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【短編小説】甘く自堕落なバカンス


アイランドジャンキー

ケロンパ
(12000文字)


「熱いよ……」

南国の夜風は、意外なほど涼しかった。
海の匂いを運びながら、静かに島を吹き抜けていく。

なのに、ベッドの上で触れ合う肌だけが、昼間の陽射しの熱を閉じ込めたまま、あたしを焦がす。

「熱い……よ、鉄男の身体」

彼の指が肌をなぞるたび、背筋がぞくりと震えた。
指先があたしの身体に刻んだ軌跡を辿ると、痺れを含んだ熱がゆっくり広がっていく。

甘い麻薬に侵されるみたいに、身体がうまく動かない。
どこで覚えてきたのよ、こんな触れ方。
一年会わなかっただけなのに、ずいぶん上手くなったんじゃない?

何もかも彼のペースなのが悔しい。
そう思った瞬間、唇を塞がれた。

キス——鉄男の味がする。

子供の頃、大好きだったお菓子を大人になって口にしたような懐かしさ。だけど、包み紙だけが違っていた。

たった一年離れていただけなのに。
あたしの知らない匂いが、鉄男に混ざっていた。

肌に触れるたび、
見覚えのない時間がにじんでくる。

それが少しだけ、悔しい。
あたしの知らない日々が、鉄男を少しずつ包み替えていた。

それを洗い流したくて、彼の肌にキスを落としていく。
熱帯の湿気を含んだ、ゆっくりと甘いキス。

鉄男は、切なそうに目を細めた。

ねぇ、欲しい?
みんなあげる。
だから——もっと、あたしをその気にさせて。


「相変わらずだよな」

皺だらけのシーツに仰向けになったまま、鉄男が少し掠れた声で笑う。
あたしは答えず、心地いい居場所を探す猫みたいに、彼の身体へ頬を寄せた。

力を抜いた手のひらが気に入って、そこへ身体を丸める。
まだ熱を残した指先が、あたしの唇をゆっくりなぞった。

「アッコってさ、抱かれるっていうより、男を溺れさせるタイプだよな」
「ふうん。昔の女の味は、お気に召さなかった?」
「……そういう意味じゃなくてさ。ただ、この感じ懐かしいなって」

