大通りは水の中──『水辺のつつじ』ep.61
車は絶え間なく流れていく。
夕暮れ過ぎの国道二四六号線は音と光で満たされていた。
隣を歩く彼女の声が聴こえない。
僕の声も彼女に届かない。
まるで、水の中にいるみたいだ。
張り上げても、張り上げても、言葉は泡沫にしかならず、生まれては消えることを繰り返す。
僕は彼女の口元に耳を寄せた。
それでも聴こえなくて、もどかしさを笑い合った。
赤い光に照らされた時、ようやく僕は彼女の笑い声を聴いた。
水面から顔を出したみたいに息をして、彼女は言った。
「お腹空いた!」
「え?」
「私、すっごくお腹空いた!」
信号待ちをする人みんなが笑い出すくらい、大きな声だった。
彼女はそんなことお構いなしで、僕の目を見つめたまま右側の建物を指差している。
「ああ……」
ファミリーレストランだった。
「入ろっか。」
彼女は子どもみたいに跳ねながら階段を昇る。
細いヒールのブーツが不釣り合いに見えた。
あまりにも僕が出遅れたから、彼女は「おひとり様ですか?」と訊かれていた。
僕は慌てて「ごめんなさい、二人です。」と言った。
口の中にはまだ、チョコチップ・クッキーの味が食感まで思い出せるほどに残っていた。
僕たちは窓際の席に通された。
「私、こっち!」
彼女は窓を背にして腰を下ろした。
「ん?」
突っ立ったままの僕を怪訝そうに見上げる。
窓ガラスには僕の顔が反射して映り込んでいた。
その顔を見れば見るほど、何を言おうとしたのか、そもそも何を思っていたのかわからなくなった。
コートのボタンを外しながら、なにかうしろめたさを感じた。
「瑞樹君、何にする?」
ことあるごとに視界に入る自分の姿が集中を欠く。
相変わらず甘い口の中をどうにかしたい、そんな思いがあることだけはなんとなくわかる。
「うん……」
「うん?」
あれ、なんだろう。
答えになっていなかっただろうか。
僕は不安になって、ちらちらと彼女の顔を盗み見た。
「懐かしい……」
彼女の唇はたしかにそう唱えた。
声はなかったけれど、僕にはわかる。
ならば、どうしてさっきはわからなかったのだろう。
あんなに近くにいたのに。
彼女の手元のメニュー表は、お子さまセットのページで止まっている。
お子さまセット──懐かしいと言えるほど、食べた記憶はない。
それでも、おままごとの砂のごはんの如く、丸く盛られたケチャップライスと、その上に立てられた小さな旗のことはよく覚えている。
あの日、僕は小さな旗を持って帰った。
紙ナプキンに包んで、こっそりと。
だぶだぶのカーゴパンツのポケットの中、何度も何度も手を入れて、「ある」ことを確かめた。
爪楊枝の下半分くらいが薄ら赤く染まった小さな紙の旗。
ユニオンジャック、イギリスの国旗だった。
それから僕は、何にでも旗を立てた。
梅干しのおにぎりにも立てた。
たまごサンドにもプリンにも、ときにはハンバーグに立てたこともあった。
ある晩、僕はカップ麺に湯を注いだ。
蓋止めのシールの代わりにユニオンジャックを突き立てた。
あの日は水泳の授業があって、夕飯を食べる頃にはもう、うつらうつらしていた。
三分を待つ間に眠ってしまったらしい。
腕の痺れで目が覚めた。
よく眠ったはずなのに、まだ水に浸かっているような妙なだるさが残っていた。
窓は朝の空気を吸い込んで、白いカーテンを膨らませている。
テーブルの上は概ね前の晩のままだった。
麦茶はすっかりぬるまっていた。
コップの底は水に浸かり、まるで湖に立つ塔のようだった。
新しい千円札の端が水遊びして、ふやけている。
たしかあれはそのままにしてしまって、剥がすのが大変だった。
夏の気温のせいで冷めきれないシーフードヌードルは倍量……いや、それ以上に膨れ上がっていた。
あの旗はシンクの中、三角コーナーで濡れてぶよぶよになった煙草の下敷きになっていた。
あれから僕は、お子さまセットもシーフードヌードルも食べていない。
無論、味なんてこれっぽっちも覚えていないけれど。
「君は優柔不断かい?」
額に何かが触れた。
目を上げると、おしぼりのアヒルが僕の額にくちばしを突き立てている。
「迷うよね。私もまだ決めてない。」
そうは言いつつ、手元のメニュー表はパスタのページで止まっていた。
結局僕は決めあぐねて、彼女が選んだパスタの隣の写真のパスタを頼んだ。
不覚にも、たらこと帆立のパスタだった。
「瑞樹君、ほんと魚卵好きだね。」
彼女は笑った。
「ああ……」
「いいの? 明太子じゃないけど。」
揶揄うようにけらけらと笑う。
「だってないじゃん。」
僕はわざとむくれてみたりした。
「もう!」
なぜあんなに笑ったのか、わからない。
僕はまた、食べたそばから味を忘れている。
空になった皿を前に、胃の辺りをさすった。
彼女も鏡写しみたいにして、ふうと息を吐く。
──お待たせしました。
「え……?」
僕と彼女とを、真っ赤なパフェが隔てた。
彼女は顔の前で手を鳴らした。
「ごめん……見たらつい……」
結局、この真っ赤な壁の大半は僕の胃におさまった。
「瑞樹君、ほんとごめん……」
「いや、全然……」
コートを着る前、窓ガラスに映った僕のお腹は見たことのないほどに膨れ上がっていた。
珍しくしおらしくしていた彼女が、もう我慢ならないといった顔になり「ごめん、許して!」と言うや否や僕の腹を叩いた。
ポンっと太鼓みたいな音がした。
もうどうしようもなく面白くなってしまって、僕は文字通り腹を抱えて笑った。
おさまらない笑いと膨らみすぎた腹を抱え、僕たちはまたあの轟音の海へと漕ぎ出していく。
見上げた空には丸々とした月が浮かび上がっていた。
↑
【習作】
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ゆきお様・解説
大通りは水没している気がするだけです。
貝原瑞樹、シーフードヌードルは食べないがシーフードは食べる。
いや、たらこと帆立のパスタだってある意味シーフードヌードルだろう!
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ポテトチップスよりも
お・ぬ・し