誤字と五時──『水辺のつつじ』ep.36
歯磨き粉で顔を洗い、洗顔料で歯を磨く。
そんなでき過ぎた失敗、ある訳がないなんて鼻で笑っていたあの日の僕へ。
君はやるんだ、六年後。
さすがに歯磨き粉で顔──それをしていたら、こんな風に君を思い出すこともなかったかもしれないけれど……
僕は涙目で口から泡を吹いた。
これじゃあまるで、昔話の蟹だ。
幾度となく口を漱いだ。
気が急いている時に限って、妙に遠回りをしたくなる。
それが僕の悪い癖だ。
わかっているけれど、やめられなかった。
三日三晩つけっぱなしのエアコンのおかげで部屋はハイビスカスでも咲きそうなほどだった。
僕は首からタオルを下げて、バイト先でもらったポインセチアの切れっ端の水を換える。
ほんの少しご機嫌斜めのプリンターが吐き出す「レポート」と言う名の知識の寄せ集めを三枚ひと綴で五部、ホチキスで留めていく。
三部留めたところで針が切れ、補充した。
気づけば「レポート」のそこかしこが点状に灰色のヨレている。
──まずい。
僕はスマートフォンの画面を叩く。
──極めてまずい。
僕は手近な……さっきまで着ていた服を、不愉快に生温かい服を上から順番に着直しながら洗面所へと急いだ。
ドライヤーを持ってくる。
その熱風の先にあるのは五部の紙束。
早く、早く、早く……
肩から背中にかけて、じっとりと湿り始めていた。
そこからはほとんど無意識だった。
紙束、ペンケース、パソコンから引き抜いたUSBメモリ、試験科目のテキスト……
それら全て適当なトートバッグに詰め、ハンガーからコートを引き剥がす。
最後に棚の左から三番目の文庫本を滑り込ませた。
スニーカーと革靴が並んでいる。
僕は迷いなくスニーカーに足を突っ込んだ。
薄汚れた紐を解き、ぎゅうぎゅうと締めあげ結び直した。
「あ……」
まただ。
右だけが縦結びになっている。
背骨を、嫌な汗がつたった気がした。
もう一度、解く。
また、縦結びになった。
三度目の正直になんら希望を見出せなくなった僕は、鍵を捻り、レバーを下げる。
この扉はいつだって一瞬躊躇うのだ。
それが今日は扉がどこかへ持っていかれそうな軽やかさで開いた。
油断していた僕は転がるように外へ飛び出した。
瞬間、冷えた空気が濡れ髪を梳いた。
「寒……」
「辛……」
僕は語幹だけの独り言を発しつつ、鍵をかけた。
鍵と入れ違いにスマートフォンの画面を光らせる。
──九時〇一分
提出期限は九時三十分。
ここから大学まではだいたい十分。
十分、間に合う。
……教務課の行列さえなければ。
僕は走り出していた。
角の家の猛犬が甲高く吠え続けている。
犬の吼え声が速いか、僕の息が速いか、もうわからないほどになっている。
紋人さんが古本屋の店先を掃いているのが見える。
彼は大きく頷き僕に手を振った。
僕はできるだけの笑顔を向けたつもりだけど、もしかすると苦悶に満ちた妙な顔だったかもしれない。
それでもまだ走り続けた。
──いい! 瑞樹君走るの遅いから! いい!
ふと、彼女の言葉が過った。
脳裏なんかではない、眼前を。
スマートフォンの画面を見る。
──九時十一分。
側頭動脈が深く、大きく拍動している。
押し返してくる血管をつぶしながら僕はキャンパスの奥へと進んだ。
こめかみあたりで暴れる脈のせいで景色が歪む。
案の定、教務課から伸びていると思しき人の列が遠巻きに見えている。
「……瑞樹君?」
コートの裾が引かれる。
振り向くと、彼女がもう半分閉じかかったような目で僕を見ている。
「へへ……やっぱり……瑞樹君だ……」
違う人だったらどうするつもりだったのだろうか。
「はい、瑞樹君です。」
僕たちは列の最後尾に並んだ。
僕はレポートをめくり、誤字脱字の有無を確認していた。
横目に、彼女が幾度となくあくびをするのを見る。
「眠れなかった?」
「寝てる場合じゃなかったんだもん……」
彼女は不意に頭を凭れかけてきて、そのまま静かになってしまった。
しどろもどろする僕にお構い無しに彼女の身体の均衡はどんどん崩れてくる。
「ゆうか?」
いよいよ抱きかかえるみたいな形になってしまい困り果てていると「二十分。二十分だよ。」と彼女は唇を尖らせていた。
僕は時計を見上げた。
「十八分だよ?」
「違う…… 私の睡眠時間の話……」
わかってたよ、でも「ごめん」。
僕はまた誤字脱字の有無を確認し始めた。
「え?」
「瑞樹君? なに?」
僕はおずおずと彼女の前にレポートを差し出した。
もちろん、見てほしいところに指を置いて。
「ち、あ、ん、い、じ……」
彼女はたどるように読み上げていく。
「れい……」
そして僕の顔を見上げて言った。
「治安維持霊……」
眠たい、間延びした声だった。
彼女は目をこすり、肩を震わせている。
僕はレポートにとんでもない霊を下ろしてしまったらしい。
「これ、どうするの?」
「さすがに霊に治安維持は荷が重いでしょ。」
「う……ん?」
「印刷し直すよ。」
彼女を列に残し、僕はまた走り出した。
「瑞樹君!」
──いい! 瑞樹君走るの遅いから! いい!
また、あの言葉を唱えていた。
「二十四日って……」
「バイト!」
振り向いて元に戻って、もう一回振り向くことができなかった。
彼女の言葉を遮ってしまった後ろめたさから。
「そっか。」
風をきる。
まだ、右腕に彼女の体温が残っている。
誤字なんて、そのままにしておけばよかったのかもしれない。
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【創作大賞2026】
恋愛小説部門エントリー中。
年末、大学は試験にレポート提出に大忙しだった。
一番の被害者は教務課の職員だと気づいた時にはもうこんな年齢でした。
ごめんなさい。
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大正時代は「一酸化中毒」の呼び方が独特だったよ!
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【エッセイ】
昔の作文の話。
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ゆきお様・解説
解説してくださいました。
なるほど、こういう読み方もできるのか……
と。
解釈というのも十人十色。
だから面白い。
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よもぎちゃーん!
はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し