『殴り殴られ詩人酒場』ep.47「麺麭と瓦斯」
「遅い……」
そう言って俺の腕を掴む華奢な指は黝く汚れていた。
掴まれた腕の先の手指もまた、等しく汚れている。
肘のあたりを掴んでいたはずの指が、手首にまでずり落ちていた。
振り向けばあの男が虚ろな目で俺を見上げている。
八角形の硝子天井から注ぐ光の粒が男の髪を淡い栗色に透かしている。
その髪の間からのぞく頬は紅潮し、唇は桜桃の如く紅みを帯びている。
静かに浅い呼吸を繰り返す様は異様なまでに艶かしく、俺を慄え上がらせた。
奴と俺はどちらが支えるでもなく、歪な均衡を保ちながら壁づたいに歩く。
主導権を取り合うようにして。
研究室の扉に手をかけたのは俺だった。
しかし、先に部屋へと身を投じたのはあの男だ。
彼はおぼつかない足で部屋の奥へと向かう。
つや消しに磨かれた革靴は木造りの床を軋ませた。
規則的な無法地帯、もしくは理路整然とした混沌を乱し彼は進む。
そしておもむろに窓を開け放った。
鳩の飛び立つ音が散り、枯葉をさらった風が一気に吹き込んで来る。
俺は冷静だった。
あまりに冷静だった。
窓から侵入した冷風に殴られながら、男が蹴散らした草や花の乾きかけを拾い集め束ねていく。
その中には、俄かにはそれだと判別のつかない例のヒアシンスも紛れていた。
相変わらず、饐えた哀しげな匂いを漂わせている。
男はその時、あまりにも無防備だった。
非力な俺でも今なら指一本で足りる気がした。
そう思わしめるほどに窓枠から身を乗り出ししている。
「落っこちますよ。」
俺の声など聴こえていないのだろう。
返事がない。
ただひたすらに生み出されたばかりの風を貪るように背を膨らませている。
俺は火鉢の上にかけた網に乗せられた麺麭を眺め下した。
古い記憶から「炭酸瓦斯中毒」を引っ張り出しつつ、今にも炭になりそうな匂いのするそれを指でひっくり返した。
その切迫した黒い香とは裏腹に、麺麭は清廉な色を保っている。
「え」と妙に低い声が漏れた。
いつの間にやら男は隣で腕を組んで立っている。
窓を挟み壁に凭れる。
だんだんと元の蒼白い顔に戻っていくのを横目で幾度となく覗き見た。
男は網から麺麭をはずすとバターナイフで器用に半分に切り分けた。
「食え。」
すっかり色をなくした唇はかすれ気味に言葉を繰り出す。
差し出された麺麭を持つ指先はやはり黝く汚れていたし、それを受け取る指先も負けじと汚れていた。
少々焦げの強い端を食もうと開けた口を閉じんとした瞬間、男は唐突に「昨日、来ると思っていたのだが……」と妙に子どもじみた口調で言ったものだから、危うく舌を噛むところだった。
俺は聴こえなかったことにして今度こそと麺麭の端を齧る。
「昨日、来なかったな。」
男は麺麭の縁を神経質に剥がし、わずかに開けた口に詰め込んだ。
「火曜日の夜だ。」
「夜だぞ、火曜日の。」
らしくもない、冷静さを欠いた言葉の重ね方が俺の油断を招く。
「先生、もしかして寂しかったんですか?」
極めて冷徹で無愛想な男が見せた一瞬の隙をここぞと言わんばかりに痛ぶってやりたくなったのだ。
「……お、お前、いつまで一口の麺麭を噛み続けるつもりだ? あとそれから俺はお前の……」
「先生だったことはない、ですね?」
彼は網と火鉢の隙間から、炭の上にヒアシンスの亡骸を乗せる。
「お前……わかっていて……からかったのか?」
「いや、そんな。滅相もございません……」
重く甘ったるい腐乱臭が立ち昇る。
俺は襟元に隠した紙束がかさつくのを感じ、悟られぬよう口角を吊り上げた。
俺は目の前の男に呼びかける手段を持たない。
その実、名を知らぬのだ。
「遅い……」
いつの間にやら食べ終えていた男は万年筆を原稿用紙に押し付けて反対の指で机を叩いている。
──物語に逃げられた人間の所作だ。
俺はさらに速度を緩め、発酵の逆再生の如く舌の上で小麦の塊を弄んでいた。
──まだ、呼ぶには早過ぎる。
あたかも自分が時の流れを操っているような妄想になって、俺は男の苛立ちを遠巻きに眺めていた。
(続)
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創作大賞2026、オールカテゴリ部門エントリー中。
大正時代の文学青年たちの学生生活@東京
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恋愛小説部門にもエントリー中。
こちらは現代。
人生に不慣れな大学生・貝原瑞樹の恋愛を描きます。
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死を待つ彼の最後の言葉。
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未亡人の独白。
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ゆきお様・作
火曜日の意図とは。
なぜ彼は行かないのか、なぜ彼は待つのか。
読めばわかる、かもしれない。
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