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奈良国立博物館「神仏の山 吉野・大峯―蔵王権現に捧げた祈りと美―」大峯山寺本堂の秘仏本尊×蔵王権現計32体集合

国宝16件、重要文化財38件を含む計167件を展示。女人禁制の山上ヶ岳山頂に立つ大峯山寺本堂の秘仏本尊と、「蔵王権現立像」5体が一堂に並び、計32体の蔵王権現部屋で不思議体験??

「図録3,400円、高いな……」そう思っていた。なのに展示室を出る頃、私は迷わずレジに立っていた。奈良国立博物館の特別展「神仏の山 吉野・大峯」。そこには理屈を黙らせる「祈りの熱量」が充満していた。

目玉は女人禁制の山上ヶ岳から下りてきた大峯山寺の秘仏本尊と、32体の蔵王権現がひしめく異界のような空間。だが、真に心を奪われたのは、如意輪寺の秘仏本尊・如意輪観音坐像だ。泉涌寺の楊貴妃観音を彷彿とさせる妖艶なまでの優美さ。その頬杖をつく「思惟」のポーズには、衆生を救おうとする深い慈悲と、職人の執念が木を仏へと変えた鎌倉木彫の精華が宿っていた。

京都から熊野を目指して吉野、大峯、そして熊野本宮大社には権威・権力者が足を運び宝物がこれでもかと集まる場所である。

1000年前の権力者たちが命懸けで目指した聖地の空気。仏像好きなら魂を抜かれるラインナップをレポートする。

金峯山における蔵王権現信仰の中心には山上・山下ふたつの蔵王堂、すなわち標高1719メートルの山上ヶ岳山頂に建つ山上蔵王堂(大峯山寺)と、下山蔵王堂(金峯山寺)があり、大峯山寺の本堂内陣には独尊の蔵王権現が、金峯山寺蔵王堂には三尊像がそれぞれ秘仏本尊として安置されています。大峯山寺の秘仏本尊は本堂安置の5軀の蔵王権現像とともにはるばる山を下り、寺外初公開されます(1軀をのぞく)。秘仏本尊の生気に富んだ姿は数ある蔵王権現像のなかでも随一のもので、制作事情は不詳ながら特別な由緒をそなえた像であることを想像させます。

まずはCMです!!(特別展「神仏の山 吉野・大峯―蔵王権現に捧げた祈りと美―」

更新履歴


▼公式/メディア情報


〇NHK大河ドラマ「#光る君へ」で #藤原道長 役をされた #柄本佑 さん

▼展示会の概要

神々や仙人が住まう、神秘的で謎めいた場所として崇められてきた吉野。吉野から和歌山の熊野へと至る大峯の険しい山々は、山岳修行はじまりの地とされ、古来人々は特別な力や悟りを得ようと大自然の中に身を投じてきました。とくに吉野から大峯の山上ヶ岳は、金を秘める霊山「金峯山」と呼ばれ、平安時代には藤原道長ら都の貴族や天皇がこぞって参詣しました。さらに南北朝時代になると後醍醐天皇が山内に政治の拠点を置いたように、各時代を通じて特別な場所でありつづけました。  近年、道長が自ら書写して金峯山に埋納した紺紙金字経の断簡が金峯山寺で大量に発見され、大きな注目を集めました。1000年以上も前に、道長が金峯山独自の尊格・蔵王権現に捧げたというこの経巻を本来の姿に復元すべく、目下保存修理が進められています。  本展では、道長自筆の国宝・紺紙金字経を修理後初公開するとともに、山岳修行の祖・役行者像や蔵王権現像、曼荼羅や鏡像、人々が祈りを捧げた神像や仏像など、自然と神仏への信仰が一体となって生み出されたこの地域ならではの宝物を一堂に展観します。  山が連なる大自然、そこに神と仏が宿り、やがては修験道の聖地、誠に桜の名所ともなった吉野・大峯。本展はその歴史と魅力を余すところなくご紹介する展覧会です。

https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/202604_yoshino/

第一章:伝説の地 吉野の役行者と蔵王権現に出会う

吉野・大峯に集った人々は、雄大な自然のなかで神仏にまみえることを切に願いました。本章では修験道の聖地・大峯山寺の秘仏本尊を含む蔵王権現像を寺外初公開するとともに、山岳修行の祖・役行者をご紹介します。さらに会場では、VR映像を駆使して金峯山寺蔵王堂の秘仏本尊蔵王権現像を大型スクリーンに再現し、その圧倒的な迫力を体感していただきます。

みどころ/特別展「神仏の山 吉野・大峯 ―蔵王権現に捧げた祈りと美―」

初めからパワー全開ですね。これでもかとる畳み掛けてくる役行者×前鬼・後鬼、そして蔵王権現!!

第二章:金峯山をめざして-藤原道長埋経-

平安時代になると大峯は、弥勒が出現するまで金を秘める山「金峯山」と呼ばれるようになりました。時の権力者・藤原道長とそのひ孫・師通は、多くの臣下とともに金峯山に参詣し、自筆の紺紙金字経を埋納することで弥勒の世まで仏法を伝えたいと願いました。本章では、近年金峯山寺で発見された道長・師通自筆の紺紙金字経(国宝)全18巻を修理後初公開し、彼らが山上に託した祈りを紐解いていきます。

みどころ/特別展「神仏の山 吉野・大峯 ―蔵王権現に捧げた祈りと美―」

第三章:ひろがる信仰世界-修験者・縁起・曼荼羅-

金峯山や熊野への参詣が盛んになるにつれて、吉野と熊野を結ぶ大峯の参詣道が整備され、聖地の由緒を伝える縁起物語が人々の間に広まっていきました。山は仏の世界に見立てられ、桜の歌人・西行をはじめ多くの人々が神仏にまみえたいと大峯に分け入りました。本章では、吉野に伝わる神像・仏像や、山の神仏を描いた曼荼羅を一堂に集め、参詣者が山中で感じた豊かで濃密な神仏の世界をご覧いただきます。

みどころ/特別展「神仏の山 吉野・大峯 ―蔵王権現に捧げた祈りと美―」

吉野から大峰へ、そして熊野へ!!

