【短編小説】俺、セカンドでもいいから
You Don’t Love Me
ケロンパ
(17000文字)
来るものは拒まず
去るものは追わず
女の子って、こういう距離のほうが楽だったりするよな。
だってさ、俺って修羅場とか苦手だし。
楽しくなきゃつまんないじゃん?
あ~ぁ、俺を取り合って喧嘩なんて止めてよ。
みんな一緒に楽しい夜をすごそうよ。
「ケンちゃん、どうしたの?そのほっぺ」
まだ開店前のレゲエバー。
店に入るなり、カウンターでグラスを磨いてたるみるみが、俺を見て目を丸くする。
「あぁ、引っ掻かれた…猫に」
「またまた、猫は猫でもよく陽に焼けた猫ちゃんでしょ?そういえばマユミ、昨日ケンちゃん探しまくってたよ。あの子?」
るみるみはくすっと笑いながら、グラスを光にかざした。
なんかこいつ、こういう時だけ妙に鋭いんだよな。
肩をすかして、とぼけてみせる。
俺ってさ、軽いけど口は固かったりする訳。
こんな話、面白おかしく尾ひれをつけて、酒の肴にされるだけだ。
だけどさぁ、わかんねぇよな。どうしてマユミあんなに怒ったんだろう。
たった二、三回寝たくらいでさ、まさか俺の事、彼氏だなんて思ったわけでもあるまいし。
今朝、部屋のアパートの玄関を開けたらあいつが立っていた。
俺の隣には夕べお持ち帰りした女の子。
俺、ちゃんとおはようって言ったのに、突然、爪立てた横びんた一発食らわせてきて、そのまま走っていなくなっちゃった。
挨拶くらいしようよ。
それに、爪も切ろうよ……ね。
「ケンちゃんってさ」
るみるみが、ラムインコークを差し出しながら言う。
「人の感情、ちょっとナメてるよね」
「え、急に怖いこと言うじゃん」
「だってさ。レゲエも形は変わっても、根っこは変わらないじゃん」
……何言ってんだ、こいつ。
「人の気持ちも同じでさ。軽いノリでも、本当のとこはちゃんと残るんだよね」
「いや、急に説教モード入るのやめてくんない?」
るみるみは気にした様子もなく、氷をグラスに落とした。
「ケンちゃん、今日ピンチヒッターでしょ?」
「ああ。DJが風邪でさ。ブンタさんから電話きて、今夜頼むって」
「いいなぁ。音で人動かせるの」
少しだけ羨ましそうに言って、すぐに口元をゆるめた。
「私もやってるけどね、一応」
「なにを?」
「曲。AIで作って、YouTubeに上げてる」
「は?急に未来きたな」
「でしょ?」
るみるみは軽く笑って続けた。
「でも結局、みんな同じとこ戻ってくるんだよ。レゲエもポップも、ぐるぐる回ってるだけ。でも、ちゃんと生きてるよ。ちゃんと残ってる」
氷がまた鳴る。
「だから、ここで勉強中」
「バーテンが?」
「うん。音と人の反応、見たくて」
……そんなうまく回ってねぇだろ、こっちは。
俺には同じノリの色恋ばっか、ぐるぐる回ってる気がする。
金曜の夜だ。
夜の帳が降りる頃には、酸素を薄くする程に店を人が埋め尽くす。
煙草の紫煙に混じって漂ってくるマリファナの香り。
いい感じの曲をかけてやれば、妖しいまでに男も女も体を上下に揺らす。
いっときのブームってやつは、とうの昔に過ぎ去った。
幾つかあった都内のレゲエクラブは連ねて店をたたみ、客がいるのは老舗のここアフロアフロぐらいだ。
この業界、十年つづいてりゃ老舗っていえるよな。
たまにDJに穴が空くと、俺はこのアフロアフロに借り出される。
普段は、この店のオーナー、ブンタさんが他で経営するサーフショップの店長だ。
ま、たまにはいいけどね。俺、お祭り好きだしさ。
流行りすたり関係なく、レゲエが好きな奴らが集まる店。
自分が選んだレコードのビートに、皆が身を任せる――その光景をDJブースから眺めるのは、悪くない気分だった。
ケンちゃん、ケンちゃんと名前も知らない女が擦り寄ってくる。
こういう場所で親しげに店の男と話すのをステイタスだと思ってる女の子達。
ちょろいよね。でもそんなお尻の軽い子も可愛いもんだよ。
俺、女の子大好き。
ふわふわしてて気紛れで甘くって美味しい。
それを味わっている時、あぁ男に生まれて良かったなって思ったりしちゃうんだ。
夜の十時。店はまだまだ客もまばら。
盛り上がるのは十二時過ぎと相場は決まっている。
この青山の雑居ビルって築何年なんだろう?