鉄男の今の彼女は、きっと違う。
男に触れられるたび、恥じらうのが似合うような子。
ふわふわした砂糖菓子みたいに、柔らかそうな女の子。

あの子から、一週間だけ鉄男を盗んだ。
あたし、何やってるんだろう。

南の島の熱に取りかれて、何度でも同じ海へ帰りたくなる。
そんなどうしようもない人種を、アイランドジャンキーっていうんだって。

そう教えてくれたのは誰だったか。

きっと、あたしはその“アイランドジャンキー”なんだと、自分に言い訳してみる。

もう限界だった。
たぶん一年後も、同じことを繰り返す。
この海へ来るたび、誰かから鉄男を盗んでしまうのかもしれない。

別に、人の男を奪う趣味があるわけじゃない。
復縁したいわけでもない。

ただ——この場所には、鉄男しか似合わなかった。


鉄男と付き合っていた三年のあいだに、モルディブへ五回行った。
——あの頃は、こんなふうに終わるなんて思ってもいなかった。

あたし達を夢中にさせた蒼い環礁。
鉄男の恋人として最後の夜を過ごしたのも、名前だけが違うような、よく似た小さな島だった。

モルディブを何度も訪れるうちに、あたしは少しずつ贅沢になっていった。

もっと居心地のいいコテージ。
もっと趣向の凝ったエクスカーション。
もっと広くて柔らかいビーチ。

もっと——。
だから、最後の旅行で、あたしは文句ばかり言っていた。

「バタラの方が、魚もっと多かったよね」

そんなふうに、他の島と比べてばかりいた。
全部を満たしてくれる場所なんて、あるはずもないのに。
少しくらい足りないものなんて、本当はどうでもよかったはずなのに。

「ここのバーの音楽、趣味じゃないなぁ。
……トラギリ、覚えてる? あの古いレゲエ、よかったよね」

あの時のあたしは、ため息ばかりついていた。

「そろそろ潮時かもな」
鉄男が、ぽつりと言った。

あたしは欠けたネイルを眺めながら、「そうね」と気のない返事をする。

「次は、違う国に行くのもいいかもね」
あたしの提案に、返事はなかった。

顔を上げると、ソファに座った鉄男が、まっすぐこちらを見ていた。
その視線に少し違和感を感じながら、言葉を繋げる。

「ベトナムとか、行ってみたいかも」
「……アッコ」

鉄男が、ゆっくり視線を逸らす。
そして、小さく呟いた。

「潮時って、俺達のことだよ」

あのとき、鉄男は唐突にそう言った。
——なのに、どこかでわかっていた気もした。

あぁ、そうね。
そうかもしれない。

三年。
一緒に過ごした時間は、ちゃんとあったはずなのに。

いつのまにか、あたしはこの関係に、少しだけ物足りなさを感じていた。

別れたくないの。

その一言が、咄嗟に出てこなかった。
——それが、答えだった。

別れると決めたあと、もう一度だけ抱かれた。
それが、一年前の最後の夜だった。


三年も付き合っていれば、共通の友人も増えていく。

肌に残っていた水着の跡が薄れてくる頃、鉄男に新しい彼女ができたという噂を耳にした。
口を滑らせた友人を、隣の女の子が慌てて睨んでいる。

「そんな気を遣わなくていいよ。
あたしも他でちゃんと楽しんでるし。ね、どんな子?」

「……だよね? アッコも新しい彼氏いるもんね。
この前さ、スノボ行った時に鉄男が彼女連れてきてて」

そう言いながら、友人がスマホの画面を差し出した。

鉄男の隣で、自分じゃない女が笑っている。
その写真を、あたしはどこか他人事みたいに眺めていた。

——鉄男が今のあたしを見たら、同じ気持ちになるのだろうか。

あたしの場合、“彼氏”っていう感じじゃなかった。
時々一緒に出掛けて、たまにベッドを共にする。

ケンちゃん——四つ年下の、サーフィン好きの男の子。

気楽に過ごすには、ちょうどいい相手だった。

その子に連れられて、何年ぶりかに日本の海へ行った。
冬の光を浴びた灰色の海。

あたしの中で“海”といえば、もう南国の青しか残っていなかったから、不思議な気分だった。

彼の陽に焼けた肌からは、潮の匂いがした。
だけど——鉄男とは違う。
付き合っていた頃、鉄男の肌には、いつもモルディブの乾いた熱が残っていた。

そんな違いに気づく女なんて、きっとあたしだけだ。

あ、違う。

何気ない仕草のたびに、そんなふうに思ってしまう。
比べるつもりなんてないのに。

三年という時間の中で、鉄男の気配は、あたしの身体に深く染みついていた。

キスをする時、少し背伸びする感覚。
抱き寄せられた時の、身体を預ける重さ。
そんな小さな違いにさえ、戸惑ってしまう。

「アッコって、いつも少し物足りなさそうな顔してるよな」
ケンちゃんが、拗ねたみたいに笑った。

「でも、そういう掴みどころのない女に、グッときちゃうんだよな、俺」
さらりと、そんな甘い言葉を口にして様になる男の子。

海にいると、サーフィン仲間の女の子たちが、ひっきりなしにケンちゃんへ声をかけてくる。

「ねぇ、いつならいいの? 飲みに行こうって言ったじゃない」
「この前、忘れ物してたよ。あのCD、部屋に置きっぱなしだけどいいの?」
「今度、新しいボード買うから付き合ってよ」

