『殴り殴られ詩人バラバラ』ep.47「火曜日は来ない」
よもぎさんに捧ぐ
「遅い……」
そう言って、男は俺の腕を掴んだ。
廊下は長く、光は薄かった。天井の一部が八角形にくり抜かれたような古い採光窓から、白く鈍い光が斜めに落ちている。埃が浮いて見えた。
男の指は冷たく、乾いていた。粉を触ったあとのようなざらつきがある。白でも黒でもない、曖昧な色の汚れが、皮膚にうっすらと残っている。
「……来てるじゃないですか」
俺はそう言って、掴まれた腕を軽く持ち上げる。
男は離さない。だが、力は弱い。こちらが少し引けば、すぐにでも滑り落ちてしまいそうな頼りなさだった。
「火曜日だぞ」
「知ってますよ」
「知っていて来なかった」
「知っていたから来なかったんです」
その一言で、指先の圧がわずかに増す。しかしすぐに抜ける。
男は俺の腕から手首へと、ゆっくりと掴む位置を滑らせた。
振り向くと、虚ろな目がこちらを見上げていた。
呼吸が浅い。唇だけが妙に赤い。
「……そうか」
納得したような、していないような声。
俺たちは壁づたいに歩く。
どちらが支えているわけでもない。だが、どちらかが崩れれば、そのまま一緒に崩れそうな、妙な均衡だった。
研究室の扉に手をかけたのは俺だった。
だが先に中へ入ったのは男のほうだ。
部屋は荒れていた。
机の上には紙束。床には乾きかけた植物。標本なのか、ただ放置されているだけなのか分からない。
男はおぼつかない足取りで奥へ進むと、迷いなく窓を開け放った。
錆びた蝶番が鳴る。
風が一気に入り込む。
どこかで鳩が羽ばたいた音がして、積もっていた枯葉が舞い上がった。
「……寒いですね」
俺は言う。
男は答えない。
ただ、風を吸い込むように背中を膨らませている。
窓枠に身を乗り出しすぎていた。
「落ちますよ」
返事はない。
俺の声など届いていないようだった。
火鉢があった。
こんな場所に、と思う。
その上に網が置かれ、パンが一つ乗っている。
焦げる匂いがしているのに、見た目は妙に白い。
焼けているのかいないのか分からない。
俺は指でひっくり返す。
「……炭酸瓦斯中毒」
ふと、昔の授業の言葉が浮かぶ。
「CO中毒でしたっけ」
誰にともなく呟く。
その瞬間だった。
「食え」
いつの間にか、男が隣に立っていた。
顔色は少しだけ戻っている。
窓の近くに立ち、壁に背を預けている。
パンを半分に割り、差し出してくる。
俺は受け取る。
指先が触れる。やはり汚れている。
口に運ぶ。
硬い。
だが、甘い。
妙に甘い。
「パンダの好きな食べ物は」
唐突だった。
俺は口の中でパンをもごもごさせながら、少しだけ考えるふりをする。
「……パンだ」
間。
男は無言でこちらを見る。
「くだらん」
「振ったのそっちですよ」
俺は肩をすくめる。
「火曜日、待っていた」
男が言う。
さっきよりも、少しだけはっきりした声だった。
「来ると思っていた」
「来ませんよ」
「なぜだ」
「理由は他愛ないです」
「言え」
俺はパンの端をもう一口齧ってから、ゆっくりと答える。
「チューズデイだからですよ」
「……何だそれは」
「あなたの不意打ちの」
一拍置く。
男はじっと見ている。
「チューを」
沈黙が落ちる。
「どうしても避けたかったんで」
風が強く吹き込む。
紙が一枚、床に落ちた。
男の口元がわずかに歪む。
「……チュー避けか」
「そうです」
「くだらん」
「そうでもないですよ」
俺は床に散らばった植物を拾い上げる。
その中に、見覚えのある花が混じっていた。
「ヒヤシンス」
言うと同時に、鼻をつく甘い匂い。
だがそれは、どこか腐ったような甘さだった。
男はそれを拾い上げると、火鉢の上に放り込む。
「……燃やすんですか」
「もう終わっている」
火が弱く揺れる。
花はすぐに黒く縮む。
甘ったるい匂いが、さらに濃くなる。
「もったいないですね」
「何が」
「きれいだったんでしょう」
男は少しだけ間を置く。
「……ああ」
それ以上は言わない。
男は椅子に座り、原稿用紙に万年筆を押し付ける。
書いていない。
ただ、押しているだけだ。
指で机を叩く。
リズムは乱れている。
「書かないんですか」
「書いている」
「書けてないじゃないですか」
「……逃げた」
「何が」
「物語が」
短い答えだった。
俺はパンを食べ終える。
口の中に、妙な苦味が残る。
「じゃあ、そろそろ」
立ち上がる。
「もう行くのか」
「ええ」
「コーヒーでも淹れる」
「ここでですか」
「……できなくはない」
「やめときます」
「少しは居ろ」
引き留める声だった。
珍しく、はっきりと。
俺は少しだけ迷うふりをしてから、首を振る。
「今日はやめときます」
「なぜだ」
「またチューされると困るんで」
「しない」
「信用ないんですよ」
立ち上がった、その瞬間だった。
腹の奥に溜まっていたものが、勝手に出口を見つけた。
小さく、しかしはっきりとした音。
「……あ」
空気が止まる。
男がこちらを見る。
俺は視線を逸らす。
「……ガスか」
「……不可抗力です」
「換気はしている」
「じゃあ問題ないですね」
「……そうだな」
ヒヤシンスの焦げた匂いと、わずかなガスの気配が混ざる。
妙に重たい空気だった。
「遅い……」
男がもう一度言う。
今度は、ほとんど独り言のように。
俺は振り返らない。
「来てるだけマシでしょう」
扉を開ける。
廊下の空気は冷たく、軽かった。
背中に視線を感じたまま、俺は歩き出す。
火曜日は、やはり来なくて正解だった。