みんなの靴が一斉にステップを踏み出す時間になると、床が抜けるんじゃないかって時々不安になる。
一杯飲もうと新しいレコードに針を落とし、バーカウンターに向かう。
るみるみはビールの小瓶をすっと差し出してきた。
あ、うんの呼吸だね。
こいつ、まだこの店で働き始めて二ヶ月のくせに。
なのにもう、空気の読み方は妙に鋭い。
——素質あるよ、君。
こういうやつが一人いる店は、だいたい面白くなる。
——俺だって、レゲエのことくらい、ちょっと考えりゃ……ま、うまく言えねえけど。
背後で、店の重いドアが開いた。
赤と緑と黄色のストライプ。ジャマイカの国旗を描いた、派手な防音扉。
入ってきたのは、見かけない顔。
すっげぇ、いい女。
喉が、ごくりと鳴った気がする。
可愛い子は腐るほど来るけど、上等な女ってのは、そういない。
何ていうのかな、品があるんだよ。磨かれた感じ。
「ワンドリンク付きで二千円です」
るみるみの台詞を、そのまま拝借する。
彼女は少し戸惑ったように、店の奥へ視線を泳がせた。
やっぱりな。
待ち合わせを間違えた口だ。
だって、服からして違う。
この店に来る子は、だいたいエスニック柄にでかいアクセサリー。
ストリートっぽいのもいるけど、目立ってナンボ、ってやつ。
でもこの女は違う。
仕立てのいいスーツ。
いかにも仕事できそうな女。
柔らかい生地が身体のラインを拾って、
開いたブラウスの胸元が、くらくらするほど色っぽい。
ジンバックを渡しながら、少しだけ距離を詰める。
彼女は俺の目をまっすぐ見て、奥のテーブルへ歩いていった。
ぼうっと見送っていると、るみるみが合図をよこす。
やべ、曲。
慌ててブースに戻って、次の曲を繋ぐ。
それから、さりげなく彼女のテーブルに近づく。
細巻きの煙草を咥えた口元に、ライターを差し出す。
室内禁煙なんて、この店じゃ誰も気にも留めない。
椅子に座った彼女は、ゆっくりと火を移した。
こういう店で、距離なんて簡単に縮まる。俺はそれを熟知している。
音がでかくて、近づかないと話もできないからだ。
彼女の唇が、かがめた俺の顔に近づいてくる。
クラブじゃ当たり前の距離。
なのに——やけにスローモーションに見えた。
なんだよ、ちょっとドキドキしてるじゃん。
予感がする。
こういうの、嫌いじゃない。
「ブンタはいるかしら?」
思いもよらない一言だった。
「いるなら、アッコが来てるって伝えてもらえる?」
ブンタさんを呼び捨てにする女なんて、初めて見た。
もしかして、新しい彼女か?
やべぇ。
俺、チャージ取っちまったぞ。
「アッコじゃん、珍しいな」
背後から野太い声。
うわっ、びっくりした。タイミング良すぎだよ、ブンタさん。
「ケン、今日は無理言って悪かったな」
大きな手が、ぽんと肩に置かれる。
「……いえ、全然オッケーっす」
居場所がなくて、俺はブースに戻る。
お仕事、お仕事。
いつもの調子に戻ろうとしても、視線はちらちらとあの二人に泳ぐ。
ちぇ、意外とお似合いでやんの。
妙にしっくりくる空気が、二人を包んでいた。
しかもブンタさん、笑ってるし。
いつもは山みたいにどっかり座って、渋い顔してるくせにさ。
女が隣にいるのは珍しくもない。
でも、あんな顔を見るのは初めてだ。
ため息ひとつ。
レコードに針を落とす。
「ケ~ン~ちゃん」
鼻にかかった甘ったるい声。
視線を上げると、派手な常連の女。
「今日は珍しく早く来ちゃってぇ。でもケンちゃんがDJやってるとか、すっごいラッキー」
重そうな睫毛をぱちぱちさせてる。
「ねぇ、ラストまでいる? だったらリサの部屋、泊まってっていいよ。歩いて帰れるしぃ」
ここ、青山だぞ。
見かけによらないもんだな。
いつもの俺なら、ラッキーって飛びつくとこだけど。
なんだろう。気分が乗らない。
曖昧に笑ってごまかす。
「リサ、待ってるから、また後でね」
カラフルな名刺を渡される。
それを見て、思わず苦笑い。
デリヘルのチラシみたいだ。
こういう、気軽で、軽くて、可愛い子。
やっぱり俺には、こっちが似合うのかね。
初恋の相手はクラス委員だった。
昔から、憧れるのはそういうタイプ。
でも、本気にされない。
だって俺、どう見ても軽いしな。
自業自得ってやつか。
……ま、いいや。
スイッチを入れる。
マイクに向かって叫ぶ。
「Yah Man!!アフロアフロのフライディナイトにようこそ!」
カチカチ、とライターの火花。
フロアがそれに応える。
ケンちゃぁ~ん。
どこかラリッたみたいなたどたどしい呼びかけ。
おいおい、まだ早いんじゃねぇの?
夜は長いんだ。ゆっくり楽しもうぜ。
「……てくれない?」
低音のリズムに紛れて、声が届く。
凛とした、少しハスキーな女の声。
ブンタさんの彼女、アッコさんだ。
「一曲、リクエストしてもいいかしら?」
気づけば、彼女はグラス片手にブースの脇に立っていた。
返す言葉が出ない。
注がれる視線に圧されながら、俺はその唇に耳を寄せた。
「ドーン・ペンの “You Don’t Love Me” をお願い」
うわ、渋っ。
でも、嫌いじゃない。
棚からレコードを引き抜く。
耳に残る、アッコさんの息。
あっちぃな、店の空気が……いや、これは俺の体温か?
針を落とす。
ラスタカラーのライトが、暗がりを切り裂く。
赤、黄、緑。
点滅の中で、ステップを踏むアッコさんの姿が浮かび上がる。
さっきまでブース前で踊ってた常連の姉ちゃんが、すっと引いた。
まぁ、そりゃそうだ。
比べる相手が悪い。
プロモーションビデオみたいだ。
タイトなスカートからのぞく脚。
場違いなはずなのに、やけにハマってる。
いい女がいるだけで、店の空気は変わる。
こっちとしても、ちょっと誇らしい。
曲が終わる。
アッコさんが、まっすぐこっちに歩いてくる。
腕を掴まれた。
そのまま、引きずられるようにカウンターへ。
「ブンタ、この子借りていくわ」
煙草をくゆらせていたブンタさんが、ぽかんとする。
脇にいたるみるみも、目を丸くする。
「そいつ今日のDJだぞ。いなくなったら誰が回すんだ?」
「ブンタがいるじゃない」
「……おれ?」
「たまには初心に戻りなさいよ」
軽く笑うアッコさん。
俺、どういう立場?
「おい、ケン」
ブンタさんが一歩、詰めてくる。
やばい、心臓うるせぇ。
「こいつと何かあったら——」
首を振る。
ねぇよ、そんなの。
俺だって立場くらいわきまえてる。
「……ノラ犬に噛まれたと思って諦めろ」
は?