あたしの前だからか、ケンちゃんは少し面倒くさそうに受け流す。
一人が去ると、また別の子が来る。
その繰り返しに、呆れるというより、少し感心してしまった。

「モテモテだね、ケンちゃん」
ケンちゃんは肩をすくめて、
「アッコにだけモテればいいんだよ」
いつもの調子で、そんなことを言う。

あたしは、つられて笑った。


彼氏なんて、当分いらないと思っていた。

鉄男と過ごした三年のあいだ、
他の誰かを欲しいなんて思ったこともなかったし、
男を男として見ることもなかった。

だから、ひとりになって、ふと周りを見渡したとき、
世界がやけに広く感じられた。

男は、いくらでもいる。

久しぶりに、違う腕に抱かれながら思った。
鉄男じゃなくても、あたしはこうして身を任せられるんだ、と。

ただ、元に戻っただけ。

忘れかけていた色恋の感覚が、少しずつ戻ってくる。

——悪くない。
しばらくは、こんなふうに軽く流れていくのも。

そう思っていたのに。
ときどき、理由のわからない違和感が、あたしの中に残った。

あ、違う。

ジャンキーを襲うフラッシュバックみたいに、鉄男の記憶が不意にあたしを覆う。

どうしてなのだろう。
思い出すものは、いつだってあの海の匂いをまとっていた。

シルクのパレオをほどくきぬずれの音。
ココア色の指先に散った、真珠みたいな砂粒。
瞳の奥で揺れる、あおいゼリー色の海。

あたしは、何に囚われているんだろう。
それを振り払い、目の前の現実へ視線を戻す。

夜景を映したカクテルグラス。
耳元へ落とされる甘い誘い文句。
年上の男。
年下の男。

——あたしは、何が欲しいの?
どうして、この隙間だけ埋まらないのだろう。


ケンちゃんから、週末のデートの誘いが届く。

今は、彼の隣が一番気楽だった。
他の男たちと違って、ケンちゃんは絶妙な距離の置き方を知っている。

あたしが引いた一線を、無理に越えてこない。
何も求めてこない——そんなふうに見えた。

ケンちゃんが夕食に選んだのは、祐天寺にある彼のアパートだった。
昼間から仕込んでいたという料理が、テーブルいっぱいに並べられている。

ナシゴレン。タイカレー。サテー。
スパイスの香りが、部屋の奥まで満ちていた。

「昔、六本木の店でバイトしてたことあるんだよね」
そう言いながら、ケンちゃんは器用な手つきで、生春巻きを巻いていく。

「はい」
出来たてを、そのまま口元へ運ばれる。
あたしは雛鳥みたいに、彼の指先からそれをついばんだ。

四つも年下なのに。
どうしてこんなふうに甘やかされるのが心地いいのだろう。
女はきっと、全部を委ねて息を抜ける時間に弱い。

「ねぇ、ケンちゃん。若いのに、女の扱い上手いよね」
「そう?」
ケンちゃんは笑った。
「ただ、女の子が美味しそうに食べてるの見るの好きなだけ。……それに、家だとこんなことも出来るし」

ぺろり、と。
ケンちゃんの舌が、あたしの下唇をなぞった。

「あれ、何か付いてた?」

悪びれもせず、ケンちゃんは笑う。
まるで、子猫を舐めてやる親猫みたいだ。

——下唇から、ココナッツの香りがした。

その甘い香りが、不意にあの島の空気をよみがえらせた。
南国の白い砂浜に転がった、ひび割れた実。

どうしてなのだろう。
テーブルには、もっと強い香辛料の匂いが溢れているのに。
あたしは、この香りにだけ反応してしまう。

そんな感情とは、無縁に生きてきたはずだった。

鉄男と三年続いたのだって、ただ居心地が良かったから。
別れたのも、その延長。
あたしを繋ぎ止めていた何かが、少しずつ擦り切れてしまった
——ただ、それだけのこと。