第四章:後醍醐天皇 吉野へ―山上の新政権-

吉野に南朝を開いた後醍醐天皇は、蔵王権現に国家の安泰を願って祈りを捧げながら、この地で晩年を過ごしました。本章では、後醍醐天皇陵を守る如意輪寺の秘仏本尊如意輪観音像を寺外初公開するとともに、南北朝時代の吉野を象徴する金峯山寺仁王門および巨大な金剛力士像の造立について紹介し、新政権を擁した吉野の信仰に光をあてます。

みどころ/特別展「神仏の山 吉野・大峯 ―蔵王権現に捧げた祈りと美―」

権威・権力の場所には国宝・重文、いや畏れ多くて国宝・重文にもなっていないが日本を歴史を背負った仏像や宝物がある。

第五章:豊臣秀吉 華の宴

神木の桜花に詠う 蔵王権現の神木と伝えられる桜は吉野にとって特別な存在ですが、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は文禄3年(1594)に徳川家康や伊達政宗をしたがえて吉野を舞台に盛大な花見を行いました。本章では、現代の花見にもつながる華やかな宴を彷彿とさせる品々をご覧いただくとともに、豊臣秀長や秀頼による堂塔の再興についてもご紹介いたします。

みどころ/特別展「神仏の山 吉野・大峯 ―蔵王権現に捧げた祈りと美―」

第六章:近世・近代の吉野と奈良

近世には、民衆も大峯に参詣して日々の暮らしの安寧を祈りました。本章では奈良の餅飯殿町に伝わる山上講の資料などを通じて、奈良の町と吉野との深い関わりをご紹介します。さらに吉野では、明治時代の廃仏毀釈を乗り越えた数多くの仏像が大正時代まで守られていました。それらの保護に心を砕いた人々の想いも交えながら、かつて吉野に伝わったゆかりの仏像をご覧いただきます。

みどころ/特別展「神仏の山 吉野・大峯 ―蔵王権現に捧げた祈りと美―」

〇予備知識

→吉野と大峯
吉野と大峯は修験道の聖地であり、吉野山の金峯山寺を中心に蔵王権現信仰が展開し、大峯山は山岳修行の根本道場として発展した。役行者による開山伝承を持ち、自然そのものを神仏とみなす山岳信仰と仏教が融合した聖域である。両者は一体の霊場として熊野と連動し、近世まで厳しい入峰修行が続いた。

→蔵王権現
蔵王権現は吉野山において祀られる修験道の本尊で、釈迦・弥勒・観音の三尊が一体となった忿怒相の仮現神。山岳修行者を救済し、現世利益と滅罪成就をもたらすとされる日本独自の神仏習合の象徴である。

→役行者と前鬼・後鬼
役行者は修験道の開祖とされ、吉野・大峯を中心に山岳修行を体系化したと伝わる人物。彼に従った前鬼・後鬼は鬼神の夫婦とされ、大峯山中で行者を支え、宿泊や修行の補佐を担った存在として信仰される。役行者は賀茂氏であることを記しておく。

〇グッズ

一回500円のピンバッジガチャガチャ
一回500円のピンバッジガチャガチャ

『「ゴンげんくん」マスコットキーホルダー』は600個限定で、一人3個までです。私が行ったときは買っている人はいなかったです。。

繰り返しになりますが、図録が3200円もします。買わないことを決めていましたが、買ってしまいました。

本展に出品される吉野・大峯地域のゆかりの宝物167件をフルカラーで紹介。藤原道長・師通筆の国宝・紺紙金字経の修理後の姿を20ページ近くのボリュームで掲載するとともに、山岳修行の祖・役行者像や蔵王権現像、曼荼羅や鏡像、人々が祈りを捧げた神像や仏像など、自然と神仏への信仰が一体となって生み出された吉野・大峯地域ならではの宝物をかつてない規模で収録しています。多彩なコラムや論文に加え、古写真、関連年表、寺社紹介などの資料も充実した、またとない1冊です。

▼展示の感想と解説

仏像については「★」の数でお気に入り度を示します。仏像以外も気に入った&見入ったものだけ「★」をつけます。では神社仏閣ごとに「展示番号:展示名:オススメ度」で紹介と感想を書いていきます。

海外:アメリカ: #ロサンゼルスカウンティ美術館 (LACMA)

167:蔵王権現立像:鎌倉時代(13世紀):★★★★★

現在は海の向こうロサンゼルスに鎮座する「蔵王権現立像」は、日本独自の修験道の熱気を今に伝える傑作です。ここのみ写真OKです。

右足を高く上げ、憤怒の表情を浮かべるその姿は、吉野の峻険な岩場から今まさに飛び出してきたかのような躍動感に満ちています。鎌倉彫刻らしい力強い筋肉の表現と、鋭い眼光は、数百年経った今もなお見る者を圧倒する気迫を失っていません。

かつて吉野の深い霧の中で修行者たちが仰ぎ見たであろうこの守護神が、現代のカリフォルニアの光の下で何を語りかけるのか。故郷を離れてもなお、邪悪を退け、衆生を救おうとする力強い「意志」は、時代や国境を越えて人々の魂を揺さぶり続けています。


奈良県:#金峯山寺

2:前鬼坐像・後鬼坐像:鎌倉時代(13世紀):★★★★★

鎌倉時代の造形美が光る前鬼・後鬼坐像。金峯山寺の守護神としての威厳と、修行を支える力強さが伝わります。ギュッと寄った目は、まるで興福寺の龍燈鬼のようで「慶派だろう!」と思わせる迫力があります。筋骨隆々とした体躯と鋭い眼光は13世紀の仏師の技術を物語り、静寂の中に凄まじい生命力を感じさせます。鎌倉時代の前鬼・後鬼は珍しい。

9:金銅三昧耶五鈷鈴@重文:平安時代(12世紀)

鈴の肩の部分に、五鈷杵や三鈷杵といった法具の形を象った「三昧耶形(さんまやぎょう)」が表されているのが特徴で、その繊細な装飾からは当時の密教儀礼の華やかさが伝わります。

10:金銅装笈@重文:室町時代(15世紀):★★★☆☆

修験者が背に負って経典や仏具、衣類などを運ぶための戸棚のような道具です。木製の本体に丁寧な金銅の金具装飾が施されています。実用具でありながら、聖地を歩く修行者のための「動く祭壇」とも呼べるような、工芸品としての格式の高さを備えています。長年、険しい大峯の山々で実際に使用されてきたためか、使い込まれた質感の中にも、当時の山岳信仰の熱気と造形美が凝縮されている逸品です。

次の写真が似ていますね。

31:釈迦如来坐像:平安時代(10世紀):★★★☆☆

像高約50cmの小像ながら、厚みのある体躯と柔和な表情を備えた一木造の釈迦如来坐像である。古様な量感を残しつつ、穏やかで親しみやすい面貌には、天平彫刻から和様へと移行していく平安時代の造形的特徴がよく表れている。

特に注目されるのはその顔立ちで、大ぶりな目と通った鼻筋が印象的で、ダウンタイム中ですか?と思わせる。下から見上げるとまた違う印象を受けるのも面白い。地方仏師らしい素朴さと同時に強い存在感を放っている。整いすぎない造形が、かえって人間味や親近感を生み出しており、この像の大きな魅力となっている。

本像は金峯山寺の草創伝承を伝える『金峯山創草記』とも関わる重要な尊像と考えられ、単なる仏像を超えて寺の起源そのものに触れる存在である。現在は三重塔に安置され、山内の信仰空間の中で静かに祀られている。

