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「共同注意」が“できる/できない”に回収されるとき──エージェンシャル・リアリズム/ポストヒューマニズムで読み直す

共同注意は、特別支援教育の現場や研究において「重要な力」として語られてきました。
視線が合う、指さしができる、同じ対象に注意を向けられる。こうした出来事には、たしかに「つながり」の手応えがあります。

一方で、共同注意を「個人の能力」として扱う枠組みを採用すると、見えにくくなる事柄も少なくありません。ここでは、エージェンシャル・リアリズムおよびポストヒューマニズムの観点から、共同注意をめぐる問題点(=問い直すべき前提)を整理します。


共同注意が「できる/できない」に回収されやすい


共同注意は、評価や発達指標として扱いやすい概念です。そのため、次のような構図が生じやすくなります。
• 共同注意が弱い=その子どもの課題
• 共同注意を育てる=支援の目標
• 共同注意ができた=成果

しかし、エージェンシャル・リアリズム(Barad)の観点からは、共同注意は「個人の内側に備わる能力」というよりも、人・物・空間・時間・規範・課題・言語などが絡み合って立ち上がる現象(phenomenon)として捉え直すことができます。
この立場に立てば、「共同注意が成立しない」ことは、子どもの内部要因に回収される前に、成立しにくい配置(装置)が組まれている可能性として検討されるべきだと言えます。


「注意は心の中にある」という前提が強い


共同注意はしばしば、「相手の心を読む」「心的状態を共有する」といった枠組みで説明されます。
しかし、注意は本当に「心の中」だけにあるのでしょうか。

教室での注意は、視線だけで動くわけではありません。椅子の高さ、窓の光、廊下の音、教材の触り心地、周囲の人の動き、時間割の圧力など、物質的・環境的条件によって、身体は常に引き寄せられたり、押し戻されたりしています。

ポストヒューマニズムの観点からは、注意は「脳内のスポットライト」ではなく、場に分配され、組織化される過程として捉えられます。
したがって共同注意も、内面の共有というより、注意が場の中で編成される出来事として再記述できると考えられます。


共同注意の「正解」規範が強すぎる(視線・指さし中心)


共同注意は、「視線追従」「指さし」「同じ対象を見る」など、特定の様式を中心に定義されることが多い概念です。
しかし、その定義自体が、共同性の多様な形を狭めてしまうおそれがあります。

例えば、同じ対象を「見る」ことが難しくても、同じ対象を
• 「聴く」ことで共有する
• 「触る」ことで確かめ合う
• 「一緒に動かす/作る」ことでつながる

といった共同性が成立する場面はあります。
視線・指さしのみを「正しい共同注意」とみなすと、こうした別様式の共同性は最初から評価の外に置かれ、結果として多数派様式への同化圧にもつながり得ます。


共同注意を「二者関係」に閉じると、非人間の役割が消える


共同注意は「子ども―大人」の二者の相互作用として描かれがちです。
しかし実際には、共同注意の成立/不成立には多くの非人間的要素が関与しています。
• 教材の配置
• 机と椅子の距離
• 照明・音・匂い
• 出入口の位置
• 他児の動線
• 授業のテンポ、時間の区切り

エージェンシャル・リアリズムは、これらを背景ではなく、出来事に参与して差異を生み出す要素として扱います。
そのため共同注意の困難は、「関係づくりの技術」や「子どもの特性」だけの問題としてではなく、物質‐言説的な編成(配置)の問題として検討することが可能になります。


評価や測定は「中立」ではなく、現象の境界を作る


共同注意研究では、課題・手続き・採点基準によって現象が切り出されます。
バラッドの立場に沿えば、観察や測定は対象を「写し取る」のではなく、何を共同注意とみなすかという境界を生産し、現象を成立させる働きも持ちます。

たとえば、共同注意を「同じ対象を見ること」と定義した瞬間に、
「同じ対象を聴く」「触る」「作る」といった共同性は、共同注意ではないものとして排除されます。
この意味で、評価は共同注意の“現実”をつくる装置でもあります。


「共同注意=善」という価値づけが、自己調整を見えにくくする


共同注意を「よいもの」として強く価値づけると、別の困難が生じる場合があります。
注目されること、見られること、同調することが過負荷となり得る子どもにとって、回避や遮断は「問題」ではなく身体を守る自己調整として機能している可能性があります。

ポストヒューマニズムの観点では、共同性は「同じになる」ことではなく、差異を保ったまま連結することとしても捉えられます。
そのため、共同注意を一律に増やすことよりも、どのような条件で、どのような共同性が、どのような代償とともに成立しているのかを問う必要があると考えられます。


実践への言い換え(問いの転換)


上記の論点は、実践場面では次のような問いに言い換えられます。
• 「この子どもは共同注意が弱いか」ではなく
「この配置は共同注意(あるいは別様式の共同性)が生まれやすいか」
• 「視線・指さしを増やす」ではなく
「モノ/音/距離/時間の設計で、共有が立ち上がるか」
• 「成立したかどうか」ではなく
「どんな共同性が、どの条件で、どんな代償を伴って成立したか」

共同注意は、能力の話として閉じるだけでなく、場がどのように編成され、何が何を動かしているのかを検討する入口にもなり得ます。

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