……なのに、どうして。

終わった恋なんて、色褪せた写真みたいに、心の奥へしまわれていくものだと思っていた。
気まぐれに思い出す日まで、静かに眠っているものだと。

だけど、あの島の記憶だけは違った。
金色の陽射しを浴びて、鮮やかな色をまとったまま、何度もあたしの中へ降り注いでくる。

——ひさまずいて、手を伸ばせば楽になるのだろうか。
慣れない焦燥感に、気が狂いそうだ。

それでも、最後のプライドだけで立っていたのに。
震えるつま先で、必死に踏みとどまっていたのに。

……まさか。

ケンちゃんが、その背中を押すなんて。
まさか、彼の口から——あの島の名前が出るなんて。


ケンちゃんが海からあがるのを、砂浜でぼんやりと待っていた。
風が、春の気配を含んでいる。

これで何度目だろう。
見慣れてきた九十九里の海岸線を、なんとなく目でなぞる。

最近は、あまり女の子も寄ってこなくなった。
……あたしのせいだろうか。

恋人だと、勘違いされているのかもしれない。
だとしたら、ケンちゃんに少し悪い気もする。

そんなことを、どこか他人事みたいに思っていた。

ケンちゃんが、ボードを抱えてこちらへ歩いてくる。
すれ違いざまに声をかけたボブの女の子が、名残惜しそうにその背中を見送っていた。

もう少し話していてもいいのに。
あたしに気を遣っているのか、すぐに切り上げて戻ってくる。

春先とはいえ、海の水はまだ冷たいはずだ。風が髪を撫でるたび、濡れたケンちゃんの肌から体温が奪われていく気がした。

ポットから紅茶を注ぐ。
ミニボトルのブランデーを、ほんの少しだけ垂らす。
隣に腰を下ろしたケンちゃんに、それを差し出した。

「アッコの紅茶、いい香りだ」

カップに手を添えて、その温もりを確かめながら息をつく。
そのまま、ふと思いついたように言った。

「アッコって、来月忙しいの?」
「うーん。忙しいのは今月かな。来月はそうでもないよ」
「じゃあさ、旅行行かない? 海外。毎年、サーファー仲間でバリに行っててさ」

軽い調子で話すケンちゃんを見ながら、少しだけ考える。

「でもあたし、サーフィンやらないし。それに仲間内の話でしょ」
「女の子連れてくるやつもいるよ。ほら、マリとかも来るし」

顔だけ知っている女の子の名前が出て、少しだけ気が緩む。

……たまには、そういうのもいいかもしれない。
そんなふうに、気持ちが揺れた。

「でもさ、今年はちょっと違うとこ行こうかって話になっててさ。すげぇいいとこなんだよ」

ケンちゃんが、少しだけ間を置く。

「だから、アッコも連れて行きたいなって」
「違うとこ?」
「最近さ、サーファーの間でちょっと話題になってて。値段も手頃だしさ。写真見てびっくりしたんだよ——こんな綺麗な海あるんだなって。知ってる? モルディブって」