マイクをもぎ取られる。
まじかよ。
伝説のDJ、ブンタ・オダギリ。
もうブースに立たないって言ってたのに。
俺が拾われた頃には、とっくに引いてた人だ。
本気でやる気かよ。
アッコさんが、にやっと笑う。
また、手を引かれる。
店の扉を開けると、目の前のエレベーターがちょうど開いた。
どっと、アフロアフロ目当ての客が溢れ出てくる。
「あれ、ケンちゃん……どこ行くの?」
親友の妹で、幼馴染の早紀が立っていた。
「終電までに帰れよ。兄貴が心配するからな」
言い終わるかどうかのうちに、アッコさんは向かいの非常階段の扉を開けた。
そのまま、引っ張られる。
階段を降りると、店の方から歓声が響いてきた。
俺を繋ぎ止める、細い指。
青山通りを、まるで恋人みたいに手を繋いで歩く。
「彼氏……ブンタさん、いいんすか?」
アッコさんは目を丸くして、それから笑い出した。
「やだぁ、そんな風に見えた?」
くすくすと、なかなか止まらない。
「イトコなのよ。十も上だけど。まぁ、兄貴みたいなもの」
イトコ。
妙に似てると思ったんだよな、あの空気。
ブンタさん、確か三十九。
ってことは、アッコさん二十九か。
……俺より四つ上。
ちゃっかり、そんな計算をすばやく済ませる。
いいじゃん、年上。全然アリ。
「アフロアフロもよく続いてるわよね。立ち上げのとき、ちょっと手伝ってたの。大学の講義中は眠くって」
へぇ。先輩だったのか。
どうりで、あのステップ。
店の非常階段を迷わず開けたのも納得だ。
……で、どこ行くんだ?
ふと、ブンタさんの言葉がよぎる。
——何かあったら
ノラ犬に噛まれたと思って諦めろ。
何かって、なんだよ。
ノラ犬って、アッコさんのこと?
……噛まれるってさ。
変な期待が膨らむ。
この人になら、噛みつかれてもいいかもな。
「この先にね、遅くまでやってる美味しいピザ屋があるの。ご馳走するから、付き合って? こんな時間に女一人じゃ寂しいでしょ」
——あぁ、そういうことか。
少しだけ肩の力が抜ける。
でも。
運命は、もう動き出していた。
この日を境に、アッコさんは俺の中に棲みついた。
ノラ犬っていうより、アッコさんは迷子のシャム猫みたいだ。
気まぐれに、美味しいとこだけついばんでいく。
初めて会ったあの日だって、恵比寿のアパートに俺を連れ込んだくせに、
自分はダブルベッドで悠々と眠って、俺はソファー。
そのくせ、朝はキスで俺の瞼をこじ開けるんだ。
「アッコさん……」
寝ぼけた声で首に手をかけると、やめてよ、と睨まれる。
思わず引っ込めた腕の中に、するりと潜り込んできて
「アッコさんなんてやめてよ。姐さんみたいじゃない」
そう言って、小さく笑う。
何が、他の女と違うんだろう。
気づけば、あっという間に持っていかれてた。
理由なんて……よくわかんない。
だって俺、あの人のことよく知らないし。
外資系に勤めてるとか、
恵比寿の洒落たアパートとか、
ブンタさんのイトコだとか——
知ってるのは、そのくらい。
全部、どこか掴みどころがない。
遠いんだよな。
……こんなの、俺が気にするなんて笑えるけど。
本気にならない距離が一番だって、
ずっとそうやってきたのは俺なのに。
だから、わかる。
どう振る舞えば、彼女のお気に召すか。
そのルールってやつを。
ブンタさんは何も聞かなかった。
ただ、「金曜は世話掛けたな」と一言だけ言って、俺の肩をぽんと叩いた。
何でもお見通しみたいな目が、ちょっと痛い。
おてんばな妹を見守る兄、って感じ。
あれから、ブンタさんは時々ブースに立つようになった。
おかげで俺は、お助けDJからお役御免。
だから、アッコに急に誘われても、いつでも動けるってわけだ。
俺って、惚れると案外ケナゲなんだな。
アッコにとって、俺はただのボーイフレンドの一人。
……そんなの、わかってる。
似たような軽い付き合いの男達がいることも、すぐ気づいた。
でもさ。
俺みたいにお行儀いいやつ、そういないだろ。
人って、最後は“お気に入り”に落ち着くもんなんだよ。
ちょっとつまみ食いしたって、結局は居心地のいいとこに戻る。
……俺の経験上、だけど。
とりあえず
最初は、お気に入りの一番上を取りにいく。
仕事もばりばり。美人で、遊び上手。
いつも自信に満ちているその瞳が、ふと曇る瞬間がある。
どうしてなんだろう。
俺の唇を鮮やかに奪ってみせたりするくせに、
腕の中でふと覗き込むと、泣きそうな顔をしていたりする。
……でも、さすがなんだよな。
俺の視線に気づいた瞬間、
そんなもの、なかったみたいに消してしまう。
だけど違うの。
俺、勘はいいほうだからさ、わかるんだよね。
押し殺してるんだなって。
俺の腕の中で、泣いたっていいのに。
——でも、言えない。
それはルール違反な訳よ。
踏み込んじゃいけない、一本のライン。
今までの人生をリセットしたい。
どうしてどいつもこいつも、俺の恋路を邪魔するんだろう。
ただカッコイイ俺を彼女に見せたくて、ボード抱えてドライブがてら千葉の海に繰り出したっていうのにさ。
まさか、ガールフレンドの皆様が揃っていらっしゃるなんて思いもしなかった。
「ねぇ、いつならいいの?飲みに行こうって言ったじゃない」
「この前、忘れ物してたよ。あのCD、部屋に置きっぱなしだけどいいの?」
「今度、新しいボード買うから付き合ってよ」
——酒の誘いなんて、何ヶ月前の話してんだよ。時効だろ、時効。
部屋にCD?
それ、お泊まりアピールってことでいいの?
俺の隣に女がいるの、見えてないの?