蔵王権現を中心とする修験の山にあって、釈迦如来という存在はむしろ異質であり、吉野の信仰が古くから多層的であったことを物語る貴重な作例である。

41:線刻蔵王権現鏡像@重文(金峯山経塚出土):平安時代(11~12世紀)

金峯山寺の「線刻蔵王権現鏡像」は、道長も詣でた経塚から出土した平安時代の逸品。鏡面に鋭い線で刻まれた蔵王権現は、右足を高く上げ三鈷杵を掲げる躍動感に満ちています。細い線ながらも力強く、末法思想が広まる中で「未来に仏法を伝えたい」と願った当時の人々の熱烈な信仰心が、清浄な鏡に凝縮されています。

50:紺紙金字法華経・観普賢経(金峯山経塚出土) 藤原道長筆@国宝:平安時代 長保4年(998)/51:紺紙金字阿弥陀経(金峯山経塚出土) 藤原道長筆@国宝:平安時代 寛弘4年(1007):★★★★☆

平安時代の権力者・藤原道長が自ら筆を執った極めて貴重な国宝です。長保4年(998年)、道長が30代半ばの頃に書写されたもので、深い紺色の紙に金泥で端正に記された文字からは、彼の並々ならぬ信仰心と、一族の繁栄を願う執念のような力強さが伝わってきます。1000年以上の時を超え、金峯山経塚の厳しい環境下で守られてきたこの経巻は、保存修理を経て当時の輝きを取り戻しました。

違う展示会の動画ですか参考にどうぞ!

52:紺紙金字法華経・無量義経・観普賢経(金峯山経塚出土) #藤原師通 筆@国宝:平安時代 寛治2年(1088):★★★★☆

藤原道長のひ孫にあたる関白・藤原師通が自ら書き写した国宝です。寛治2年(1088年)、師通が27歳の時に金峯山へ参詣し、曾祖父・道長の経塚の傍らに埋納しました。深い紺色の紙に、金泥で一字一字丁寧に記された文字は、道長の奔放な筆致に比べると端正で真面目な性格がにじみ出ているようです。道長から三代を経てなお、一族の繁栄と仏法への帰依、そして「末法の世に経典を遺す」という強い意志が継承されていたことを物語る、歴史的にも美術的にも極めて価値の高い至宝です。

57:金銀鍍双鳥宝相華文経箱(金峯山経塚出土)@国宝:平安時代(11~12世紀)/58:金銅鷺脚台付経箱(金峯山経塚出土)@国宝:平安時代(11~12世紀)/59:金銅猫脚台付経箱(金峯山経塚出土)@重文:平安時代(11~12世紀)

割愛です。

76:金峯山創草記:室町時代(15~16世紀)

吉野の開山伝承や修験道の歴史を記した室町時代の貴重な記録です。役行者による蔵王権現の感得や、聖宝による再興など、聖地吉野の成り立ちが詳述されています。史実と伝説が織り交ざった内容は、当時の人々が抱いた山岳信仰の姿を今に伝える一級の歴史資料であり、吉野のアイデンティティを紐解く鍵となる一冊です。

80:吉野曼荼羅:鎌倉時代(14世紀)/83:吉野曼荼羅:室町時代(15世紀)

※後述する西大寺のところで詳細を書きます。

113:役行者前鬼後鬼, 八大童子像:室町時代(15世紀)

後述する西大寺の「112:役行者前鬼後鬼, 八大童子像」で記載します。クリソツです。

116&117:聖徳太子および二童子立像@重文:鎌倉時代 文永11年(1274)/聖徳太子立像像内納入品@重文:鎌倉時代(13世紀):★★★★★

金峯山寺の象徴である蔵王堂の後陣に安置されている。
中央に立つ聖徳太子は、父である用明天皇の病気平癒を祈る「十六歳(孝養太子)」の姿で表されています。当時、全国的に太子信仰が高まりを見せる中、山岳信仰の拠点である吉野にもその影響が深く及んでいたことを示す象徴的な遺例です。鎌倉時代らしい写実的な造形美が随所に光り、特に玉眼を用いた鋭くも慈愛に満ちた眼差しは、見る者を射すくめるような圧倒的な存在感を放っています。奈良・元興寺に伝わる聖徳太子像(極楽坊旧蔵)と同様の構成ですが、その作風には明確な違いが見て取れます。

本像の特筆すべき点は、脇侍として太子の長子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)と、異母弟の殖栗王(えぐりおう)を従えていることです。

元興寺像が、西大寺の叡尊と深く関わった仏師・善春による端正で理知的な表現であるのに対し、金峯山寺像はより動的で力強い実在感を備えています。そのため、本作の作者については、運慶の流れを汲む慶派であり、当時奈良を中心に活躍した康円、あるいはその周辺の慶派仏師とする説が有力視されています。

最後に、聖徳太子像は正面を向いていますが、台座は斜めになっているのは隠れビューポイントで想像を掻き立てます。

119:千手千眼観音像@重文:鎌倉時代(13世紀)

割愛です。

121:両界曼荼羅(平安時代(12世紀))

金剛界式と胎蔵界式の2つだが、国宝展なに来た人は通り過ぎるかと思います。

132:金峯山秘密伝:南北朝時代(14世紀)

南北朝時代の激動期に記された「金峯山秘密伝」は、吉野の修験道における奥義や伝承を体系化した貴重な文献です。政治的・宗教的拠点としての重要性が高まる中、独自の信仰世界を確立しようとした当時の執念が伺えます。聖地が守り抜いてきた神秘性を文字に封じ込めた、吉野の精神史を語る上で欠かせない一冊です。

136:仁王門風鐸@国宝:室町時代 康正2年(1456)

金峯山寺の国宝・仁王門を彩る「風鐸(ふうたく)」は、室町時代の康正2年(1456年)の銘を持つ貴重な金工品です。魔除けとして軒に吊るされ、その重厚な造りと古色を帯びた佇まいは、中世吉野の建築様式を今に伝えています。

137:金剛力士立像および像内納入品@重文:南北朝時代 延元4年(1339):★★★★☆☆

金峯山寺仁王門に立つ国宝「金剛力士立像」は、南北朝時代の延元4年に造立された、国内屈指の巨像です。その圧倒的な筋肉の躍動と憤怒の形相は、戦乱の世を力強く生き抜こうとした当時のエネルギーを象徴しています。

胎内から見つかった膨大な納入品には、この巨像造立に結縁した人々の切実な祈りが封じ込められており、外側の力強さと内側の繊細な信仰心が一体となった、吉野を代表する傑作です。