えっ。
——今、なんて言ったの。

「インド洋にある、小さな島の集まりなんだって」

モルディブ。
その名前が、胸の奥を強く打った。

「……やぁね、ケンちゃん。小さな南の島なんて、恋人と二人で行く場所よ」

軽く笑って、そう返す。
——断るための言葉。
なのに、指先が少し冷えていた。

ケンちゃんは、しばらく何も言わなかった。
それから、声を落として——耳元で。

「じゃあさ、二人で行こうか。俺、サーフィン出来ない島でもいいから」
「えっ」
「アッコと行ってみたいんだよ。あんな海」

いつもおどけてばかりいる彼が、見せたことのない目だった。
まっすぐで、逃げ場がない。
瞬きすら、出来ない。

「こんないい加減な俺がさ、アッコのこと……大事にしたいって思っちゃうんだよね」

ケンちゃんの髪から、雫が落ちる。
ぽた、と。
彼の言葉が、砂に模様を描いて吸い込まれていく。

誰かに愛される心地よさ。
ケンちゃんは、あたしの中に引いた一線を、あっけないほど軽く越えてきた。

だけど、それと同時に——
あたしが必死に堪えていた、その背中を押してしまったことに、彼は気づいていない。

行こう、あの島に。

そう決めた途端、身体が軽くなった気がした。
そして、ケンちゃんを見つめ返す。

自分の心に素直になってみれば、求めている相手は、最初から一人しかいなかった。

今更かもしれない。
だけど、仕方がない。
心は、こんなにも正直だ。

「……ケンちゃ——」
言いかけた言葉は、押しつけられた唇に塞がれた。

「わかってるんだよね、俺。振られるのなんてさ」
ケンちゃんが、小さく笑う。

「アッコの中に、誰かいるのも気づいてた。黙ってりゃ、このまま一緒にいられたのにさ」

ケンちゃんが、少しだけ間を置く。

「欲が出たんだよ。久しぶりに、ちゃんと好きになったから」
言葉が、静かに落ちてくる。
「全部欲しいなんてさ」

——ごめんね。
居心地の良さに、甘えていた。

「……俺、セカンドでもいいけど?」
いつもの、おどけた目だった。
「……馬鹿ね」
喉が、少しだけ震える。

「ケンちゃんだけを大切にする子が、ちゃんといるわよ」

ふと、さっき砂浜で、ケンちゃんと立ち話をしていた女の子が頭をよぎる。
たまにこの海岸で見かける、ボブの似合う可愛い子。

ケンちゃんを囲む女の子たちの、その少し後ろで。
あの子だけは、いつも静かに彼を見つめていた。

——誰だっけ。

そうだ。
ケンちゃんの友達の妹。

どうして、気持ちはすれ違うのだろう。
満たされた泉がそばにあるのに、どうして人は、別の水を欲しがってしまうのだろう。

そこへ身を沈めてしまえば、楽になれるはずなのに。


夜中。
スマホのコール音を、息を潜めて数えていた。

「……どうした?」

一年ぶりの鉄男の声。
少し掠れていて、記憶より低く響く。

あたしは、間を置かずに言った。

「いい島があるのよ。たまには水上コテージなんて、どう?」
電話の向こうが静かになる。

「……酔ってるのか?」
あぁ、その勘違いはちょうどいい。

「ワインを一本空けただけ。ねぇ、本気。もうコテージも押さえたの」
微かな呼吸音だけが続く。

「俺が断ったら、他の男に電話するのか?」
「いやぁね」
小さく笑う。

「あの海に誘える男、貴方の他にいないでしょ?」
電話の向こうで、小さなため息が響く。

「俺、今付き合ってる女がいるんだ」
「知ってる。可愛い彼女ね。年下?」
「……知ってて誘ってんのかよ」
「別に邪魔しようなんて思ってない。復縁したいわけでもない。ただ、あの海が恋しくなっただけ」
「ふざけんな」

通話が切れた。

どうして、「あなたに会いたい」と言えないんだろう。
鉄男が来ないなら、一人で行くって——それさえ。

さっきのケンちゃんの顔が、ふいに浮かぶ。
あんなふうに、まっすぐ言えばいいだけなのに。

暗がりの中、スマホの着信が静かに震える。

鉄男。

通話に出る。
しばらく、何も言わないまま時間が流れた。

「……お前が考えろよ、言い訳」
低く、掠れた声。
「言い訳?」
「彼女への言い訳。一週間いなくなって、真っ黒で帰ってくる理由。俺、そういうの考えるの苦手でさ」
少しだけ、不機嫌な声だった。

