちゃんに悪戯して……」
「おうおう、見られちまったか。」
二人があれやこれや言い合う間に、俺は蹲みこんで揺り椅子の埃を吹いた。
舞い上がった埃は人影を縫って差し込む陽の光に照らされ金剛石の砂の如く煌めいた。
その煌めきは肺の中で弾け、心地の良い咳が溢れた。
きらきらと舞う誇りも、俺の咽せも、どちらも切れ目なく続く。
「やだよ、朔ちゃん。あんたって子はもう……」
イヨさんは腰をおろし、俺の背をさする。
「とんだ馬鹿息子だの。」
そう言って笑う目の前の男に、自分の面影がひとつも見当たらないことが俺は嬉しかった。
「おや。」
イヨさんは揺り椅子の肘掛けを撫でた。
「こんなとこにいたのかい。」
俺は首を傾げた。
「これ、じいさんのだよ。もらい物なんだけどね、もらって二日でこれさ。馬鹿だろう?」
イヨさんの眼は弓形に動いた。
失われた左の橇なぞるように。
「おいおい……おめェ、もっと腰入れろや。なんだい? その老耄の白犬みてェなざまは……」
「うるせェな! 鉋なんか使ったことねェんだよ!」
「いやだねェ……これだから坊々は……」
「あ?」
親父は俺の腰をぶん殴って鉋を奪った。
程なくして薄く白んだ木の匂いが立ち昇る。
鉋屑はまるで紗の帯のように陽を透かして中空を流れた。
「さあ、イヨちゃん。座っとくれよ。」
「いや、いいよ。朔ちゃん、あんた座っとくれ。」
俺は畳に寝転んで脚を組んでいた。
あくび混じりに「いんや、いい……」と返した。
半分ほどは夢の方へ身を浸していたように思う。
ぼんやりと椅子を眺めていると、そこに誰か座るのが見えた。
若草色がぼやけている。
はっきりと視ようにも、睫毛に当たる光が邪魔をする。
不意に口が塞がれた。
前の歯が何かをはっしと捕らえた感がある。
舌にじわじわと滲みてきたものが、喉の手前で垂れ落ちて、ようやく眼が色の輪郭を捉えた。
──女王様みてェだ!
肘掛けに腕をかけたイヨさんを俺の眼はそう言い表した。
「何言ってんだい、朔坊。」
男は俺の口から飛び出している板を手の剣で叩き込む。
その手を払い除け、掴んだ板を前歯で砕く。
「チョコレイト……」
俺は少し怖くなった。
自分から漏れた声が、あまりにあどけなかったからだ。
「腹減った……」
誰も声を発さなかった。
ただ、道をゆく人の言葉が何とはわからぬ形で流れ去る。
親父が煙草の箱を握り、ふっと笑う。
イヨさんもつられたように息を漏らした。
「ほれ、朔ちゃん。だから大ちゃんたちについてけばよかったろう?」
椅子から降りたイヨさんは俺の前髪を撫で上げた。
「ちょっと早いけど晩飯にでもしようかね。」
そう言って立ち上がったイヨさんは、もう女王でも何でもなかった。
「なあ、イヨちゃん。大根はこんなんでいいのかい?」
「ずいぶん不恰好じゃないか。朔ちゃん、なんとかしておやりよ。」
「面倒臭ェな……貸せ。もう藤吉っつぁんはあっち行って休んどいてくれよ。」
この調子では、腹の虫は飢え死んじまうかもな。
俺は薄く笑っている。
障子は陽を透かし、籐の揺り椅子を橙に染め上げた。
縁側の床板を網目模様の影が刻々と夜を連れてくるようであった。
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【創作大賞2026】にもエントリーしております、詩人酒場。
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前回のお話。
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もうすぐ完結。
【習作】にして連載、井上と白石シリーズ。
これはあれです。
高校一年の夏、クラスメイトが自宅にやってくる編です。
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次の一話、書いては消し書いては消しで進まぬつつじ。
貝原瑞樹の葛藤がまんまワシに降りかかる、というちょっとした制作秘話を明かしました。
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【エッセイ?】
一年前の今日は何を投稿したのかしら。
「残念なアラサー辞典」夏休み特装版・初回特典アラーシール付
……タイトル長!
よく見かけるライトノベル並みに長!
あと、アラサーシールって何。
いらないんだけど。
購買意欲をそそられないですね。
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ゆきお様・解説
綻んでも直せる。
直せるものは直す。
時にはだめなときもある。
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ポテトチップスよりも
お・ぬ・し