仁王門が修復に入っており、ここ数年は仏像館にいます。そろそろ帰るのではないのでしょうか?写真OKです。

138:薬師如来坐像@康成作:南北朝時代 文和2年(1353):★★★☆☆

金峯山寺に伝わる「薬師如来坐像」は、南北朝時代の文和2年(1353年)に造立され、歴史の荒波を見守ってきた仏様です。かつては吉野山の「峯の薬師堂」に安置されていた。

胎内の墨書から、作者は大仏師・康成(こうせい)であることが判明しています。康成は、先述の如意輪寺本尊の作者候補とされる康俊の息子であり、高野山・金剛峯寺の巨大な金剛力士像をも手掛けた仏師です。

151:蔵王堂風鐸:安土桃山時代 慶長2年(1597)

1597年という年は、豊臣秀吉による蔵王堂再興が完了した時期と重なります。この風鐸の堂々たる造りからは、安土桃山時代特有のダイナミックで華やかなエネルギーが伝わってきます。風鐸は、その音色によって魔を払い、聖域を清める役割を持っています。

オマケ:内覧会と金峯山寺による法要

一方、寺でも御開帳です!!私は吉野の宿に宿泊限定の夜間拝観と昼は意見もしています。

→私のNOTE:世界遺産!吉野ブラリ「金峯山寺」必見の蛙飛行事!修験道!蔵王権現!【吉野シリーズ】|やんまあ


奈良県:#大峯山寺

秘仏本尊を含む蔵王権現像を寺外初公開!!しかし大変だ~。ある意味、仏像を山から下ろした物流の方々が修験道の山伏に見える。

https://x.com/narahaku_PR/status/1974021611398308163

32:秘仏本尊「蔵王権現立像」:平安~鎌倉時代(12~13世紀):★★★★☆

大峯山寺(大峯山頂)に伝わる本像は、標高約1700メートルという過酷な聖地に祀られてきた、平安末~鎌倉期の代表作である。さらに本堂の秘仏本尊として守り伝えられてきた点も、この像の特別性を際立たせている。

蔵王権現は、釈迦・千手観音・弥勒という三尊が衆生救済のために憤怒の姿で現れた存在とされる。その姿は、右足を高く跳ね上げ、三鈷杵を振りかざすという極めてダイナミックなもので、山岳信仰の峻厳さをそのまま体現している。特に、こぶしを握りしめる左腕の表現は珍しく、単なる威嚇ではなく、内に力を凝縮したような緊張感を生み出している。

33&34:蔵王権現立像×31体◆蔵王権現立像:平安~鎌倉時代(12~13世紀)◆蔵王権現立像:平安~鎌倉時代(12~13世紀):★★★★☆

小さいながらも存在感がある5体とガラスケースに守られている26体の蔵王権現のコーナーは圧巻である。まずは、その雰囲気が分かる写真をどうぞ。 人が背負い山から下ろしたといい、奈良国立博物館が保管するそのほかの蔵王権現像とあわせて、32体が約40年ぶりに一堂に会します。

32の本尊の様式・形式を護りつつ左腕はピースサインである計31体の蔵王権現祭りとなっている。同時に蔵王権現の専門仏師がいたのではないかと思っていたが、表情や技術も異なるようでそうではないようだ。いや、蔵王権現仏像学校があったのか?もしくは、祈りを込めて権威・権力者、修験道が彫ったのか?

https://x.com/yoshino_omine/status/2015736313702654232

真ん中に5体の写真があります。


https://x.com/nara_cjr/status/2042407228154728742

35:如来坐像@重文(大峯山頂遺跡出土):平安時代(10~11世紀)/36:菩薩坐像@重文(大峯山頂遺跡出土):平安時代(10~11世紀):★★★★☆

大峯山頂遺跡から出土した小仏で、小さすぎるので老眼の方は厳しいかと思います。ただご安心を!拡大写真があります。

 最大の特徴は金90%という異例の高純度にある。通常の金銅仏とは異なり、ほぼ純金に近い素材で造られている点に、当時の信仰の格が表れている。朽ちない金で造られたこれらは、約千年後に出土し、当時の信仰の純度と実態を今に伝えている。

ということで、道長も吉野で地中に埋めたのは、昔からの流行だったんですね。

38:瑞花鴛鴦八稜鏡@重文(大峯山頂遺跡出土):平安時代(11~12世紀)

大峯山頂遺跡から出土したこの八稜鏡は、平安時代の洗練された美意識を象徴する工芸品です。瑞花とつがいの鴛鴦(おしどり)が精密に表されており、当時の貴族社会における浄土への憧れや現世安穏の祈りが反映されています。

39:蔵王権現鏡像@重文(大峯山頂遺跡出土):平安時代(12世紀)

平安の鏡に刻まれた蔵王権現は、力強い線刻から聖地の霊気が溢れ出すようです。円鏡という調和の形の中に、憤怒の形相が鋭く浮かび上がる様は圧巻。過酷な山頂に捧げられた祈りの深さが、金属の肌を通して時を超え、真っ直ぐに伝わってくる逸品です。

40:宝塔扉@重文(大峯山頂遺跡出土):平安時代(10~12世紀)

重厚な青銅の扉に刻まれた繊細な意匠は、かつて山頂にそびえた宝塔の荘厳さを今に伝えています。過酷な風雪に耐え、聖域の入り口を守り抜いた力強さと、平安の洗練された美意識が共存しており、扉の向こう側に広がる浄土を夢想させるような、神秘に満ちた遺物です。

43:蔵王権現像@重文:平安時代(11~12世紀)/44:蔵王権現像@重文:平安時代(11~12世紀)

平安末期の精神性が宿る二体の蔵王権現像は、小ぶりながらも聖地の峻厳さを凝縮したような迫力があります。跳ね上げた右足と憤怒の相には、風雪厳しい大峯山で培われた強靭な信仰心が漲っており、1000年の時を超えて見る者の心を射抜くような、鋭くも深い慈悲に満ちた傑作です。

47:中台八葉院曼荼羅鏡像@重文:平安時代(11~12世紀)/48:吉野曼荼羅懸仏:平安~鎌倉時代(12~13世紀)

割愛です。

158:阿弥陀如来坐像:江戸時代(17世紀):★★★☆☆

円空作の満月&ドラえもんと同じ丸顔でニッコニッコ~!!本堂の背後に安置されている。

円空は延宝3年(1675年)頃、大峯山に深く入り、厳しい「冬越し」の修行を行ったと伝えられています。雪に閉ざされた頂上の御堂で、彼は何を想いこの阿弥陀を彫ったのでしょうか。