「……いいの?」
「俺だって行きたくて、うずうずしてんだよ。アイツと行くわけにいかないだろ」

その一言が、胸に刺さる。
後ろめたさと——それでも止まらない気持ち。

あたしは、少しだけ息を整えて、
ずる賢い言い訳と、小さな島の名を口にした。


鉄男が隣で眠っている。
静かな波音に包まれた小さな島で、あたしは久しぶりにこの夜へ戻ってきた。

シーツにうつ伏せになった鉄男の背中へ、そっと頬を寄せる。
熱を失いかけた肌。
その呼吸に合わせて、わずかに動く肩。

あたしは、その温もりに静かに身体を預けていた。

一年ぶりに鉄男に抱かれた感触が、まだ身体の奥でくすぶっている。
触れられた場所を思い出すたび、甘い痺れがゆっくりと広がっていく。

だけど不思議と、苦しくはなかった。
床下から響く波音が、胸の奥に溜まった感情を、少しずつさらっていくからだろうか。

——あぁ。
あたしは、この場所に鉄男といたかっただけ。

一年前、最後の夜に見失っていた気持ち。
馴れ合いの心地よさに甘えて、失うものの大きさから目を逸らしていた。

だけど今なら、ちゃんとわかる。
限られた時間の中で、自分が何を終わらせるべきなのか。

あたしはあの時、置き去りにした恋の続きを、ここへ回収しに来たのだ。

鉄男という甘い麻薬に、もう一度だけ深く溺れて。
その先に待つ痛みごと、きちんと飲み込むために。

彼のいない人生へ歩き出すために、あたしはもう一度、彼を愛したかった。

たとえ、この旅が自分を傷つけるのだとしても。
今のあたしには、進むべき場所が見えていた。


鉄男との最後の舞台に相応しい島——タージ・コーラル。
半径八十メートルほどしかない、ハート型の小さな珊瑚礁の島。
こんな形をした楽園が、本当に存在するなんて。

夕暮れになると、エイの群れが浅瀬へ集まってくる。
翼みたいにひらりと揺れながら、この手の届きそうな場所で餌をついばんでいた。

ラグーンヴィラと呼ばれる水上コテージからは、遮るもののない海と空が広がっている。

この場所で寄り添うと、南国の空気は濃度を増して肌へまとわりつく。

陽射しに色づき始めた肌。
そこへ散ったホワイトサンドは、砂糖菓子みたいに甘く見えた。
あたし達は木陰へ逃げ込むように、何度も身体を重ねた。

終わりを知らない子供みたいに。
欲しいものだけを貪る、甘く自堕落な時間。

——堕ちていく。
ゆっくりと。

蜂蜜色の陽射しが、糸を引くみたいに降り注ぐ。

あたしを翻弄していた記憶の断片が、今、現実の熱を持って蘇っていく。

あぁ、これだ。
何もかも満たされる、この感覚。

惰性とは、なんて愚かなのだろう。
こんな輝きさえ、色褪せたものに見せてしまうのだから。

だから、失う。
失ってから初めて、その眩しさに気づいてしまう。

誰と訪れても、この美しくロマンティックな島なら、素敵なバカンスになるに違いない。

だけど、鉄男だった。
鉄男と一緒だったから——あたしは、こんなにも溺れるほど幸福だった。

忘れていた。
……ううん、忘れたふりをしていたのかもしれない。

こんなふうに、誰かでいっぱいになることを。

知恵をつける代償は、どうしてこんなに大きいのだろう。
だけど、その痛みごと覚えていれば、もう二度と同じ過ちは繰り返さない。

あたしは最後のバカンスを、深く身体へ刻み込んだ。

シャイなレストランのボーイも、日を重ねるごとに友達のような笑顔を見せてくれる。
言葉も通じないゲストたちと、ドリンクを賭けて笑い合うヤドカリレース。

椰子の木に吊られたハンモック。
星空を見上げながら寝転んだ砂浜の柔らかさ。

時間の感覚が、少しずつ薄れていく。
イルカを見たのは昨日だっただろうか。

隣には、鉄男がいる。

同じ景色に笑って、驚いて。
ただ、その時間へ身を委ねていた。


その日は朝から雨だった。
通り過ぎるだけのスコールじゃない。
細かな雨粒が、静かにコテージを濡らしていく。

「明日帰国だってのに、ついてないな」
鉄男は先にベッドを抜け出すと、ミネラルウォーターを瓶のまま飲み干した。

「雨の海も、たまにはいいんじゃない?」
最後の一日。
あたしは、こうして鉄男と閉じ込められることを、少し嬉しく思っていた。
鉄男はベッドへ腰を下ろすと、不思議そうに笑う。