空気ってさ、読めるもんじゃない?
デリカシー、どこ置いてきたの。
新しいボード?
君にはもったいないよ。浮き輪にでもしがみついてな。
はぁ~~~~~。
自分で撒いた種ってやつだ。
摘み取ってこなかった俺がうかつだった。
「モテモテだね」
アッコはそう言って、楽しそうに笑ってる。
「アッコにだけモテればいいんだよ」
そう言うと、彼女はさらに肩を揺らして笑った。
やっぱりね。
そりゃ、無理だよな。
こんな、冗談にしか聞こえない愛の告白。
誰が本音だなんて気づくっていうんだ。
まあ、気長にいくよ。
一滴ずつ、沈んでいくみたいな恋も悪くない。
気づいたときには、もう抜け出せない。
甘い水に、足を取られる。
「下北沢に友達がイタリアンの店を出したのよ。ケンちゃん、明日の夜、空いてるかな?」
神様は俺を見捨てていない。
明日はマイバースディ。好きな女と過ごせるとは、なんてラッキーなんだ。
あれ?俺、去年の誕生日、何してたっけ。
シズカ?いやヒロコ?
誰か女の子と過ごしたのは確かなんだけど……。
やっぱり、気持ちがないとこんなもんだよな。
俺、今年の誕生日は一生忘れない。
おぉ、わくわくしてきた。
遠足前の小学生の気分ってやつ。
恋って、体をこんなふうに揺さぶる力があるんだな。
アッコの友達の店は、下北沢から歩いて十分ほどの洒落たイタリアンだった。店は結構広くて、フロアの中心に設置されたオープンキッチンを、ぐるりとカウンターが囲んでいる。
壁沿いには、いくつかのブースに分かれたテーブル席。
「いらっしゃいませ」と丁重に挨拶するギャルソンに、アッコはオーナーがいるかを尋ねている。
そのとき、オープンキッチンの向こうから視線を感じた。フランベで炎が上がるフライパンの向こう、カウンターに座った男がこちらを見ている。
その隣にいた女が、慌てた様子でこちらへ歩いてきた。
アッコは窓のステンドグラスに気を取られていて、この光景には気づいていない。
「いらっしゃい、アッコ。来てくれたのね、ありがとう。あら、彼が噂のボーイフレンドかしら?」
やっぱり、この人がオーナーか。
“噂のボーイフレンド”。
アッコの友達にまで、俺の存在が知られてるってこと?
ちょっと嬉しくて、俺はいつもの、女の子にウケのいい愛想の良い笑顔で挨拶した。
「彼はケンちゃん。よろしくね。あ、彼女は大学時代の友人のエリコ。
去年ミラノに行って、ついでにご馳走を作れるダーリンも連れて帰ってきたのよね?」
アッコは気づいていない。
エリコさんの視線が、何度もカウンターへ流れていることに。そして、わざわざ店の一番奥のテーブル席へと案内した。
でも、俺からは見えちゃうんだよね。
アッコは背中を向けて座ったから分からないだろうけど。
さっきほど露骨じゃないけど、カウンターの男はワイングラスを傾けながら、こちらを盗み見ている。
俺ね、両眼視力2.0。野生動物並みなんだ。
だから見える。
あいつの瞳の奥で揺れてる、動揺と、
押さえきれない嫉妬までも。
——ふぅん。コイツだな。
しつこいようだけど、頭はそんなによくないけど、勘だけはいいんだよね。
アッコを時々、俺からさらう影の正体。
昔の恋人ってやつか。
しかも、けっこう本気の。
駄目だよ。そんな目で見たってさ。
俺だって、やっと見つけたんだ。
アンタに返す気はない。
目の前で、アッコが柔らかく微笑む。
美味しいワインは、彼女をご機嫌にする。
「俺、今日、誕生日なんだ」
「あら」
彼女は少し驚いた顔をした。
「誘ったときに言ってくれればいいのに。シャンパン、頼もうか?」
「何もいらないから、お祝いのキスが欲しいな」
テーブルに片手で頬杖をついて、俺は悪戯っぽく片目をつぶる。
こういうときの彼女は、そこらの女と違う。
思わせぶりに恥ずかしがって、うつむいたりなんてしない。
鮮やかに、俊敏に、全部済ませる。
テーブルに手をついて身を乗り出すと、アッコは俺に祝福の口付けをくれた。
ほんの一瞬の、柔らかい唇。
ちらりと視線を流す。
カウンターの男が、店の扉へ向かっていくのが見えた。
――そう、そのまま出ていけよ。
アッコの心の中からも、綺麗さっぱり消えてくれりゃいい。
——アッコの隣が似合いそうな、大人の男だった。
アイツの残像が、あれからずっとチラついて邪魔くさい。
もんもんと考えるのは、趣味じゃない。
三日後、一人であのイタリアンレストランを訪ねた。開店間際で、店内にはまだ客はいなかった。
エリコさんは目を丸くして、「あら」と驚いた。
「レストランウェディングができる店を探してる友達がいて。いい店があるって話したら、予算とか聞いといてって頼まれちゃって」
そんな、もっともらしい言い訳をする。
エリコさんは喜んで相談に乗ってくれた。
日取りは? 人数は?
尋ねられるまま、適当に答える。
お姉さんの扱いは、俺の得意分野。
頃合いを見て、話の流れを変える。
「エリコさん、美人だから、新郎が目移りしたらやばいかな?」
程よいジャブに、彼女は「お上手ね」と笑いながらも、どこか嬉しそうだ。
ま、マジで結構いい女なんだよね、エリコさん。
気さくで、上品で、リッチな……綺麗なお姉さんってやつ。
「旦那さんは幸せ者ですね」
そう言うと、「つまんでいってね」と、オードブルの盛り合わせを出してくれた。
そろそろいいか。
さりげなく、さらりと尋ねてみる。
「この前、カウンターにいた男の人、アッコの前の恋人でしょ?