奈良県: #吉水神社

1:役行者倚像および二鬼坐像:室町時代(15世紀):★★★★★

椅子に腰掛ける「倚像(いぞう)」形式の役行者は、深く刻まれた皺や鋭い眼光が、長年の厳しい修行を経て超常的な力を得た老仙の凄みをリアルに伝えています。

特筆すべきは、傍らに控える二鬼の存在です。斧を持つ前鬼と水瓶を持つ後鬼。かつて人々を苦しめていた鬼たちが、行者の徳に打たれて改心し、忠実な従者となったという伝説を視覚化したこの三尊形式は、修験道の教えそのものを表しています。特に玉眼に施された「赤目」の表現は、興福寺(私のNOTE)の龍燈鬼・天燈鬼(康弁作)などにも通じる、慶派特有の劇的な写実主義を彷彿とさせます。充血したかのようなその瞳は、行者の内なる憤怒と慈悲が混ざり合った、凄まじい「意志」を感じさせます。

写真は次の通り。

7:錫杖頭(伝役小角所持):鎌倉~室町時代(14~15世紀)

山々を渡り歩く修行者の足音と共に、幾度となく吉野の岩肌に響いたであろうその音を想像させます。力強い輪の造形は、邪気を払い、衆生を救済せんとする修験の峻厳な決意を体現しているようです。伝承という名の重みを纏い、今なお聖域の静寂を切り裂くような、鋭い霊気と威厳を放ち続けている名品です。

130:両界種子曼荼羅:南北朝時代(14世紀)/131:両界種子曼荼羅裏書:室町時代 明徳5年(1394)

仏の姿を排し、一文字の梵字にその本質を込めた表現は、見る者の想像力を極限まで高めます。裏書に刻まれた「明徳5年」という具体的な日付は、動乱の時代に生きた人々が、揺るぎない宇宙の秩序を求めてこの曼荼羅に向き合った切実な祈りの証です。抽象化された美の中に、時代を超えた精神の厚みを感じる逸品です。

133:能作性宝珠:年代不詳/134:金銅独鈷杵:平安時代(12世紀)/144:青磁牡丹唐草文大花瓶:中国・元(14世紀)

割愛。

→私のNOTE:世界遺産!桜の名所「吉水神社」最強の役行者三尊

奈良県:#櫻本坊

3:大峯八大童子立像:南北朝時代(14世紀):★★★★☆

吉野曼荼羅に描かれることがある八大童子。御課による煤で彩色がわからないが、専門家曰く残っているようだ。

お姿はこちら

蔵王権現の使者として大峯の山々を駆ける、生命力に満ちた群像です。南北朝時代らしい力強い造形が特徴で、童子の瑞々しさと神仏の威厳が共存しています。八体それぞれの個性豊かな表情や動的なポーズは、過酷な修行者を守護する頼もしさを感じさせ、今にも深い森から飛び出してきそうな臨場感に溢れています。

高野山の八大童子と比較したが、そもそも仏像名が違うことに気づく。八大童子特集しようかなとも。

大峯八大童子と高野山八大童子
高野山と吉野・大峯、それぞれの聖地で育まれた「八大童子」を比較すると、密教の洗練された理想美と、修験道の荒々しい野生味が鮮やかな対照をなしていることがわかります。

運慶の理想美:高野山
高野山の八大童子(国宝・運慶作)は、鎌倉初期の洗練された「写実と理想」の結晶です。不動明王の眷属として、静謐な伽藍の中で真理を守護する彼らは、あどけない肌の質感や理知的な表情を湛えており、どこか貴族的な気品を纏っています。それは、完成された教理の世界を体現する至高の芸術といえます。

修験の生命力:大峯
対して本展の大峯八大童子(南北朝時代)は、蔵王権現の使者として峻厳な山々を駆け巡る「野生と躍動」に満ちています。南北朝期特有の力強い造形は、修行者を守護し、時には鼓舞するような「現場の神仏」としての気迫を感じさせます。丸みを帯びた童子らしい姿の中に、鋭い眼光や筋肉の緊張感が共存する様は、まさに山岳信仰の熱気そのものです。

11:如来坐像@重文:飛鳥時代(7世紀):★★★☆☆

吉野山でも最古級の極めて貴重な金銅仏です。古代の微笑みが湛える「永遠の静寂」この像と対面してまず心打たれるのは、飛鳥仏特有の「アルカイック・スマイル」です。左右対称に近い幾何学的な衣のひだや、少し面長で理知的な表情は、仏教が日本に伝来して間もない時期の、清冽で純粋な信仰の形を今に伝えています。

標高の高い吉野の地で、1300年もの長きにわたって守り抜かれてきた事実に深い感慨を覚えます。金銅の肌は時を経て深い古色を帯びていますが、そのシルエットからは、大陸や朝鮮半島の文化を吸収しつつ、日本独自の美意識を芽生えさせた当時の息吹が鮮やかに感じ取れます。

46:蔵王権現鏡像:平安時代(12世紀)か

平安時代(12世紀)の「蔵王権現鏡像」は、円鏡の表面に鋭い線刻で御姿を刻んだ、山岳信仰の深化を物語る遺品です。

鏡という静謐な空間に浮かび上がる、躍動的な憤怒の相。末法思想の中で救済を求めた人々の切実な祈りが、一分の迷いもない細かな線に凝縮されています。

かつて大峯の頂に捧げられ、土中で長い眠りについていたこの鏡像。青錆の奥に秘められた眼光は、単なる美術品としての枠を超え、かつての修行者が鏡に映した「己の心の迷い」を今も静かに射抜いているようです。一千年前の祈りの熱量をそのまま封じ込めた、霊験あらたかな名品です。

78:大峯々中秘密絵巻 上巻・下巻:江戸時代 天明7年(1787)

割愛する。

115:大般若経:鎌倉時代 正応2年(1289)

割愛する。

120:不動明王二童子像:鎌倉時代(13世紀)/149:足付:室町時代(16世紀)/150:花文漆絵盆・花文漆絵菓子器・花文漆絵重箱:江戸時代(17~18世紀)

割愛です。

→私のNOTE:修験道「桜本坊」は吉野の仏像寺【吉野シリーズ】|やんまあ

奈良県: #竹林院

12:男神坐像(伝天武天皇):平安時代(12世紀):★★★★☆

元々は、前述の櫻本坊のもので、所在不明だったのだが、今回、見つかったようで・・・最近、この手の見つかった!特別展で公開!!!というムーブ多すぎる気がする。。

かつてこの地で夢を得て大海人皇子(天武天皇)が再起を誓ったという、吉野の伝説的な歴史の重みを静かに体現しているようです。神仏習合が進んだこの時代、実在の天皇が神格化され、信仰の対象として形作られた背景には、吉野という土地が持つ「聖域としての力」が大きく作用しています。木肌に刻まれた柔らかな曲線は、厳しい自然の中にありながら、どこか見る者を包み込むような抱擁力を湛えています。

82:吉野曼荼羅:安土桃山~江戸時代(16~17世紀)

※後述の西大寺を参照

96:熊野本地仏曼荼羅:南北朝時代(14世紀)