「去年、一日雨だったの覚えてる? アッコ、えらく不機嫌だったじゃん。今年はずいぶんしおらしいのな」
からかうように、人差し指で肩をつつかれる。

「やめてよ……」
あたしはシーツへ潜り込むと、そのまま身体を丸めた。
ミノムシみたいに、ぎゅっと。

シーツを探る気配。
次の瞬間、上から鉄男の重みが覆いかぶさる。

顔のところだけ、悪戯みたいにシーツをめくられた。
「まだ隠れてんの?」
くすっと笑いながら覗き込んできた鉄男の目が、ふっと揺れる。

「ばっ……か、お前……何、泣いてんだよ」

そう、どうして急に涙が溢れてきたのだろう。
さっきまで、鉄男とこうしてコテージに閉じ込められることが嬉しかったのに。

だけど、このバカンスが終わる。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

居たたまれなくなって、あたしは再びシーツの中へ逃げ込む。
息をするたび、小さくしゃくり上げる声が漏れた。
シーツが、じわりと湿っていく。

「……やめろよ、そんな泣き方。お前らしくないじゃん」

鉄男の声は、少し怒っていた。
ベッドが軋み、彼の気配が離れていく。

——呆れてる。
未練なんか見せて。
今更、泣いたって仕方ないのに。

「おい」
シーツ越しに、頭へ大きな手が添えられる。
「どうした? 明日帰るの不安なのか?」
低い声。
「俺を誘ったりしてさ……変だと思ったんだよ」
その手が動いて、ゆっくり肩をさする。
「ほら、年下のサーファー君。あいつと上手くいってないのかよ?」

