積んで、重ねて──『水辺のつつじ』ep.42
僕はぎしぎしと起き出すと、かさかさと時を刻む時計を掴み取った。
次の瞬間にはそれを布団に放り投げ、走り出していた。
感覚的にはそんな風だった。
しかし、現実は違う。
十五分刻みに設定されたアラーム、散乱したレジュメに開きっぱなしの参考書……
仮眠程度のつもりだったのだろうということを知る。
ベッドから引きずり下ろした布団を抱きかかえたまま、ほんのわずかに理想からずれた照度の朝陽に燃える壁を睨みつけた。
僕は朝脱いだスニーカーでまた走り出している。
心拍数だけが足早な十二進法で駆け上がる。
不服ながら、僕の鈍足は健在だったけれど。
街路樹に絡む電球は、色を吸い上げ光を放つ朝露のように透明だった。
窓の外はあんなにも晴れているのに、教室の中は澱み切って暗かった。
僕にとって、冬は不思議な季節なのだ。
木々は葉を落とし、影をつくるものなんてほとんどない。
それなのに、街も人もなぜ皆こんなにも沈み込んでいるのだろう。
答案用紙が配られる。
紙を削るペン先の音、机を叩く指の忙しなさ……
僕はようやく現実世界に戻ってきた。
終礼の鐘が鳴るや否や、僕は建物の外へ出た。
どれだけ手を伸ばしても届きそうもないほどに、空は青く突き抜けている。
聴き慣れたあの優しい歌のように、手のひらを陽の光に透かしてみる。
背骨のひとつひとつの間を真新しい空気が通り抜けていく。
気持ちが緩んであくびが出た。
「瑞樹君!」
僕はまだあくびの途中だった。
彼女の声を聞くや否や、僕はその場に膝から崩れ落ちた。
「え? ちょっと……え?」
前髪の向こう、僕はつい恨めしやかな顔をしてしまった。
息をするのもやっとだったから。
僕は、コートの内側で彼女の手首を握った。
余計に息ができなくなった。
「脇腹は……だめ。」
「え?」
「……脇腹、だめ。」
「ん?」
「脇腹は、弱いから。」
「え……ごめん。そうだったの?」
僕はかろうじて息を吸い込んだ。
「言ってなかったから……」
苦し紛れに笑った僕に彼女もやっと笑顔になった。
ほどけていく空気に、気の抜けた二匹の虫がぐうと鳴いた。
「瑞樹君、寝坊したでしょ!」
「そっちこそ。」
「してないもん!」
彼女は僕の左目の横の髪を摘んだ。
言い逃れはできないらしい。
「はい……寝坊しました。」
僕たちは笑い合う。
「で、試験は間にあったの?」
「うん。」
「どうだった?」
「おかげさまで。たぶん。」
「……あれ?」
僕はもう、すでに誇らしかった。
僕の足の甲の上、白い蝶が前を向いて二人の歩幅に合わせて揺れている。
「練習したんだ、あれから。」
「あれから?」
「朝までね。」
彼女の横顔が正面になった。
「それで寝坊……?」
「どう思う?」
「やりかねないからなあ……瑞樹君なら。」
本当は「問題は解けたけど靴紐は解けなかった」なんて言ったらかっこよかったかなと思わなくもないけれど
呆れたように笑う彼女の後ろを見遣る。
「明太納め、できなかったね……」
つつじの茂みの奥の小屋、いつものスパゲッティの店を向いて彼女は僕の台詞を言う。
僕たちは、「定休日」の貼り紙を背に校門を出た。
たぶん、新しくできたパン屋に向かっている。
一晩中靴紐を結び続けたことになっている手前、なんとなく後ろめたくて僕はだんまりを決め込んでいた。
次に言葉を発したとき、僕はカフェのテラス席でコートのボタンを全て掛け終えたところだった。
テーブルの上、三日月型のパンが二つとコーヒー、カフェラテが並んでいる。
こんがりとした小麦とバターの溶ける香りが流れ去っては立ちのぼり、立ちのぼっては流れ去ることを繰り返している。
「いただきます。」
ラティスの上、陽に照らされたからすが物欲しそうに眼を光らせる。
テーブルの上、カランと音がして光と影がひとつ入れ替わった。
僕はソーサーごとカップを彼女の方へ寄せる。
「私が苦いのだめなの知ってるくせに!」
むくれる彼女に僕はクロワッサンを咥えたままの間抜けな顔で頷いた。
「もう!」
もう一段むくれると彼女は今度はふうっとため息をつく。
「そういうとこかな……」
その指は、コーヒーカップを包み込んでいた。
「そうだ……明日からしばらく実家戻るから。」
「ああ。気をつけてね。」
「瑞樹君は?」
「ずっといる。」
「そっか。」
再びからん、と音がした。
カップの湯気はもう、都心の空に飲み込まれて久しい。
「そういうところだよ。」
彼女の親指が僕の口の端を撫でた。
僕は同じところに触れる。
僕はただ、笑っていた。
わからないけど、ただ純粋に笑えていた。
あの後彼女は友達に連れられて、駅の方へと去っていった。
僕は見えなくなるまで手を振るでもなくその背を眺めた。
それから僕は、またいつもの古本屋の窓を覗く。
三毛のドロシーが品よく座り、大口開けてあくびをした。
扉が開いた。