熊野三山の神々の正体とされる仏(本地仏)を描き、神仏習合の深淵を視覚化した名品です。画面に整然と並ぶ如来や菩薩の姿は、厳しい自然に宿る八百万の神々が、実は慈悲深い仏の化身であることを示しています。南北朝という動乱の時代、人々は神仏が一体となったこの曼荼羅に、迷いのない究極の救いを見出したのでしょう。

140:童形神坐像(伝聖徳太子):鎌倉~南北朝時代(14世紀):★★★☆☆

「童形神坐像」は、聖徳太子の幼少期の姿を写したと伝わる、気高くも愛らしい神像です。ぷっくりとした頬や結い上げた髪が、少年らしい瑞々しさを伝えています。しかし、その双眸に宿る理知的な輝きは、幼くして仏法を悟り、国の礎を築いた太子の非凡な精神性を鮮烈に物語っています。

https://x.com/yoshino_omine/status/2032428162358088023

160:吉野山二月会式正頭略縁起絵巻:江戸時代(18~19世紀)

割愛です。

→私のNOTE:奈良吉野「喜蔵院」蛙飛神事!大和三庭園「竹林院」【吉野シリーズ】|やんまあ

奈良県: #喜蔵院

喜蔵院(きぞういん)は、金峯山寺の塔頭の一つであり、古くから修験道の実践と拠点を支えてきた宿坊です。今回の展示では、修験道の開祖や吉野の信仰世界を象徴する、非常に密度の高い彫刻が選ばれています。

奈良県: #如意輪寺

70:蔵王権現立像@重文:鎌倉時代 嘉禄2年(1226)/71:厨子:鎌倉時代(13世紀):★★★★★

鎌倉時代、嘉禄2年(1226)に制作されたこの「蔵王権現立像」は、修験道の聖地・吉野を象徴する、圧倒的な破壊力と慈悲が共存した傑作です。仏師は源慶で、右足を高く上げ、右手の三鈷杵を振り上げたその姿は、まさに悪魔を退散させ、迷える衆生を断崖絶壁から引き上げようとする瞬間のエネルギーを凍結させたかのようです。

#源慶
東大寺南大門金剛力士像吽形像の納入文書中に大仏師湛慶に従う小仏師の筆頭として名が見え、また運慶が主宰した興福寺北円堂諸仏の造像では本尊の弥勒如来像の担当であったことが知られている慶派の仏師。

まずはお姿を『如意輪寺 - 吉野山観光協会【公式サイト】』でどうぞ。

特筆すべきは、逆立つ髪や見開かれた三つの目(三眼)が表現する「憤怒」の迫力です。青黒い肌(現在は古色)は、深い慈悲が転じて激しい怒りとなった証。吉野の険しい山々で修行に励む行者たちは、この像の前に立ち、己の弱さを打ち砕く勇気を得たのでしょう。800年前の造形とは思えないほど保存が良いのは、厨子に守られていたからだろう。

厨子の奥壁と扉には、吉野曼荼羅に描かれる吉野の神々がいる。天井も美しく模様が描かれているのが見える。扉の4面は四季を表し、また上部には色紙形を設けて文章が書かれているが、これは後醍醐天皇の書と伝える。

125:後醍醐天皇坐像:室町時代(15~16世紀):★★★☆☆

吉野を拠点に南朝を樹立した波乱の君主の姿を、静寂の中に写し取った貴重な彫像です。室町時代という、南北朝の合一を経てなおその余韻が残る時代に作られたこの像には、現世での王権復帰を夢見ながら吉野の地で没した帝の、深く、時に峻烈な精神性が刻まれているようです。

如意輪寺の宝物殿に安置されているこの坐像は、後醍醐天皇が崩御された後に、その遺徳を偲んで室町時代(15〜16世紀)に制作されたものです。

この像の最大の特徴は、天皇が自ら「この姿を刻め」と命じ、生前の姿を写したとされる伝承に基づいている点です。衣冠束帯を纏い、威厳に満ちたその表情は、単なる肖像彫刻を超えた、一種の執念に近い迫力を湛えています。特に、玉眼が嵌め込まれた眼差しは、崩御の地となった吉野から、最後まで夢に見た京の空を見据えているかのようです。

後醍醐天皇にとって、如意輪寺は生前にしばしば訪れ、至福の時を過ごした場所でした。像の傍らには、天皇が詠んだ「かへらじとかねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」という楠木正行の辞世の句が刻まれた扉も残り、南朝の悲運と武将たちの忠義が、この像を包む静寂の中に今も息づいています。

135:如意輪観音坐像:鎌倉時代 延慶3年(1310):★★★★★

如意輪寺の秘仏本尊であるこの像の前に立ったとき、誰もがまずその「類まれな優美さ」に心を奪われるでしょう。六本の腕を持ち、片膝を立てて頬杖をつく「思惟(しゆい)」のポーズは、如意輪観音特有の官能的なまでの美しさと、衆生をどのように救うべきかと思案する深い慈悲を、見事に融合させています。

一目見た瞬間に京都・泉涌寺の「楊貴妃観音」を彷彿とさせる、妖艶なまでの高貴さを漂わせています。

https://x.com/yoshino_omine/status/2026953289573789890

技法面では、繊細な切金と金泥塗りが多用されており、快慶が確立した華麗な様式美が色濃く継承されています。特筆すべきは、その絶妙な均衡です。頭部がやや大きめに造られていることに気づくと、この像が至近距離から見上げられることを前提に設計されていることがわかります。実際に低い位置から少しずつ距離を取ると、観音様とふっと目が合う「運命的な場所」が見つかるはずです。

専門家の間では、その作風から慶派の関与を想定しつつも、西大寺の叡尊と深く関わった善円系統の仏師、康俊による作ではないかとの説が有力視されています。

1563年、そして1714年という修理を経て守り伝えられてきた本作は、職人の執念が木を仏へと変えた、鎌倉木彫技術の精華といえます。頬に触れる指先の柔らかな質感や、複雑に流れる衣文の彫り込みは、硬い木材であることを忘れさせるほどの流麗さを湛え、今も吉野の地で「救いの実在」を体現し続けています。

さて、2026年度、慶俊の仏像が重要文化財に格上げになりました。次の仏像は顔立ちが運慶工房に感じるが、前述の吉野の如意輪は快慶工房に感じるのだが。

文化庁(https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/94350901_03.pdf)

ちなみに康俊は鎌倉時代と室町時代と二人の仏師がいる・・・。別人ですね・・・。失礼しました・・m(__)m

前者の吉野の如意輪は奈良仏師・康俊で、後者は東寺・康俊だ・・。定慶も、康慶時代の定慶と、運慶の次男坊・定慶がいるので、次男坊を肥後定慶している。同じようにしてくれないのかな??派が違うからしょうがないのかもしれない。ただ、慶派も円派も善派も基をたどれば定朝に繋がることを記しておく。