——え?
どうして、ケンちゃんのことを。

「前にエリコの店で見かけた。いい男だったじゃん」

下北沢のイタリアン。
ケンちゃんと食事に行った夜を思い出す。
そういえばエリコ、妙に慌てて奥の席へ案内していたっけ。

まさか、鉄男がいたなんて。
頭の中が、ぐるぐると回る。
息が苦しい。

「喧嘩でもしたのか? ……だから俺を誘ったんだろ」

何も言えなかった。
背中を撫でていた手が止まる。
次の瞬間、乱暴にシーツが剥がされた。

寝起きの髪。
涙で濡れた頬。
ぐしゃぐしゃになった顔を、反射的に両手で隠す。

見られたくない。

だけど鉄男は、その手首を片手で掴むと、そのまま頭の上へ押し上げた。
逃げ場を塞ぐみたいに。

至近距離で、じっとあたしを見下ろしてくる。

「一年前、俺と別れる時は、涙ひとつ見せなかったのにな」
低く呟く。
「他の男のためには、そんなふうに泣くんだ」

違う。
そう言いたいのに、しゃくり上げるばかりで声にならない。

「……気に入らないよな」
鉄男の苛立ちを押し殺した声が続く。
「この島で、俺以外の男の影見せられるの。ルール違反だろ」

こんな鉄男、知らなかった。

バカンスでは、いつだって完璧だった。
甘く、スマートにあたしをエスコートして。
感情なんて乱さない人だった。

どこか、あたしと似た。
少し冷めた、大人の男。

——“潮時って、俺達のことだよ”
あんなふうに、さらりと別れを告げたくせに。
今、乱暴に覆いかぶさっている男は、本当に鉄男なのだろうか。

いつも冷静だったくせに。
感情なんて見せない男だったくせに。

まるで、あたしを独り占めしたがっているみたいだ。

——あんたこそ。
日本で、可愛い彼女が待っているくせに。

だけど、そんな言葉は飲み込んだ。
思い出したくない。
今だけは。

涙で湿ったシーツを乾かしていくような熱が、何度も身体を焦がしていく。

最後だから——?
そう思った瞬間、余計に涙が溢れた。

「ねぇ、まだ終わらないで」

「鉄男じゃなきゃ、駄目なの」

溜め息に混じるように、何度も想いが零れてしまう。

「もう離したくない」

……馬鹿みたい。
別れてから、こんなことに気づくなんて。


……夢?
重たい瞼を、ゆっくり開く。

窓の向こうに、滲んだ青が広がっていた。
海なのか、空なのか。
眩しすぎて、まだうまく輪郭が掴めない。

身体が熱い。
だるくて、甘く痺れていて——そのまま、また眠ってしまいそうだった。

すごい夢、見ちゃったな。
ぼんやりそんな事を思いながら、隣へ手を伸ばす。
そこに鉄男はいなかった。

肌に絡むシーツの感触で、自分が裸なことを思い出す。

……あ。
掴まれていた手首が、まだ甘く痺れている。

夢じゃ、ない。

カチ、と小さな音がした。
バスルームの扉が開く。
腰に生成りのバスタオルを巻いた鉄男が、濡れた髪をかき上げながら出てきた。
陽に焼けた肌。

その姿を見た瞬間、さっきの熱が一気に身体へ戻ってくる。
思わず、視線を逸らした。
だけど鉄男は構わずこちらへ歩いてくる。

「ごめん。乱暴に扱って……」
鉄男が、あたしの手首にそっと触れた。
さっき押さえつけられていた場所が、少し赤くなっている。

あぁ。
やっぱり、本当にあったんだ。

「平気……痛くないし」

そんなことより。
あたし、さっき……何、言ってた?
ベッドの上で零してしまった言葉を思い返して、胸の奥が熱くなる。

鉄男が、気まずそうに視線を逸らした。

あぁ、そうだよね。
困るよね。

「さっき言ったこと、気にしないで。……ね? 鉄男に恋人いるの、ちゃんとわかってるから」

言ってみたかっただけ。
消えそうな声で、そう付け足した。

「泣いてたの、この旅行が終わるからか?」

——もう、いいじゃない。
何も言わないで。

「……お前、馬鹿だよな」

馬鹿。
今、馬鹿って言った?

あたしは裸なのも忘れて立ち上がった。
何も言わず、そのままバスルームへ向かおうとする。

「アッコ」
すれ違いざま、腕を掴まれた。
「いや、お前だけじゃない。俺も馬鹿だ」
振りほどけないまま、あたしは息を止める。
「彼女と一緒にいても、お前のことばっか考えてた」

次の瞬間、後ろから抱き締められる。
背中へ重なる鉄男の熱。
隙間なく触れたその温もりに、胸の奥がまた苦しくなった。

「もう終わってるのに、情けないなって思ってたよ。偶然、お前の男も見ちゃってさ。結構落ち込んでた」

鉄男が、小さく息を吐く。

「まさか電話来るなんて思わなかった。この海に来るのに、わざわざ俺を誘うって感覚は……何となくわかったんだ」

重なった身体から、鼓動が伝わってくる。
それが鉄男のものなのか、自分のものなのか、もうわからない。

「お前の気まぐれに付き合って、たった一週間だけでもいいって思った」

息を呑んだまま、あたしはその声を聞いていた。

「俺、離さないよ?」

胸が、大きく跳ねる。

「何言ってるのよ……彼女、どうするのよ」
「俺さ、お前みたいに悪知恵働かないし、演技力もないし」

鉄男が、少し困ったみたいに笑う。

「旅行のこと隠すとか、上手く出来ないからさ……別れた」
「えっ?」
「俺にはもったいないくらい、いい子だったよ。でも、嘘つけなかった」

静かな声だった。
だけど、その一言一言が胸の奥へ沈んでいく。

——本当に。
あたし達、どうしようもない大馬鹿者だ。
こんな遠回りをしないと、大切なものが何かさえ、わからなかっただなんて。

そのせいで、傷つけてしまった人達がいる。
その罪だけは、きっと忘れてはいけない。

いっぱしの大人の女になったつもりでいた。
だけど、繰り返してきた色恋なんて、本当に誰かを愛することの前では、何の役にも立たないらしい。

あたし達は今更になって、ぎこちなく恋をやり直している。
きっと、笑ってしまうくらい不器用に。

だけど——それでいい。

背中へ重なった温もりが、ゆっくり動く。
鉄男が、あたしの髪へ顔をうずめた。

「何か今更で、こっ恥ずかしいよな」

照れ隠しみたいに、小さく笑った。
鉄男は、ティーンエイジャーのように不器用なまま、言葉を探している。

耳元へ落ちてきた、熱を含んだ声。

「次は、どの島に行こうか?」

思わず、頬が緩んだ。
こんな言葉に満たされるなんて、きっとアイランドジャンキーだけだ。

だけど、次の海を約束するその囁きは

—— どんな甘い愛の言葉よりも、あたしを幸福にした。

【END】


小説の舞台/モルディブの島:タージ・コーラル
写真提供:『南の島の部屋』

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あ、もうケンちゃん読んだよって方

🔶日本に置いてきた鉄男の彼女視点🔶


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●昔書いた小説ですので、現在は島がリニューアルして名前が変わっていることがあります。
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●南の島にこだわらない物語や日本文化を考察したエッセイも綴っています。
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