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僕の生活、君の時間──『水辺のつつじ』ep.46

いくらなんでも寝過ぎたかもしれない。
ここ最近の不要普及の日の出前起床──もとい御隠居ごいんきょ的生活がたたったのか、目が覚めたのはかろうじて午前中、という時間帯だった。
窓から差し込む陽の光は、きっともう沈む時のことを考え始めている。

僕は目覚まし時計を握りしめたまま、ぎしぎしに固まった背中の痛みが霧散していくのを待っていた。
ベランダの、どうしてそこだけがそうなのか理解できないロココ調の柵で、三羽のすずめが膨れている。
そういえば、昨日眠ったのはまだ日も暮れきっていない頃だった。
ともすれば、今日もまた日の入り前に眠ってしまったら「鳥よりも遅く起き、鳥よりも早く眠る」なんて、なんとも名状めいじょうし難いものになってしまう。

そんなことを考えているうちにすずめは一羽だけになっていた。
背中の痛みもあと一歩といったところ。
明らかに捕まえることのできないすずめを掴むように腕を伸ばした。
白い塊が落下していくのを横目に見た。
「あ」の一文字すら発する間も無く、固いものが床に落ちる音を聴いた。
スマートフォンがうつぶしている。
慌てた僕はその上に目覚まし時計を落っことした。
その背中は「泣きっ面に蜂とはこのことぞ」とでもいっているようだった。

「ごめん!」
もはや、無機物への謝罪もお手のもの……
それもいかがなものかと思うけれど。
薄らいできた背中の痛みに「イテテ」と漫画のふきだしにも入らなそうな三文字を口にして、床に落ちたスマートフォンを摘み上げた瞬間、
──かしゃり
シャッター音が鳴った。
声もなく狼狽えてもう一度、固く打ちつける音を聴いた。

恐る恐る表を返すと、真っ暗なガラスには僕の寝惚け顔がはっきりと映っていた。
頭の上では水仙の花が揺れている。
肺が空になるまで息を吐いた。

カメラロールにはブレた床と、直前にはイヴの夜の靴紐の蝶が残されている。
もう一度水仙を見遣る。
今吸った息はもうため息に変わった。

画面上部に「新着通知二十件」と雑なデジタルテキストが浮かぶ。
どうせまた深夜の宅配便か身に覚えのない三億円の取り立てだろうと、何の気なしにタップした。

彼女からだった。
もちろん、全てではなくその中の四分の一。
昨日の夕方、そして夜。
それから夜更け、朝の九時ごろ、最後は僕が目覚める少し前だ。

気づけばもう、十二時を過ぎたところだった。
きっとお昼ご飯の最中だ。
父親特製の打ち立てうどんと祖父が裏庭で原木叩いて丹精込めて育てた椎茸を、母親が天ぷらにしたものを、妹と取り合いになりながら食べているかもしれない。
折り返そうとして画面を叩きかけた指を折りたたみ、ようやく身体を起こした。
一時間……一時間半後にかけなおそう。
そのあたりならデザートも食べ終わっているはず。
もうすっかり背中の軋みも良くなっていた。

人様の家の食事を想像したら、ほんの少しだけお腹が空いた。
僕は冷蔵庫を開ける。
砂漠に湧き出た泉の如く、ひとつだけアロエ入りのヨーグルトが入っていた。

──風邪の味だ。

そんなことを言うと、メーカーに失礼かもしれない。
でも、そうなのだ。
ただ漠然と、誰かと繋がっていたような熱を冷ましていく温かい味。

空になった丸い紙容器をくるくる洗っていると、蛇口の銀色が鈍いことに気付く。
一段、陽が落ちたような感覚があった。

ついで僕は歯を磨く。
鏡には相変わらずふざけた寝癖のついたままの僕がいて、スウェットの中に手を突っ込んで背中を掻いている。
極めて不愉快だ。
その後ろには浴槽とこちらとを仕切る黒いカーテン。
備え付けのものがあまりにも気に入らなくて付け替えたものの薄ら紅、それも黄みがかったよくわからない色のバスタブとは相性が悪くて見るたびにうんざりする。
そして見下げれば、そのうんざりするバスタブと同じ色の便器。
吐き気がしてきた。
内覧を面倒臭がった僕の落ち度だ。
とは言え大学を卒業するまでは……せめて次の更新まではここに住まうしかない。

気づけば僕は猛然と掃除に励んでいた。
まずシンクを銀無垢の如く磨き上げ、ついであの忌々しい便器もあの変な色が抜けんばかりにこすった──ここに来てからというものこの便器が本当に気持ち悪くて磨きに磨いていたからさほどよごれてはいないのだが……