あんまりいい男で、俺、へこんじゃいましたよ」
エリコさんは、少し困った顔をした。
「やだ、アッコ、気付いていたのね。あの子、あまり顔に出さないから」
「俺がついてますから、大丈夫です」
努めて明るく言うと、エリコさんの顔に安堵の笑みが浮かんだ。
「そうね。あなたといるアッコ、楽しそうだったわ」
「女の子を楽しくさせるのだけは得意なんです、俺」
「ケンちゃんって面白いのね」
くすくすと、綺麗な歯を見せて笑う。
「よく二人で南の島なんて行っててね。結婚するものだと思っていたんだけど……でも、男と女のことなんて、本人同士にしかわからないわよね」
——俺って、馬鹿だよな。
奈落の底だ。
俺より四つ年上。
恋愛だって、いろいろ経験してる。
アッコは、あの男を愛しているのかな。
時々見せる、遠い眼差し。
あの男と、俺が重なるのか。
ねえ、俺は?
愛なんて贅沢は言わない。
だけど、少しくらい欲しいんだよ。
——アッコの心が。
「……ケン……おい、ケンっ。聞いてるのかよ?」
オサムの声で我に返る。
「悪りぃ、もう一回」
居酒屋は賑やかで、奥の座敷では大学生が騒いでいた。
オサムは毎年恒例のサーフィン旅行の話をしていたらしい。
「今年は新企画。サーフィンできるツアーのモニターだってさ」
差し出されたパンフレットを、気乗りしないまま開く。
——何これ。
海と空が溶けるような青。
透き通る水の中に、色鮮やかな魚が散っている。
「これ、どこだよ」
「モルディブ」
少しだけ、胸が動いた。
「女連れてっていい?」
「いいよ。早紀も来るし」
早紀。オサムの妹。
あ、こないだ店の前で会ったな。
「へぇ、来るのか」
「その写真見せたら、絶対行くって言い出してさ。あ、マリも行くって」
「へぇ……お前もマリと長いよな。高校からだもんな」
「まだ就職して三年だしな。ま、そのうちって感じ」
オサムがニヤッと笑う。
「お前さ、今一緒にいる女、本気なんだろ?マリが海で二人でいるの見かけたって言ってたぜ。すげえ綺麗な、大人の女だって」
「……惚れちゃったんだもん」
自分で言って、らしくねえなって思った。
「じゃあ連れてこいよ。……でも、早紀な」
「早紀がどうかした?」
「昔からお前のこと好きだろ」
ああ、あったな、そんなこと。
中学の制服で、真っすぐ見てきたあの目。
あの頃の俺には、重すぎた。
「まだ引きずってるみたいでさ、ケンの事」
オサムの声が、少しだけ真面目になる。
「今回で区切りつけさせたいんだよ。いい機会かもな」
「……まぁ、本当は」
オサムは少しだけ言葉を選んだ。
「お前に見てもらえりゃ、一番いいんだけどな」
返事が詰まる。
今の俺に、アッコ以外の居場所なんてない。
「やっぱ……早紀じゃ駄目か?」
思わず顔を上げる。
「無理だろ」
短く返すと、オサムは小さく息を吐いた。
「だよな」
グラスにビールが注がれる。
奥の笑い声がやけに遠い。
うまくいかないもんだ。
誰かを想う気持ちが、同じ方向を向くなんて。
ふと、アッコとあの男が浮かぶ。
……あいつと行った南の島。
パンフレットに視線を落とす。
この青なら、全部塗り替えられるかもしれない。
「今年はモルディブな」
オサムが笑う。
その横顔を見ながら、ふと思った。
「お前とマリってさ、幸せ者だよな」
「は?なんだよ急に」
「いい店知ってるんだよ。レストランウェディングとかさ」
「おぅ」
オサムが照れたように笑った。
千葉の海。
アッコが待っている。
砂浜で、俺を待っている。
そんな彼女を、波に乗りながら眺めるのが好きだ。
砂に広げたラグは、二人の小さな家みたいで。
アッコは、俺のために温かい紅茶なんて用意してくれる。
まるでママゴトだ。
海から上がり、ゆっくりとアッコに近づく。
視線が何度も絡む。
照れ隠しに、ラグの上のランチボックスやポット、きれいにたたまれたタオルに目を逃がして——また、アッコを見る。
「ケンちゃん」
ふいに至近距離で呼び止められ、足を止めた。
振り向くと、早紀がボードを抱えて立っていた。
白いウェットスーツ。
潮風に、ショートボブの髪が揺れている。
この前のオサムの言葉がよぎって、妙に意識してしまう。
「おぅ、今日もマリと一緒か?」
「うん。お兄ちゃんも後から来るって」
そこで会話が途切れた。
じゃあ、と一歩踏み出しかけると、また呼び止められる。
「ケンちゃん、あたしもモルディブ行っていいかな?」
「いいに決まってるじゃん。楽しみだな」
「……あの人も行くの?」
早紀の視線が、浜辺のアッコへ流れる。
「あの、そしたら女同士、仲良くしたいなって…」
にっこりと早紀は口元だけ微笑んでみせた。
無理に作られた笑顔に胸の奥がチクリとした。
「ああ、聞いてみる。仕事もあるだろうし。彼女ってわけでもないし、断られるかもな」
「そっか。オッケーもらえるといいね」
ふっと笑顔が、消えた。
ただ、あの真っすぐな目で俺を見ている。
躊躇わずに見つめ返す。
化粧っけのない睫毛が、不安げに揺れた。
——それでも、次の瞬間、早紀は笑った。
今度は、昔から知っている顔。
目尻を下げた、屈託のない笑い方で。
「頑張れ、ケンちゃん」
すれ違って、俺たちは逆の方向へ歩き出した。
早紀が足を止めて、振り返る気配がする。
それでも、俺は振り返らなかった。
視線は、アッコを捉えたまま。
裸足のまま、一歩ずつ砂を踏みしめる。
アッコへ近づいていく感触だけを確かめる。
——許してくれるかな。
その心に、踏み込もうとする俺を。
賭けだ。
俺、意外とこういうの強いんだよな。
アッコの前に腰を下ろす。
温かい紅茶が差し出された。
すぐには口をつけず、カップに手を添える。
