『殴り殴られ詩人酒場』ep.28「煤け月に舞いし二人」
煤けた月に向かって蝙蝠が一匹翔びたった。
もう一匹は未だ逆さの睡を貪る。
「嘘寝じゃなかろうな?」
俺は大ちゃんの鼻先に手の甲を近づけてみる。
穏やかだ。
吐すれば熱く、吸すれば涼し。
「生きてんな。……ん?」
ああ、違う、断じて違う。
俺は……あの仏文の奴に聴いたデジャだかなんだかというものを否定する。
庭の石だとか薪だとか……
小難しい言い訳を並べ、幾度となく友の命の繋がりを確かめずにはいられぬ己への恥を隠さんとした。
部屋には眠りこけた彼と自分としかいないというのに。
何か、何か……
判別のつかぬ浮遊した視線のようなものが耳朶を撫でるのだ。
そのこそばゆさを打ち消したくて、自分の脳ごと煙にまくような思考を巡らせた。
「潔く生きよ!」
俺は自らの両頬を挟み叩き、立ち上がる。
半分あたりまで腰を上げたところで、街の眠りが浅くなって来たことに気付く。
背骨がすっかり曲がったまま冷え固まった鉄の如く重い。
小卓に向き直れば、原稿用紙に座っていた青黒インクはすっかり眠りこけている。
俺は右の端にこう書き足した。
──蝙蝠帝国大学 煤月の詰襟どもの夢
……三年 上原朔也
夜の帳の上がる寸前の部屋に、青年の寝息と線を引く万年筆の音が溶け合う。
──蝙蝠帝国大学 上原朔也
最終的に残った十文字は、勇ましい署名に見えた。
「嘘が上手くなったな。」
そう吐き捨てて、万年筆を指に挟んだまま腕と腕とを絡め天井へと伸ばす。
ぎしぎしと音を立てる骨と筋を左右に振り、右肘を折り曲げた。
ペン先が左の青灰の筋を引っ掻いた。
べったり青黒く引かれた線の周りが紅らみ、膨れていく。
その線を右の人差し指でなぞる。
青黒が皮膚の奥の奥まで染み込んでいく。
痛みはない。
じんわりと、どちらかといえばむず痒いような、妙な気でも起こしそうな感覚だった。
その感覚を打ち消すでもなく俺は毳立つ畳の上の大ちゃんのシャツを引っ掴んで階段を駆け降りる。
裏庭の黒ずんだ檜の盥に水を汲んだ。
言いえぬ色のシャツを川に魚でも放流すが如く水に放り込む。
途端に、綿から溶け出す生物の残渣が清らな透明を濁らせた。
代わりに綿は大地に根を張りその柔なる首を風に揺らしていた頃を思い出しているかのようだった。
「命」は汚辱と清廉の斉唱だ。
ふと、大ちゃんとふざけ歌った昨日を思い出す。
「汚辱と清廉……」
目に映るもの全てが至極低速の掠れた映像に変わる。
着物の袖の濡れた重みが腕のだるさを際立たせる。
頭蓋内が真空になるようなおぞましい圧力に耳を塞ぐ。
自分の内なる音は耳を塞いだとてその純度を増すばかり。
気付けば無心で波打つ板に大ちゃんのシャツを押し付けていた。
しばらくすると、椋鳥が頭の上で怒り狂うのが聴こえた。
時を同じくして、
「ここんとこおかしいんじゃないかい? 山でモガみたいなきのこ、食ったんじゃないだろうね?」
とイヨさんにたしなめられる。
「モガは食ってないけんど……きのこも食ってないですよ。食えないです、特にきのこは。」
どうにも大ちゃんの言葉の癖が下の付け根あたりを浸食している感が否めず、笑いそうになった。
「ああ……そうだったね、朔ちゃん。あんた確か……あたしが椎茸煮付けてたら真っ青な顔して飛び出してったね……懐かしい……あの頃はまだ初々しくて……」
なぜだろう。
なぜイヨさんは突然涙を流し始めたのか。
皆目見当つかぬの顔貌で飯をかきこむ学生を見つめてみると、「見てくれるな」の顔でシッシと手を払ってくる。
こんな時、大ちゃんは「何でえ、ひでえや」と言うだろうけれどさすがに俺には……
「朔ちゃん! おい! 朔ちゃん!」
俺の視線を追い払った学生は今度は大ちゃんの足音と大きすぎる声と戦っている。
こちらには目もくれず畳を踏み鳴らしては俺の名を叫んでいる。
返事をして、ここだと手を挙げてもなぜか気付かず猪の如く暴れている。
見かねたイヨさんがズイと近づき、「ほれ! あそこ!」と猪男を黙らせた。
「朔ちゃん!」
俺は猪突により身体の均衡を失くし、尻を地に打ち付けた。
「おめえなあ! なんも言わねえでいなくなるんでないよ!」
「いんや、おめえ寝てたでねえか!」
「そしたら起こしたらいいべ?」
よくないべ、と返そうとしてやめた。
瞳の奥の慄えを見てしまったから。
胸ぐらを掴まれたまま、すっかり昇った太陽を眺める。
光が目に沁みた。
「まず窓の外見て、おめえの名前叫んだ。あんな原稿残して姿消したら誰だって……」
なぜか大ちゃんは言い淀む。
代わりに、焦点のあわないほどに青年の目の色が近くなった。
瞬間にして哀しみに心を蝕まれ始めたその時だった。
ゲラゲラと笑う揺れが額を通して全身を巡った。
「朔ちゃん、なんだい、その顔!」
「ほんとに、ひどいもんだよ……」
大ちゃんとイヨさんの笑いにつられたのか口周りに米粒のついた者や魚の骨をしゃぶっている者なんかまで俺を取り囲んで笑っている。
「何がおかしい!」
俺は語気を強めたが、この朗らかなる空気の真ん中にいられることに幸福なるものを見出し始めていた。
大ちゃん曰く、目は血走り、下瞼は夜の闇より黒く染まっているという。
そして洗いかけのシャツ。
小っ恥ずかしくて俺は大ちゃんを突き飛ばし、また洗濯を始める。
そして俺は絞ったシャツを竿にかけ、青空のもとへ放流った。
──勇ましく泳ぎたまえよ!
顔を見合わせた大ちゃんと俺。
同じ指を同じ形で同じ方へ向け、同じ文言を叫んだ。
また見合わせて笑った。
いつの間にやら眠り惚けていた蝙蝠は姿を消している。
そしてまた大ちゃんと俺は並んで朝食を食べている。
他は皆去り、二人だけだ。
「あんたたち、学校はどうすんだい?」
イヨさんは梨を剥きつ皿に放りつしながら訊ねる。
「知らねえや。」
そう、俺は答えたけれど大ちゃんは押し黙っていた。
大ちゃんの皿に人参を積み上げていく。
「食え、さすがに食え朔ちゃん。」
あまりの剣幕に圧倒され、鼻を摘んで人参を食ろうた。
空では「命」がまとった水を天に返しながらたなびいている。
薄く白い雲がシャツを撫でている。
風に揺れるシャツを眺め、最後ひとつの豆腐を飲み込んだ。
(続)
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まとめ読みはこちら。
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直前はこちら。
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谷崎潤一郎を召喚。
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とりあえず、学食は一度は行くといい。
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ゆきお様・作
キーワードはなんだ?!
さあ……
ふざけているのにハートウォーミング。
穏やかすぎる夜。
ふうっと心の澱みを吐き出せる、そんな作品です。
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はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し