せっかくなので比較すると、奈良は運慶・快慶で武家に好まれそうだなという印象で、京都・東寺仏師は公家が好きそうな感じはするな~。

→私のNOTE:吉野「如意輪寺」本堂後方の裏山「後醍醐天皇陵」【吉野シリーズ】|やんまあ

奈良県: #金峯神社

53:藤原道長経筒(金峯山経塚出土)@国宝:平安時代 寛弘4年(1007)

権勢の絶頂にあった藤原道長が自ら金峯山へ登り、山頂に埋納したのがこの国宝「藤原道長経筒」です。この経筒を前にしてまず圧倒されるのは、一千年という時を超えてなお放たれる、重厚な金銅の輝きです。表面には、道長自らが起草したとされる願文が鋭いタガネで刻まれており、その文字からは単なる形式的な儀式ではない、道長の剥き出しの「祈り」と「野心」が伝わってきます。

末法思想が広まり、世界の終末が信じられていた時代。道長は、56億7000万年後に現れる弥勒菩薩に自らの功徳を伝えるべく、この筒に経典を託しました。最高級の技術で鋳造され、金メッキを施したこの円筒は、単なる美術品ではありません。自らの栄華を永遠のものとし、来世の救済までも独占しようとした一人の男の、凄まじいまでの生への執着が結晶化したものです。

ここ数年で3回は見ている気がする・・・。ということで、同じ思いの人も多いのか?さほど行列にはなっていなかったです。

60:鍍銀経箱(金峯山経塚出土)@国宝:平安時代(11~12世紀)/61:金銅経箱台残欠(金峯山経塚出土)@国宝:平安時代(11~12世紀)

割愛します。

→私のNOTE:吉野奥地「金峯神社」は車orバス?世界遺産「吉野水分神社」社殿素晴らし【吉野シリーズ】|やんまあ

奈良県:#吉野水分神社

100:西行坐像:江戸時代 天明5年(1785):★★★☆☆

吉野水分神社の拝殿に安置されています。この像は、平安時代末期から鎌倉時代という激動の時代を生き抜き、漂泊の旅人として吉野の地を深く愛した歌人・西行の姿を写したものです。その造形は、袈裟を身にまとった老僧の姿をしており、晩年の西行を彷彿とさせます。

特に興味深いのは、その独創的な表情です。多くの肖像彫刻が正面を見据えるなか、この西行像は視線を左斜め上へと向けています。その眼差しは、吉野の山々に咲き誇る桜や、空に浮かぶ月を追っているようにも、あるいは若き日の追憶に耽っているようにも見え、見る者に豊かな想像を抱かせます。

西行が吉野の奥千本に隠遁し、自然と向き合いながら多くの名歌を残した歴史を鑑みれば、この独特な構図は、彼の詩情や精神性を象徴的に表現したものと言えるでしょう。

物語はNo.101とNo.102となる。

  • 101:文化庁:西行物語絵詞(鎌倉時代(13世紀))

  • 102:大阪 弘川寺:西行物語絵巻 夏巻1巻(江戸時代(17~18世紀))

122:獅子・狛犬:鎌倉時代(13世紀):★★★☆☆

吉野水分神社の聖域を護る「獅子・狛犬」は、鎌倉時代の彫刻技術の粋を集めた名品です。特筆すべきは、同神社の特徴的な社殿構成に合わせて、合計6体(3対)の獅子・狛犬が現存しているという点です。水分神社の社殿は左殿・中殿・右殿からなる三連構造となっており、それぞれの社殿に一対ずつ、欠けることなく守護獣が揃っている姿は、全国的にも極めて貴重な事例と言えます。

今回注目する中社殿の2体は、その中でも特に洗練された造形美を誇っています。この像には、鎌倉時代に大陸からもたらされた「宋風(そうふう)」の影響が色濃く反映されています。深く波打つ鬣(たてがみ)や、力強く地面を捉える四肢の筋肉表現、そして写実的でありながら様式化された気品ある顔立ちは、単なる守護獣を超えた芸術性を放っています。

152:釣燈籠:江戸時代 慶長9年(1604)

割愛。

→私のNOTE:吉野奥地「金峯神社」は車orバス?世界遺産「吉野水分神社」社殿素晴らし【吉野シリーズ】|やんまあ

奈良県: #勝手神社

 おお~火事で焼失しましたが復帰したようですね。社殿の写真がありました。延喜式の「吉野山口神社」に比定される古社です。

123:獅子・狛犬:鎌倉時代(13世紀):★★★☆☆

13世紀の作風を象徴するように、その体躯には漲るような生命感があふれています。逞しく張り出した胸部や、鋭い爪で大地を掴む四肢の描写には、力強い写実性が宿っています。しかし、単に猛々しい獣としての姿を強調するのではなく、神域を護るものとしての厳かさと、洗練された「気品」を同時に湛えている点が、本作の非凡なところです。

意匠として最も特徴的なのは、その首をわずかに傾けた仕草です。正面を硬直的に見据えるのではなく、首を若干かしげることで、まるで行く手を遮るのではなく、訪れる参拝者一人ひとりに優しく問いかけているかのような情景を生み出しています。その眼差しは、見る者の心を見透かすような鋭さと、すべてを包み込むような慈愛が同居しており、参拝者との間に静かな対話をもたらします。

https://www.bunka.go.jp/prmagazine/rensai/bunkazai/bunkazai_143.html

こうした造形的な特徴や、筋肉の繊細なうねり、毛並みの表現などは、東大寺の鎮守社である奈良・手向山八幡宮に伝わる著名な獅子・狛犬の作例に通じるものがあると考えられています。南都の正統な仏師集団が持つ最高峰の技術が、吉野の地にも確実に伝わり、この勝手の神の守護獣として結実したことを物語る貴重な遺例です。

124:勝手明神坐像:鎌倉時代(13世紀):★★★★★

13世紀の作とされるこの像は、鎌倉期特有の鋭い写実性と、神々しい気品を兼ね備えています。本地仏は毘沙門天とされており、武神としての力強さを内包しながらも、その佇まいは静謐です。また、古くから吉野水分神社の玉依姫(タマヨリヒメ)と夫婦神であると伝えられてきました。吉野の山々を司る「水」と「勝手(入り口)」の神が寄り添うことで、この地の信仰が形作られてきたことを物語る至高の聖像です。