ふわりと、ブランデーの香りが立ちのぼる。
「いい香りだ。アッコの紅茶」
――手放したくない。
でも、その心にも触れたい。
春風が抜けて、濡れた髪を冷やす。
なのに、体の奥は熱いままだった。
「仕事、忙しいの?」
何気ない会話を挟む。
来月なら落ち着くと、アッコは言った。
言葉を探しながら、遠回りに切り出す。
「毎年さ、サーファー仲間でバリに行ってて――」
違う。俺が連れていきたいのは
あの青い景色。
あの、小さな島に。
「今年はちょっと違うとこ行こうかって話になっててさ。すげぇいいとこなんだ。だから、アッコも連れて行きたいなって」
一瞬、言葉を探す。
「……知ってる? モルディブって」
その名前を口にした瞬間、アッコの表情が固まった。
胸の奥が、じりじりと焼ける。
「インド洋にある、小さな島の集まりなんだって」
アッコの呼吸がわずかに乱れる。
「……やぁね、ケンちゃん。小さな南の島なんて、恋人と二人で行く場所よ」
語尾が、ほんの少し震えていた。
胸の中で、何かが弾けた。
もう、止まらない。
「じゃあさ、二人で行こうか」
言葉が先に出た。
「俺、サーフィンできない島でもいいから」
「えっ」
「アッコと行ってみたいんだよ。あんな海」
彼女の体が小さく揺れる。
気づかないふりをして、言葉を重ねる。
「こんないい加減な俺がさ、アッコのこと……大事にしたいって思っちゃうんだよね」
……言っちまった。
引くか、進むか。
もう、どっちでもいい。
アッコは黙って、俺を見ていた。
ガラスみたいな瞳。
綺麗すぎて、感情が読めない。
でも次の瞬間、その奥に強い意志が灯った。
「……ケンちゃ――」
やばい。
本能が先に反応した。
続く言葉を遮るように、唇を重ねる。
怖かった。
だから、先に言った。
「わかってるよ。振られるのなんて」
言葉がこぼれる。
「アッコの中に、誰かいるのも気づいてた。黙ってりゃ、このまま一緒にいられたのにさ」
自嘲が混じる。
「欲が出たんだよ。久しぶりに、ちゃんと好きになったから」
らしくないな、と笑う。
「全部欲しいなんてさ」
情けないくらい、足場が崩れていく。
「……俺、セカンドでもいいけど?」
乾いた笑いが出る。
アッコは、静かに首を振った。
「……馬鹿ね」
やわらかい声だった。
「ケンちゃんだけを大切にする子が、ちゃんといるわよ」
終わった。
春の光が、アッコをやわらかく照らす。
さっきより、ずっと綺麗に見える。
空を見上げるその瞳は、澄みきっていた。
――なぁ、何を決めたんだよ。
手の中から、何かがすり抜けていく。
泣きたい気分だけど、笑った。
お気楽ケンちゃん。
アッコがお気に入りにしてくれた、そんなイメージくらいは壊さないでおこう。その胸に軽く俺を刻んでおいて欲しかったからさ。
飛行機から一歩足を踏み出すと、熱風がまとわりついた。
飛行機のエンジンの熱気か、南国の空気か。
区別がつかないまま、のろのろとデッキを降りる。
マーレ空港。
この国は、空港も刑務所も大統領官邸も、それぞれが専用の小さな島に建っているらしい。ガイドブックを片手に、マリが得意げに説明している。
メンバーは八人。
こいつらに引っ張られて、結局来ちまった。
あれから、アッコとは会っていない。
胸の奥に、ぽっかり穴が空いたままだ。
荷物を受け取り、大きなサーフボードを抱えて船着き場へ向かう。
成田からの便だから当然だけど、周りは見慣れた日本人ばかりで、ここがインド洋に浮かぶ島だなんて実感が湧かない。
愛想のいい現地の男が、俺たちの向かうロヒフシ行きのボートは少し遅れると、悪びれもせずに告げた。ロヒフシはモルディブでも数少ないサーファーが集う島らしい。
時間つぶしに、屋外のカフェで冷えきらないコーラを啜る。
遠くの桟橋には、それぞれのリゾートのボートが着いていて、褐色の男たちが手際よくスーツケースを積み込んでいた。
「……ちゃん。……ケンちゃんっ」
ぼんやりした頭に声が届く。
顔を上げると、みんながこっちを見ていた。
「もしかして、俺……呼ばれてた?」
「明日のポイントの話してたんだけどさ。まぁいいや、俺らで決めとく」
オサムが気遣うように言うと、他のメンバーも同じような目を向けてくる。
ブロークンハートのケンちゃんに、みんな優しい。
その優しさが、少しだけきつい。
俺はひとり、船着き場の方へ歩き出した。
気づくと、隣に早紀がいた。
「いろんな船あるねぇ」
のんきな声で、あちこち見回している。
近くのベンチに腰を下ろす。
夜空を見上げると、大粒の星がこぼれそうに散っていた。
見たことのない空だ。
ようやく、ここが異国なんだと実感が湧いてくる。
――本当に来ちまったんだな。
後悔していた。
アッコがいない。
それが、ここにいるほどにはっきりする。
情けないくらい、引きずってる。
俺を置いて、早紀は桟橋の奥へ歩いていく。
その後ろ姿を、ぼんやり見送る。
早紀は、他のやつらみたいな同情を見せない。
ただ、いつも通りに接してくる。
オサムは「まだ好きだ」なんて言ってたけど――
違う気もする。
あの真っすぐな視線は、そういうのじゃなくて。
もしかしたら、いつまでもふらふらしてる俺を、見張ってるだけなのかもしれない。
立ち上がり、早紀の消えた方へ、ゆっくり歩き出した。
誰かがこちらに歩いてくる。
橙色の灯りを背に、その影が長く伸びて、俺の足元まで届いた。
早紀だった。
さっきまでの、どこか眠たげな空気は消えている。
固い表情だった。
「何かあった?」
早紀は小さく首を振る。
「ケンちゃん、そろそろ戻ろ」
その顔を見て、すぐにわかった。
口元だけで笑う、あの嘘笑いだ。
――“あの人も行くの?”
