火星——赤い地平の向こう(15):第3章 火星の基礎的性質と地球アナロジー(2)
3.4 水循環の崩壊——液体の水が消えた理由
水は、生命の必須条件である。地球には膨大な量の水がある。海洋の水は約13.8億立方キロメートル。地球表面の約71パーセントを覆っている。
火星にも、水はある。しかし液体の水は、現在の火星表面には安定して存在しない。
なぜか。それは気圧と温度の問題である。
水の三重点——液体として存在できない境界
水が液体として存在できる条件は、温度と圧力の相図(フェーズダイアグラム)によって決まる。水の三重点——固体、液体、気体の三つの相が共存できる点——は、約0.01度、約0.6キロパスカルである。
火星の平均大気圧は約0.6キロパスカル。ちょうど水の三重点付近である。
これは何を意味するか。
水の相図を思い浮かべてみよう。横軸に温度、縦軸に圧力をとると、固体・液体・気体の領域が分かれる。三重点は、三つの領域が接する一点である。
地球の表面条件(平均約15度、約101キロパスカル)は、液体の領域の中心部にある。温度が変化しても、水は液体として存在し続ける余地が大きい。氷が融ければ水になり、水が温まれば蒸発する。この移行は段階的であり、液体の状態が安定して存在する。
火星の表面条件(平均約マイナス60度、約0.6キロパスカル)は、三重点の境界線上、あるいはそれ以下にある。液体として存在できる領域は、ほとんどない。
火星の気圧は常に水の沸点を下げ続けている。氷が融け始めた瞬間に、液体の状態を経ずに沸騰(昇華)が始まる。火星表面は、氷が溶けた瞬間に沸騰が始まるような過酷なバランスの上に成り立っている。
つまり、火星表面では、水は固体(氷)か気体(水蒸気)のどちらかしか安定して存在しえない。仮に氷が融解しても、すぐに蒸発してしまう。
さらに、火星の平均気温は約マイナス60度である。これは水が凍結する温度である。
火星の水——氷として存在する
それでも、火星には水がある。
極冠には水の氷とドライアイス(固体二酸化炭素)が堆積している。地下には永久凍土層が広がっていると考えられている。2008年に着陸したフェニックス探査機は、北極地域の地下数センチメートルの場所に氷を発見した。
しかし液体の水は、ほとんど存在しない。
例外的な液体の可能性
それでも、例外的に液体の水が一時的に存在する可能性はある。
第一に、低地の高い気圧
火星の低地——特にヘラス盆地のような深い盆地——では、大気圧が平均よりも高い。理論的には、この地域では短時間であれば液体の水が存在しうる。
第二に、ブライン(塩水)
塩分を含む水——ブライン(brine)——は、純水よりも低い温度で凍結する。過塩素酸塩を含む水は、マイナス70度でも液体のまま存在しうる。フェニックス探査機は、火星の土壌に約0.5パーセントという高濃度の過塩素酸塩が含まれていることを確認した。
第三に、夏季の赤道付近
夏季の赤道付近では、気温が一時的に0度を超えることがある。しかし大気圧が低いため、液体の水が安定して存在するのは困難である。
火星の斜面に見られるガリー(gully)や、Recurring Slope Lineae(RSL、繰り返し現れる斜面の筋)は、一時的に液体の水が流れた痕跡ではないかと考えられている。しかしその証拠は依然として議論の対象である。
水循環の崩壊
いずれにしても、火星には安定した水循環がない。地球のような、海洋→蒸発→降雨→河川→海洋という循環は、火星には存在しない。
地球の水循環は、気候を安定させる重要なフィードバック機構である。海洋は熱を蓄え、蒸発は大気を冷やし、降雨は地表を潤し、河川は物質を運ぶ。この循環が、地球の気候を数十億年にわたって安定させてきた。
火星には、かつて水循環があった。古河道、デルタ、湖の痕跡がそれを物語っている。ノアキアン期の火星には、河川が流れ、湖が存在し、デルタが形成された。
しかし現在、その循環は崩壊している。
大気圧が低下し、水の三重点を下回った時点で、火星の水循環は終わった。液体の水は蒸発し、あるいは凍結し、地下に閉じ込められた。河川は干上がり、湖は消失した。
火星は、水の惑星から、氷の惑星へと変わった。
そしてその変化は、不可逆である。一度失われた大気圧は、戻らない。火星の水循環が再び機能することは、自然には起こりえない。
3.5 気候システムの単純性——フィードバックの欠如
地球の気候は複雑である。海洋、大気、氷床、植生、そしてプレートテクトニクスが相互に作用し、気候を調整している。
特に重要なのが炭素循環である。大気中の二酸化炭素は、海洋に溶け込み、炭酸カルシウムとして堆積する。プレートテクトニクスにより、この炭酸塩は地下深くに沈み込み、火山活動によって再び大気中に放出される。このサイクルにより、地球の二酸化炭素濃度は長期的に安定している。
火星には、このようなフィードバック機構がない。
火星にも季節変動はある。火星の自転軸の傾き(約25度)は地球(約23.5度)とほぼ同じであり、そのため火星にも四季がある。冬季には極冠が成長し、夏季には縮小する。これは二酸化炭素が凍結・昇華するサイクルである。
火星にも砂嵐がある。時には全球的な砂嵐が発生し、火星全体が砂塵に覆われることがある。2018年には大規模な砂嵐が発生し、オポチュニティのソーラーパネルが砂塵に覆われ、通信が途絶えた。
だがこれらの現象は、単純な季節サイクルに過ぎない。地球のような複雑なフィードバック系——温暖化すれば雲が増えて日射を遮り、冷却が進めば氷床が縮小して吸収が増える——は、火星にはない。
火星の気候は、地球の気候の複雑系に比べれば、単純系である。
(2026.3.6 公開)
