日曜日の誤算──『水辺のつつじ』ep.34
或る小説家の新作を買いに部屋を出た。
というのはただの口実で、その証拠に今日は日曜日。
それももう日も暮れかけた頃のこと。
本日定休日のリエさんと紋人さんの古書店の前を通る。
窓辺では三毛猫が小さなもみの木とスノウ・ドームを縫うような形で眠っていた。
球体の街にはわずかに雪が降っている。
「犯人は君かな……」と窓を指の腹で軽くトンと叩いてみると、猫は片目だけ開けて「あら、不躾な人間だこと」とでも言いたげに口を開けた。
微かに「ナーン」と聴こえた。
それにしても商売っ気がないなと思う。
日曜日なんてどこもかき入れどきだろうに。
特に二人の店は「浪漫」とか「レトロ」なんて言葉が似合う、いわゆる映えにも耐え得る造りだし、看板猫の……名前はドロシーだったかな。
とにかく、猫もいる。
実際、店前で定休日の札を見てうなだれて駅に戻って行く人を幾度となく目撃しているし、それとなく二人には伝えたこともあったけれど、結局のらりくらりとかわされ続けている。
でも、そんな損得関係なく受け入れてくれるこの雰囲気が僕は好きだ。
それに、幸い僕が狙っている本はまだ山のてっぺんに積まれている。
「売れないで……!」
疫病神みたいなことを願ってしまいほんの少し反省した。
ドロシーはまた、目をつむってゆったりと腹を上下させている。
街灯と街路樹の電球が、一斉に輝き始めた。
同時に北風が吹いた。
空もなんだかご乱心らしい。
僕はコートの襟を頬の辺りまで引き上げて、書店までの道を急いだ。
駅前の大型書店はいつにも増して人で溢れかえっている。
新書だけを売る書店は、うらなりの果実みたいな匂いが漂っていた。
蒼い顔をして絵本コーナーでしどろもどろしているあのひとつ結びの女性は確かビジネス書担当だったような……
そんな困り顔の書店員を横目に文芸コーナーへと向いた爪先を踵で雑誌コーナーまで連れてきた。
今日も文芸誌は光を飲み込んでいるようだ。
天井から文芸コーナーへと垂れ下る矢印の先端は色を濃くしている。
僕は常々思うのだ。
文芸誌の紙が良くも悪くもはじめから疲れやつれて見えるのは、白い勤勉な光を吸い込み過ぎたせいなんじゃないかって。
つまり、物語を紡ぐ文字そのものが本のあくびなのだ。
その眠たげな吐息に当てられた僕たちはつい、つられてあくびをひとつ。
ともすれば「小説を読むと眠くなる」、それはいたしかたのないことだし、本の方もそれが本望なのかもしれない。
それが電車の中だろうが、図書館の窓辺だろうが、自宅の寝室だろうが、それ以外でも関係ない。
もちろん、書店の中でも……
僕は今、全くをもって眠くない。
なんなら頭蓋に表面張力ぎりぎりまでエナジー・ドリンクを注ぎ込み、脳を漬け込んでしまったくらいに目が冴えている。
書棚から浴びせかけられる大量の視線が痛い。
僕が今いる雑誌コーナーは光を跳ね返してばかりいる。
この区画だけ一段階どころか十段階……いいや、十二段階は照度が高い気がした。
明らかにこのコーナーのターゲット層ではない僕を洗練されたいくつもの瞳が冷たく見つめてくる。
それでも僕は右端から順番に手に取った。
指紋がべったりと残りそうな紙質に思わずたじろぐ。
艶やかなのに、指がつっかかる。
まるで、不慣れな僕を嘲笑うかのように。
──彼をトリコに! 最愛ニット特集
咳払いに振り向くと、女性が訝しげな顔をしていた。
「すみません……」
僕は慌てて書棚に身を寄せ通路を空ける。
──守りたくなる指先……ベイビーパールのすゝめ
気づけば僕は自分の爪を眺めていた。
「ササクレは絶対NG!」
「はい……善処します……」
垢抜けた明朝体にダメ出しされて、僕はもうただ平謝りするほかなかった。
「あの……」
「え?」
「コート……」
「あ……」
そうだ、平積みになった雑誌をとるのにしゃがんで……
僕は慌ただしく立ち上がると、コートの裾を払いつつ「ごめんなさい」と頭を下げた。
──断然ピンクが気分! 本命カレとのデートメイク
「……〇・三ミリの誤算が生む、愛され顔の秘密……?」
〇・三ミリ……?