海でそう聞いたときと、同じ顔。
胸がざわつく。
その背後に何かある気がして、早紀の肩越しに桟橋の先を見た。
……見えた。
アッコがいた。
ちょうど船に乗り込むところだった。
隣の現地の男たちと、笑いながら言葉を交わしている。
やたら声の大きい男がいて、聞こえてくるのは英語じゃない。現地の言葉だ。
慣れている。
この場所に。
そして、その背後に――
あの男がいた。
イタリアンレストランで見た、あいつ。
――知ってる? モルディブって。
……俺は、馬鹿だ。
ここが、あいつと来てた場所かよ。
「行こう、ケンちゃん」
気づけば、早紀が手を引いていた。
逃げるみたいな速さで歩く。
カフェテリアの灯りが見えたところで、やっと足が緩んだ。
絡んだ指先が、震えている。
視線を落とすと――
早紀が、泣いていた。
声もなく、ただぽたぽたと涙を落としている。
「ど、どうした?」
「ケンちゃんの代わりに、泣いてるの」
拭こうともせず、まっすぐ俺を見る。
「だから、ケンちゃんが悲しむ必要ないから」
小さな声だった。
それでも、はっきり届いた。
俺よりずっと小さなその体が、
悲しみの盾になろうと両手を広げて立ちはだかる。
胸はズキズキと痛んだままだったけれど、
もたれかかる場所があるようで救われた気分になる。
触れ合う指先にすがるように力を込めた。
次の日。
朝早くから、仲間は〈ニンジャ〉ってサーフポイントに繰り出していった。
「腹の調子悪くてさ」
適当な言い訳をして、初日は島でのんびりすることにした。
みんなは朝の光に照らされた海に浮かれて、いそいそと船に乗り込んでいく。
ひとり、椰子の木陰に寝転がる。
同じ空を、アッコも見てるのか。
海はどこまでも光が届く限り澄み渡り、
青の濃度を絶妙に変化させながら空の色に混じり込んでいく。
島を覆う鮮やかな緑の葉は、濃い影を白い砂浜に落としていた。
息を飲む色彩のコラボレーション。
写真なんか、比べものにならない。
アッコが時々見せていた、あの遠い目。
あのとき浮かんでいたのは、この景色だったのかもしれない。

モルディブ、と口にしたときのあの顔。
……踏んだな、地雷。
葉の隙間から差す光が眩しい。
目を細めたところに、影が落ちた。
早紀だった。
「あれ?波乗り行かなかったの?」
「あたしも初日はのんびりしようと思って」
水着にパレオ姿で、隣に腰を下ろす。
「地球に、こんな場所あるんだね」
風に揺れる花柄が、視界の端で揺れる。
下から見上げると、
睫毛が椰子の葉のような曲線を描いているのが見えた。
耳にかけたショートボブ。
産毛が光を拾って、淡くきらめく。
……考えすぎるのは、らしくない。
「なあ」
声をかける。
「お前、俺のこと好きなの?」
我ながら直球すぎる。
でも、他に言葉が出てこなかった。
早紀は驚きもしないで、まっすぐ見てきた。
「うん」
あっさりだった。
こっちのほうが戸惑う。
「……なんで?俺みたいな軽いの、どこがいいわけ?」
「ケンちゃんは軽くなんてないよ。正直なだけ」
寝ころんだままの俺を覗きこんで、早紀は優しく笑った。
小学校からの付き合いだけれど、
こんな風にじっくりとマジな話をした事なんてあったかな?
「ケンちゃんがフラフラしてても、
最後にあたし選んでくれればいいって思ってた」
さらっと言う。
「それまでに、好みの女になっとこうかなって」
――何年計画だよ、それ。
「他の人とも付き合ったよ。子供のままじゃ、相手にされないでしょ?」
胸の奥が、ちくっとする。
「アッコさんだっけ」
早紀が少しだけ視線を外す。
「さすがに焦ったけどね。レベル高すぎて」
海を見る横顔。
「あたし、アッコさんみたいになるから……」
語尾が消えそうに小さかった。
溜息のような声なのに、
その台詞はグサリと胸を突き刺した。
「俺さ、なんか言ったっけ。昔」
きょとんとした顔で早紀は再びこちらを見た。
「ほら、よくあるじゃん。子供の頃の約束、ずっと覚えてるやつ」
苦笑しながら続けて言う。
「そういうの、俺たち何かあったかなって」
「やだ、ケンちゃん覚えていたの?」
――やっぱり、やべえ何にも覚えちゃいない。
動揺する俺を早紀はおかしそうに観察している。
「ケンちゃんがお嫁さんにしてくれるって言ったんじゃないよ」
クスクスとした笑いは止まりそうにない。
「ケンちゃんが初めて女の子に振られたとき——中一くらいかな。すごい落ち込んでてさ、公園でぼーっとしてたの」
ああ……クラス委員に振られたやつか。
覚えてる。トラウマだ。
でも、早紀に話した記憶はない。
「たまたま通りかかって、愚痴聞くことになってさ。あたし小学生だったけど、人生相談なんて初めてで——結構、本気で聞いてたの」
不思議な気分だ。
知らない自分の話を、当たり前みたいに聞かされている。
「大人になるのって厳しいよ、とか言うのよ。『俺、一生結婚できないかも』なんて、うなだれちゃって」
……思春期だな。
「だから約束したの。
誰とも結婚できなかったら、あたしが旦那さんにしてあげるって」
へっ?