無我夢中だった。
何かに取り憑かれたようになって僕は擦り、磨き、拭きまくった。

すると、ポケットの中がぶるぶると震え出した。
ゴム手袋を外し、取り出す。
スマートフォンの画面には
──桐生ゆうか
彼女の名前が表示されていた。
そうだ、十三時半に折り返そうと思っていたことを思い出す。

「はい……」
僕は肩と耳でスマートフォンを挟み込んで受話器に話しかけた。
実はやってみたかったのだ。
この、挟み込み通話。

ゴム手袋を片手にだけつけて掃除を再開した。

「あー、やっと出た……もしかして寝てた?」
背後に薄らとゲーム機から流れるような音楽が聴こえる。
「あ、うん。わりと、さっき、まで。」
「夕方から?」
「え?」
僕はスポンジに浴室用洗剤を垂らす。
鼻にツンときた。
「瑞樹君? 今、どこにいる?」
「え?」
「走った?」
「走らないよ……足遅いし。」
「じゃあなんでそんなに息……」
「息?」
言われてみて気付いた。
口から吸って背中まで膨らませて肩を揺らして口から浅く、早く吐き出している。
まるで猛獣みたいな呼吸だ。
「いや? 別にいつも通り……だと思うけど。」
「嘘! 絶対嘘!」
そう彼女が受話器の向こうで怒鳴った瞬間だった。
立ち上がった瞬間、肩と耳で挟んでいたスマートフォンがバスタブの外の床に落下したのだ。
「え? ちょっと! 何? 大丈夫?」
床から彼女の声が響く。
「瑞樹君!」
慌てふためいた僕は何を思ったかシャワーの栓を捻っていた。
湯がバスタブを叩く音が彼女の声をかき消した。

僕はようやくシャワーを止めると、ゴム手袋を着けていない方の手でスマートフォンを耳に当てた。

「あの、今……落とした。ごめん。音、大丈夫だった?」
「瑞樹君こそ……大丈夫なの? 私と電話なんかしてて。」
僕は手を止めた。
よくわからないけれど、それがいいと思った。

「掃除、してたんだ。」
「掃除?」
「うん、風呂とか色々……ごめん。」
「もしかしてスマホ、肩と耳で挟んでた?」
「え……なんで……」
「別に? なんだ、じゃああれはお風呂洗ってた音か……っていうかスピーカーモードにしなよ!」

僕は言われた通りに操作してスマートフォンを出入り口の境目の板に置いた。

「では貝原瑞樹君。正直に答えたまえ……」
始まった。
ゆうかの探偵ごっこ。

僕たちは他愛もないことをひたすらに話し続けた。

「ここ最近、御隠居的生活してたから……」
「え? 何て?」
受話器の向こう、必死に笑いをこらえているのがわかる。
「御隠居的……生活、のこと?」
「うん。その、ゴインキョテキセイカツっていうのはなんなの?」
「あの……『鳥よりも早く起きて、鳥よりも早く眠る──とみせかけて好きな時に寝て、好きな時におきる』ってことらしいんだ。ああ、あの! らしい、と言ったのはバイト先にくるお客さんから聞いた話だからで……その……俺この話が好きで……」
「もう、それただの気ままな生活じゃん!」

二つの笑い声が重なって僕の耳に届いた。

「……誰かいるの?」
「あ、ごめん。妹!」
「え。」
「え?」
「まさかとは思うけど……」
「ミズキくん、はじめまして!」
「あ、はい……初めまして……」
彼女の声をほんの少し高くしたような声だった。

瞬間僕はのぼせたような気分だった。

──瑞樹君!
──ミズキくん!

二つの声はくぐもって、遠ざかっていく。
僕は汗まみれのスウェット姿でただ一人──二人の声に囲まれたまま、立ち尽くしていた。


【創作大賞2026】
恋愛小説部門エントリー中。
大晦日前に大掃除しました。



前の話。


大正時代もあるよ。


【エッセイ】
何書いたか忘れたがクリスマスイヴが不完全燃焼したらしい。


ゆきお様・作
お子さま向け解説有り。
確かに、露骨なシーンがないので私の恋愛小説は深読みさえしなければ大変健全であると胸を張って言えるぞ!
間違えた。
このシリーズに関しては、の話だ。

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よもぎ よもぎちゃーん! はーい! 何が好き? ポテトチップスよりも お・ぬ・し

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