『殴り殴られボコボコ酒場』ep.28「蝙蝠と人参と舞いし二人」
よもぎさんに捧ぐ
夜中の二時。
朔ちゃんは布団の中で、じっと天井を見ていた。
眠れない。頭の中がぐるぐるする。
横では大ちゃんが、口を半開きにして寝ている。
この男はだいたいいつも平和だ。
朔ちゃんは静かに体勢を変えた。
そして、ゆっくりと尻を持ち上げた。
「大ちゃん」
「……んぁ?」
「今から、お前を殺す」
「寝起き一発目が物騒だな」
ぷす。
「うわっ!」
大ちゃんが飛び起きた。
「何すんだ!」
「屁で窒息死させる」
「聞いたことねえ暗殺方法だ!」
窓の外では、蝙蝠が一匹、ふらふら飛んでいた。
夜というのは、だいたい人をおかしくする時間だ。
「なあ朔ちゃん」
「うん」
「なんで夜って、不安になるんだろうな」
「昼間は平気なのにな」
朔ちゃんは机のインク瓶を指でくるくる回した。
「夜は蝙蝠の時間だからだ」
「意味わからん」
「蝙蝠って、鳥なのか獣なのか、よくわからんだろ」
「うん」
「人間も夜になると、そうなる」
「どっちにも属してない感じ?」
「そう。人間でもないし、神でもない」
「急にスケールでかくするな」
蝙蝠が窓の前を横切った。
黒い影が一瞬だけ揺れる。
大ちゃんが腕を組んだ。
「つまり俺たちは今、蝙蝠人間?」
「そう」
「いやだなそれ」
朔ちゃんはノートを開いた。
ペン先にインクをつける。
黒い液体がじわりと広がる。
「書くか」
「急だな」
「今書かないと、一生書かない気がする」
「お前いつもそう言うだろ」
「今日は違う」
「なんで」
「屁が出たから」
「創作の動機が最低だ!」
朔ちゃんは真剣な顔で言った。
「身体が動いたとき、人は書ける」
「そんな理論あるのか」
「たぶん」
「適当だろ」
突然、朔ちゃんが立ち上がった。
「洗濯する」
「今!?」
シャツを脱いで洗面所へ向かう。
蛇口をひねる。
水がどばどば流れる。
ばしゃばしゃ。
「創作は身体だ」
「だからって洗濯?」
「シャツが汚いと哲学が濁る」
「初めて聞いた理論その二!」
水の音が夜に広がる。
蝙蝠がまた一匹通り過ぎた。
台所で大ちゃんが冷蔵庫を開ける。
「人参しかねえ」
「食え」
「夜中だぞ」
「人参は命だ」
「また適当言ってる」
ぽりぽり。
人参をかじる音が部屋に響く。
「なあ」
「なんだ」
「人間ってさ」
「うん」
「結局、生きてるだけで面白いのかもな」
「人参かじりながら言うセリフじゃない」
ぽりぽり。
「でもさ」
「うん」
「夜中に屁で起こされて、人参食ってる人生って」
「うん」
「だいぶ変だよな」
「それは認める」
二人は少し笑った。
静かな時間が流れた。
朔ちゃんは濡れたシャツを振り回している。
大ちゃんは三本目の人参に突入している。
「なあ朔ちゃん」
「なんだ」
「さっきの屁、まだ残ってる気がする」
「空気ってそういうものだ」
「哲学っぽく言うな」
また笑う。
夜の不安というのは、不思議なもので、
笑うとだいたい小さくなる。
窓の外が、少し白くなった。
「朝だな」
「ほんとだ」
蝙蝠はいなくなっていた。
代わりに鳥の声が聞こえる。
朔ちゃんはノートを閉じた。
「よし」
「書けたのか」
「一行」
「少な!」
「でも決意だ」
「軽いな」
朔ちゃんは笑った。
「また書く」
「今日?」
「うん」
「ほんとか?」
「たぶん」
大ちゃんが肩をすくめた。
「まあいいや」
「なんで」
「お前が書くなら、俺は横で人参食う」
「役割分担か」
「友情だ」
二人は少しだけ照れくさく笑った。
そのとき。
後ろから声がした。
「おはよう」
振り向くと、イヨさんが立っていた。
「いつからいたんですか」
「さっき」
「全部見てた?」
「だいたい」
三人の間に沈黙が落ちた。
朝の光が窓から差し込む。
次の瞬間。
ぶう。
静かで、しかし重たい音が部屋に広がった。
朔ちゃん「……」
大ちゃん「……」
三秒後。
「だめだ」
「強い」
二人は同時に崩れ落ちた。
ばたん。
完全沈黙。
床に転がる朔ちゃんと大ちゃん。
窓から朝日が差し込む。
洗ったシャツが、まだぽたぽた水を落としている。
机の上にはインク瓶。
床には食べかけの人参。
そして部屋の空気は、まだ少し重い。
イヨさんは腕を組み、二人を見下ろした。
少し考えてから、ゆっくりうなずいた。
「うーん、マンダム。」
