おぼつかない日──『水辺のつつじ』ep.43
目が覚めたとき、部屋はまだ暗かった。
まばたき同然に僕は再び目を閉じる。
秒針の音が額の上で鳴っているような感覚に、またすぐ瞼を持ち上げた。
意識ばかりが鮮明で、視覚を閉ざせば音が、聴覚を閉ざせば光が騒がしい。
もう眠らせてはもらえないらしい。
僕はベッドから這い出て本棚の前に立った。
初めから古かった本を摘み出し、今度はベッドによじ登る。
時計の短針は東を向いていた。
流星群は街明かりでどうせ見えないから、僕は本の中の星を数える。
しばらく夢中で読んでいた。
いや、答えていた。
頁の中で幼い文字が「どういういみ?」と訊ねてくる。
それも一ページ、二ページどころではなくて、一ページにつき五つくらい。
それが十も二十も三十も……
答え切らないうちに、外が白み始めた。
カーテンレールを滑車が走る。
地平線近くの空は今にもちぎれそうだった。
紺色の帯が毳立ち始めている。
僕はベランダに飛び出した。
気付けばカメラモードにしたスマートフォンを空に向けて構えている。
急に誰かに見せたくなったから。
それは、他でもなく──
「もしもし、はい。うん、おはよう。え?」
空が割れて、薄紫色が現れた。
「今、空見てたでしょ?」
「うん、見てるよ。薄紫色が見えてる。」
「やっぱり!」
薄紫色は薄紅に変わり始めている。
「こっちはね、だんだんピンクになってきた。」
「うん、こっちも。まだだいぶ暗いけど。」
都会の朝が慌ただしく始まった音が混ざる。
「あ、ごめん。次の電車乗らないと……」
「そっか。うん、気をつけて。」
スマートフォンをポケットに滑り込ませ、手に息を吹きかける。
サンダルをすっ飛ばして部屋に入ってから気づく。
僕は振り向いた。
空はもう、見慣れた青に変わっている。
カメラロールの写真は、一枚も増えてなどいなかった。
街は嘘みたいに静まり返っていた。
まるで生き物、とかく人間がどこかへ吸い出されてしまったかのように、しんとしている。
大きなトランクを引きずる人とすれ違うたび、街の奥にはもう誰もいないんじゃないかと変な妄想をして怖くなった。
たまに考える。
もしこの地球でたったひとり、僕だけが生き残ってしまったら。
そんな妄想に耽っている間に少なくとも七人とすれ違った。
それに、国道二四六を走る車はいつも以上に多いように思う。
図書館の入る施設のロビーでは、小学生たちが寄り集まって、新作ゲームに熱狂していた。
僕の妄想は杞憂に終わった。
道々、薄らと気づいてはいたけれど。
人類は滅んでなどいなかった。
図書館の中の人の気配は薄く、幾重にも折り重なっている。
新聞をめくる音、誰かの咳払い、貸出票の印字音……
効き過ぎた暖房が眠りを誘ったのか、参考書を開いたままの高校生が寝息を立てていた。
僕はその横を抜き足差し足で進む。
そういえば、どうして僕はここに来たのだろう。
吸い込まれるように入ってきたけれど。
紙とインク、それから埃っぽい風の匂い。
ふと、普段は気にも留めない特集コーナーに目をやった。
──『図解・古き良き日本の郷土料理』
思わず手に取っていた。
小学生の頃、自由研究で使った本を思い出させるフォントが並ぶ。
ページの隅が破れ、綴じ糸はところどころ切れている。
緑と黄色のクレヨンの汚れ。
わくわくした。
夢中でページを繰っていく。
「新潟……新潟……」
「あ、東京……」
頭の中は師走にふさわしく、忙しなかった。
手に取った瞬間から、目的は決まっていた。
それなのに、僕は行きつ戻りつ目的地を通過したりはたまた戻り過ぎたりを繰り返している。
「お雑煮」のページがあまりにもにぎやかだったから。
角餅、丸餅。
すまし汁に白味噌、ぜんざい風……
鮭、鶏、海老。
どれもこんなに違うのにみんなそれぞれ「うちの味」で、そのくせひとまとめに「お雑煮」なんて呼ばれている。
これも、たくさんある「普通」の中のひとつかもしれない。
僕は紋人さんの言葉を思い出していた。
──普通っていくらでもあっていいんだってさ!
──人の数の倍以上あるんだよね、普通って。
──だから、押し付けるもんでもなくて。
彼女にとっての普通、僕はそれを知りたくなった。
分かり合えるだろうか、混じり合えるだろうか。
新潟に指を挟み、東京と見比べる。
同じ東京ですら僕が食べていたものと少し違っていたものだから。
きっと、こうして普通は増えていくんだ。
本を閉じた時、僕は少し驚いていた。
ふとした瞬間、彼女の、ゆうかの顔を、その声を思い浮かべても身体がずっと「普通」だったから。
普段通りの生活と地続きの拍動が、僕の命を繋いでいる。
大袈裟なことを思いながら本を棚に戻した。
すかさず、小さな男の子が今戻したその本を取り出して駆けて行く。
陽は傾き始めている。
空の青に、黄色の光が差していた。
昨日までもみの木がたっていたところには竹が立ち、柊飾りのぶら下がっていた扉には松が刺さっている。
サンタクロースの顔には半額シールが貼られていて、
道では烏がピザのはしくれと鶏の骨でパーティーしていた。
一見無関係の、半額になった二切れ入りのガトー・ショコラを買ってアパートに戻った僕は、早めにシャワーを浴び、何の気なしにテレビをつける。
──年末! NG特集
僕は、ずっとこういう番組が嫌いだった。
人の失敗を集めて煮詰めて笑いものにするなんて。
でも、彼女が好きだと言っていた俳優が映っていたから少しの間だけ観てみることにした。
自分の人生がこんな風に切り取られたらNGばかりかもな……
テレビを消した。
テーブルの上、半分以上残ったガトー・ショコラが乾きはじめている。
僕は半分眠っていた。
黒いケーキがぼやけている。
消し忘れた灯の中、普通ならNGのガトー・ショコラを舌に乗せた。
もう一度、乗せた。
夜はまだ続いていく。
冴えた眼を黙らせる術もなく。
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【創作対象2026】
恋愛小説部門エントリー中。
地元に帰省した桐生ゆうか。
一方で帰る先のない貝原瑞樹は年末の東京で「普通」の生活を続ける。
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直前の話。
クロワッサン食べる。
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大正時代の文学青年は銭湯へ。
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【エッセイ】
元・娘の担任の先生の話。
今年は担任ではないのだが、元気に相手をしてくれている。
早いこと新担任も紹介したい。
今年の担任の先生も、最高なのだ。
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ゆきお様・解説
「普通」がわからなくて腹が立ったりしますよね。
そんな私は高校「普通科」でした。
なんか、嫌でした。
なぜなのか。
わかりません。
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はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し