我に返る。
ああ、そういう昔話、あるのか聞いてたんだよな。
「そしたらさ、すごく安心した顔してこっち見るの。
その顔に——恋しちゃった」
早紀はそこまで言い切って、ふっと黙る。
指先で白い砂をいじり始めた。
その沈黙に、妙に心がざわつく。
「……忘れてるって、わかってたけどね」
小さくこぼす。
砂の隙間から逃げた蟹が、俺の足元を横切った。
「中学のとき、チョコ渡したでしょ?あれ、本気だったんだよ」
ちらりとこっちを見る。
「困った顔してた。ああ、覚えてないんだなって」
「……ごめん」
言葉が、それしか出てこない。
「謝ることないよ。子供のこと、引きずってるあたしがしつこいだけ」
話を打ち切るように早紀は立ち上がった。
「今日のことも、忘れていいからね」
諭すような声。
「ただ好きなだけだから。ちょっと自由な感じに憧れもあるのかもね」
風が抜ける。
照れたように早紀は続けた。
「それでさ、元気ないときは——守ってあげたくなるの」
胸が詰まった。
言葉を返そうにも、気の効いた台詞なんて何も浮かばない。
「あっち、いい波立ってたよ。せっかくだし、楽しも?」
「おぅ」

二人でコテージのほうにボードを取りに連なって歩く。
鮮やかな緑で覆われた小道を抜けていく。
早紀の華奢な後姿に目を奪われた。
全然イケてるじゃん。男ほっとかないだろう?
俺なんかに捕らわれてちゃ、もったいないじゃん。
——“ちゃんと、ケンちゃんだけを見てくれる子がいるわよ”
アッコの声がよぎる。
あの人、全部わかってたのか。
それでも——
あんなアッコでさえ、うまくいかなくなったりする。
絡まるもんなんだな、こういうの。
結局さ。
大事なのは——今、どう思ってるかだろ。
「どうしたの?ケンちゃん」
立ち止まった俺を早紀が振り返る。
お前、たいした奴だよ。
“守ってあげる”なんてさ。
あれ、効いた。
俺、落ちたわ。
人生って何が起きるかわかんない。
さっきまでアッコに惚れてたのに、今はこいつに惹かれているなんて。
やっぱり俺、軽いのかな?
でも、胸が痛い。
アッコの時と変わらないくらい、締め付けられるように切なくて。
だけど大きく違うのは、愛されているって心地良さが俺をこんなにも優しく包んでくれている。
今度は俺が守りたいなんて、これってさ、結構ヘビーだよね?
「行こうぜ」
早紀を、視線で促す。
小道の向こうに、白い波が覗いている。
島のビーチの一角にあるロヒスと呼ばれるサーフスポット。
ゆっくり押し寄せてくるメロウな波が、アクションの練習にはもってこいだ。
パドルアウトして波を待つ。
ゆらゆらと浮かびながら周りを見渡してみた。
自分の身体を包む水の透明度に気付き息を呑む。
海面には揺らめきながら映る空模様。
体の奥底から押し寄せてくる懐かしさは、遺伝子に刻まれた海の記憶なのだろうか。
不思議な程に、この場所が愛しい。

少し遅れて早紀がパドリングしてくるのが見える。
迎えるように俺は早紀の方に近づいていった。
濡れた髪が頬に張りついている。
指でそっと、払ってやる。
「お前はさ、そのままでいいから」
「えっ?」
「誰かみたいにならなくていい。早紀は、早紀のままでいい」
嬉しそうに、小さく早紀は頷いた。俺のそんなひと言で、幸せそうな顔をする仕草がさ……可愛いんじゃない?
今更気付くなんて、随分回り道しちゃったのな。
でも、いいか。
だからこそ価値がわかるってもんだ。
唇を重ねようと顔を寄せたら、波に揺られておでこがぶつかった。
「いた~い、ケンちゃん、大丈夫?ふらふらしてるよ」
何をしようとしたのか、全然わかってないみたいだ。
おっと、結構でかいのが来ましたよ。
「岸で待ってるからな」
そう言葉を残すと、俺は波を追いかけた。
追いつけ追いつけ。
掴まえるんだ。自分の力で。
アッコも再びこの海を抱きしめる為に、あの男を追いかけたのだろうか。
振り切るよ、俺。
心残りは男らしくないからさ。
テイクオフ。ふわりと体が浮く。
あおいゼリーのような波の表面を切り裂き、マニューバーを描きながらボードを滑らせる。
跳ね上がる水飛沫が光を弾いて輝いている。お天気雨のシャワーを浴びているみたいだ。
最高っ
早紀が追いついたら、さっきのキスの続きをしよう。
今度は狙いを定めて唇に……
きっと南の島の香りがするんだろうな。
こんなに待たせちまったんだ。
この島のようなスペシャルなキスを捧げなくちゃ。
魅惑的にどこまでも甘い口付け。
もっともっと俺に溺れて、抜け出せないほどに酔わせる為に。
おっと、オサムお兄様にご挨拶しなくちゃな。
あいつ、どんな顔するんだろう。
その時の奴の顔を思い描くと、抑え切れない笑いが零れた。
(END)





小説の舞台/モルディブの島:ロヒフシ
写真提供:『閑人の粒焼』
🔶アッコ視点🔶はこちら ↓ ↓
もうアッコ視点読んだよって方
🔷日本に置いてきた鉄男の彼女視点🔷
●どこか一つでも心に残るものがあれば嬉しいです。
●同じ世界観の短編をこれからも投稿していきます。魅惑の疑似バカンスを お楽しみください。
●昔書いた小説ですので、現在は島がリニューアルして名前が変わっていることがあります。
●モルディブを知らない方でも問題なく楽しんでいただけるかと思います。モルディブは1島=1リゾートホテルが基本です。小説も1島ごとに描いていきます。
●南の島にこだわらない物語や日本文化を考察したエッセイも綴っています。
★フォローやご感想などお気軽にどうぞ。励みにします。
この小説の冒頭のレゲエクラブのバーテンダーのイメージになっていただいた「るみるみさま」が、小説のイメージから曲を作ってくださいました。
レゲエのリズムが素敵。
✨ぜひお聴きくださいませ。