紙袋を抱えた二人の男性が ドアベルの音と共に僕の横を通裏過ぎた。
古い紙の匂いと、笑い合う声が長く尾を引いている。
「いらっしゃい。」
見送りに出てきた紋人さんは僕を中へと迎え入れた。
「いやあ、クリスマス万々歳だね! 珍しく忙しくてお腹空いたよ。」
青みがかった灰色の瞳がいつも以上に光を弾いている。
「瑞樹君、お昼は?」
「食べてきました。」
「そっか、残念だ……いや?」
彼は腕組みと伸展を忙しなく二往復した。
「デザートは? デザートは食べたの?」
「食べてないです。」
「よし。」
紋人さんは店の奥からアップルパイと熱い緑茶を運んできてくれた。
いわゆる「店舗兼住宅」の、どっちつかずの場所で僕たちは並んで緑茶をすすった。
「ああ……」といかにもな縁側あたりから聞こえてきそうな声を出して二人で笑い合う。
「僕んとこはさ、昔からこっちなんだ。」
紋人さんはアップルパイの中の透き通る果実を引っ張り出した。
「変なのとか何で? とか。もっとすごいと可哀想なんて言ってくるのもいてさ!」
思わず手を差し出しそうになった。
頬ではなく彼の眼球が落ちそうだったから。
「気にしちゃいなかったけどね。そんなのも込みでそういうもんだと思ってたから。」
緩やかな曲線をいくつか描くその髪を彼は耳にかけながら続ける。
「『普通はショートケーキだよ。』って言われた時には、『え?普通はパイじゃないの?』って聞き返したんだよ。でもそこで、気づいたんだ。普通っていくらでもあっていいんだってさ! だから、押し付けるもんでもなくて。」
陽の色の影響を受けやすそうな髪は西陽の朱に染まり始めている。
「これ言うと驚かれるけど、自分にとっての普通はどんどん叫んでいいと思うんだよ。」
「人の数の倍以上あるんだよね、普通って。だってね、僕からすれば梅干しおにぎりとコーヒーとか、スルメとミルクティーって普通なんだよ。でも瑞樹君は? どう?」
僕ははっとした。
梅干しおにぎりとコーヒー、これは許容範囲だ。
でもスルメとミルクティー……こっちは想像もしたくないくらいだった。
彼は僕の顔を見てお腹を抑えて笑い始めた。
「そういうことなんだよ! それでいいの。」
重力をひっくり返したような睫毛の奥で、輝きを増した瞳はさらに饒舌になっていった。
「本読みながら菓子を食うな、とかさ。だけど見てよ。これなんてきっと、ポップコーンかなんか食べながら読んだ跡じゃないかな? それにこっちは……チョコレートの匂いだ!」
そう言って紋人さんが僕の鼻先に差し向けた本のページからは甘いチョコの匂いや、香ばしい、古めかしい映画館みたいな匂いがした。
「極論、この店のど真ん中でフィッシュアンドチップスを揚げたっていいと僕は思うんだけどね?」
紋人さんはあっけらかんと、それでいて結構本気と見て取れる瞳で語る。
「なんなら僕は夏だってあのツリーとスノウ・ドーム、出しときたいんだよ。まあ……誰かと暮らすってのはさ。そういうことなんだよ。」
紋人さんの睫毛に、橙色の陽が垂れている。
僕はパイ生地の薄く剥がれた欠片をフォークの背でかき集めていた。
話の結末はおろか、始まりが何だったかすら忘れた僕たちはもう何もかもが面白くなって、笑い続けていた。
そこから僕はアルバイト先でトナカイのかぶりものを頭に乗せたまま、日付変更線を飛び越した。
「お疲れ。」
スタッフを労った店長が一番疲れていそうな店内に、ジングルベルが響いている。
僕は脚立に跨って、偽物の星に触れた。
ふっと息が漏れる。
窓の外は二十五日を引きずっている。
僕もまだ、ツリーのてっぺんの金色の星を外せないでいる。
時計だけが正確に、季節の上を歩いている。
僕はそれを見送ることにした。
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【創作大賞2026】
恋愛小説部門エントリー中。
クリスマスが終わった。
二人は、どうした?
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大正時代では指が重なりました。
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瑞樹、靴紐結べました。
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【エッセイ】
パン工場の真ん前に住んでた話。
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ゆきお様・解説
食って食って食いまくる、そんな話ではないのだ。
そうだ。
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はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し