僕は無意識に地面に顔を近づけ過ぎていたらしい。
「何かお探しですか?」
振り向くと、リムレスメガネの似合うすらりと背の高い男性がエプロンの肩紐を整えている。
「あ、柘植さん……」
「え?」
──やってしまった。
向こうからすれば日に数多訪れる客の一人に過ぎないというのに、珍しい苗字と遭遇回数の多さから一方的に親しみを覚えてしまっていた。
彼は名札をぱたつかせたのち、
「え? ああ、そうです、柘植です。へへ……あまり読める方もいらっしゃらないもんで……」と照れ気味に頭をかく。
「ところで今日は何をお探しで? なんだか随分と思い詰めたような顔されてましたけど。」
僕は恥ずかしいやらなんやらで、瞬きを繰り返したり、指で無理やり口角をぐいと持ち上げるなどした。
「人の……あの、主として女性の気持ち……いや、心理、という方が正しいでしょうか。そういう……」
柘植さんは捲り上げたシャツの腕をどうにも常人とは思えぬ複雑な組み方をして、革靴の先端をこつ、こつ、こつと三度打つ。
「こういうのですかね……?」
──彼女が悦ぶ……
「あ……あの……」
「はい!」
「悦ぶではなく、喜ぶ……寄りで……」
「失礼しました。『エツ』ではなく『キ』ですね……」
──モテる男の九十九の条件!
「モテなくていいです……」
「……いやみか。」
「え?」
「いいえ! 何も!」
柘植さんは僕と反対側を向いて咳払いをした。
何やらとんでもない毒でも飲んだみたいに咽せこみは続いている。
「そうしたらこれなんていかがですか?」
オシャレ眼鏡の角度を整えながら、彼は言った。
「ああ!」
僕は手渡された学術書を読み進める。
柘植さんは横から覗いてくる。
たまに目配せしては、僕たちは共犯者のように笑い合った。
「全然、違います。」
「え。」
「ごめんなさい、論文を書きたいわけでは……」
彼は虚を突かれたみたいに一瞬目を見開いてから言った。
「女性心理というよりはもっとこう……」
学術書を閉じ、右手でこめかみをとんとん叩いている。
「その人、うん。そうそう、その人のことを知りたい……そんな感じですかね?」
「その人……?」
「あー、いや。あくまでもいち書店員の勘……違うな。一人のですね、柘植樹という人間としての勘ってやつで……」
僕は黙っていた。
「理解したい誰かが、お客さまの中にいるんじゃないでしょうか。」
「困っている人を放っておけなくて……」
書店員ではなく、柘植樹という人間として彼は大きく頷く。
「それでいて人をからかうのが好きで……」
頭の片隅……いや、僕の頭の真ん中にはもう、彼女の後ろ姿があって今にも振り向きそうになっている。
柘植さんは分厚い学術書を書棚に戻すと僕の肩に二度、触れた。
書店を出ると、車道で月が轢かれていた。
歩道では、真似事の星が踏まれている。
背後で自動ドアの閉まる音が響く。
「あ。」
僕は振り向いた。
包装紙に包まれた四角いものにリボン飾りを貼り付ける柘植さんがポスター越しに見える。
「新作……」
ただの口実だったとはいえ、買うつもりだったあの小説家の本……
あんまりよくはないけれど、まあいっかとむりやり自分に言い聞かせて歩き始めた。
途中、コンビニに寄った。
レジ横の肉まん。
不貞腐れた彼女の顔を思い出す。
お菓子コーナーのグミ。
気づけば手に取っていた。
半額シールのつけられた、大きなシュークリーム。
パソコンに並んだ、暗号みたいな文字列……
それら全てが一度、彼女を経由して僕の中へと入ってくる。
再び歩き始めた僕の上に雨は降らない。
コートの襟を、〇・三ミリほど下ろす。
足元の星を避けて、帰路を急いだ。
↑
【創作大賞2026】
恋愛小説部門エントリー中。
都内某大学文学部国文学科に在籍する貝原瑞樹の恋愛回顧録。
大学入学後、最初の師走。
果たして彼の恋の行方は?
↑
一方、大正時代では落第した文学青年・上原朔也がカフェーで翻弄されている。
↑
【エッセイ】
これは駅伝しか取り柄のない母校の話。
いや、違う。
まだある。
母校のいいところ。
キャンパスが狭い。
狭いから迷子に……なる。
狭くてもなる。
↑
【エッセイ】
ポニーテールの子、好き。
いいなと思ったら応援しよう!
よもぎちゃーん!
はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し