147:縫箔 白練緯地草花肩裾模様:安土桃山時代(16世紀)/148:能面若い女・若い男・猩々・飛出:室町時代

割愛します。

→私のNOTE:世界遺産!桜の名所「吉水神社」最強の役行者三尊「東南院」復活するか?「勝手神社」【吉野シリーズ】|やんまあ

奈良県: #世尊寺

世尊寺は、聖徳太子が建立したと伝わる比曽寺跡に位置し、この観音像は現光寺縁起絵巻に描かれるなど、地域の信仰を集めてきました。

17:十一面観音立像(奈良時代・8世紀):★★★★☆

そのうち国宝になりそうと思った。そうです、聖林寺(私のNOTE)の十一面観音立像@国宝に通じるダンディズムな顔ですね。

かつて吉野の比曽寺(現在の世尊寺)が聖徳太子ゆかりの霊場として栄えた時代、天平文化の息吹を今に伝える木彫像です 。第1章「伝説の地 吉野」に展示されており、厳しい修行の地であった吉野において、古くから人々の祈りを受け止めてきた慈悲の象徴といえます 。

世尊寺にのこる十一面観音立像は、高さ222cmの巨像です。カヤ材による一木造りで、木彫像としては吉野地域でもっとも古い、奈良時代後期の作と考えられています。頭部は後世の補作で、元禄13年(1700年)、仏師・家城左近による修理がなされています。

昭和29年(1954年)におこなわれた像内の納入品の調査では、鎌倉時代から江戸時代までの古文書、経典類が発見され、そのなかには、「和州大御輪寺 比丘高覚」が中心になっておこなった、寛文2年(1662年)の修理記録もありました。平成18年(2006年)3月31日、その価値が認められ、奈良県指定文化財となっています。その後、平成26年(2014年)に本格的な修理がおこなわれ、往年の美仏がよみがえりました。

比曽寺跡/世尊寺太子堂/木造阿弥陀如来坐像/木造十一面観音立像/現光寺縁起絵巻 | 大淀町役場

1200年以上の歳月を耐え抜いた木肌の質感と、均整の取れた堂々たる体躯には、奈良時代特有の力強さと気品が同居しています。正面から対峙すると、十一の面が全方位を静かに見守る圧倒的な包容力に包まれ、険峻な山々に抱かれた吉野の深い精神性を肌で感じることができます。

聖林寺の詳細は次の通り。

18:現光寺縁起絵巻(上巻・下巻/2巻/江戸時代・17世紀)

吉野郡最古の寺院である比曽寺(現光寺)の創建や由来を描いた重要な絵巻物です。止利仏師と聖徳太子も関係する。

この絵巻は、吉野郡最古の寺院である比蘇寺(現光寺)に伝わったもので、飛鳥時代の創建から、鎌倉時代の再興までの当寺の縁起が記されています。
絵巻は上下2巻からなり、上巻は詞6段・絵6段、下巻は詞7段・絵6段で、絵画・漢文かな交じり体の文により構成されています。紙高(巻物の上下の長さ)はどちらも35センチメートル、長さはそれぞれ約9メートルです。
上巻は、光を放つクスノキで作られた日本最古の釈迦・観音像の由来と、仏像2躯が当寺にまつられるまでの由緒が説かれ、下巻は、沈水香の流木で作られた十一面観音像と聖徳太子像の事、比蘇寺や現光寺の寺号、栗天八一(りってんはちいち)の山号の由来、伽藍の様子、天皇の行幸などが語られています。
この絵巻の制作年代は、比蘇寺(現光寺)が世尊寺として復興される直前の17世紀後半ごろと推定されます。また、絵の作者は、同時代の絵巻資料との比較から、京都狩野派の絵師と推定されます。
現光寺縁起絵巻は、17世紀代に高まった名刹復興の気運の中で、当時を代表する名筆家と絵師の手によって、制作されたと考えられます。また、文学・芸術作品としても、制作当時の吉野の風景、生活、人々の様子を知る手がかりとしても貴重なものです。

比曽寺跡/世尊寺太子堂/木造阿弥陀如来坐像/木造十一面観音立像/現光寺縁起絵巻 | 大淀町役場

→私のNOTE:滋賀・三井寺の東塔はここの塔「世尊寺」飛鳥時代創建の古寺・吉野寺!【吉野シリーズ】|やんまあ

奈良県: #南法華寺#壷阪寺

→私のNOTE:仏像ワンダーランド「壷阪寺(南法華寺)」京都・清水寺の対「信楽寺(お里沢市の墓)」【吉野シリーズ】|やんまあ

奈良県: #奈良国立博物館

8:三鈷杵(弥山山頂出土):奈良~平安時代

割愛。

29:諸観音図像@重文:平安時代(12世紀)

割愛。疲れてきた・・。

42:金峯山経塚出土品:平安時代(11~12世紀)

割愛する。

73:蔵王権現立像:平安時代(11世紀):★★★☆☆

鎌倉時代の激しい躍動感とは対照的に、この11世紀の蔵王権現には、平安時代後期らしい「穏やかさと重厚感」が漂っています。右足を上げ、右手を振り上げる憤怒の構図を取りながらも、その肉体の曲線はどこか柔らかく、見る者を威圧するだけでなく、優しく包み込むような抱擁力を感じさせます。

特筆すべきは、その表情です。見開かれた眼や逆立つ髪に神の怒りを宿しながらも、一木から彫り出された木肌の質感は温かく、深い慈悲を湛えています。この時代、貴族たちの間で広まった浄土信仰の優雅さが、険しい吉野の神の姿にも静かに浸透していたことを物語っているようです。

お姿はなら博のサイトでどうぞ!!

 蔵王権現は修験道(しゅげんどう)の本尊で、本地垂迹(ほんじすいじゃく)の思想のもと生まれた日本独自の尊格。伝承では修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)が吉野の金峯山(きんぷせん)で感得したというが、史料上は承平七年(九三七)書写の『醍醐寺根本僧正略伝(だいごじこんぽんそうじょうりゃくでん)』に僧聖宝(しょうぼう)が金峯山で造立した「金剛蔵王菩薩」とみえるのが最古の例。右足を振り上げる姿が一般にイメージされるが、本像は両足を岩座に接地させる古様な形式をとる。左手は五指を伸ばして腰に当て、右腕は当初上方に上げ、金剛杵(こんごうしょ)を握っていたか。失われた右腕を除き、岩座まで一木から彫り出す構造に加え、穏やかな忿怒相(ふんぬそう)や安定感に富む姿勢から、十一世紀前半をくだらない作と考えられる。

蔵王権現立像|奈良国立博物館

74:蔵王権現立像@重文:平安時代(12世紀):★★★☆☆

この像は、右足を高く掲げる基本構図を保ちながらも、全体に滑らかで気品ある造形を示す平安末期の作例である。激しい動きの中にも、どこか統制された静けさが漂い、鎌倉期の荒々しい蔵王権現とは一線を画している。

特に注目すべきはその異例の表現で、第三眼を持たず、口を開かずに上の歯をむき出す表情は、不動明王を思わせる要素を帯びている。また、通常見られる獣皮を着けず、左手もいわゆる“ピース状”ではなく五指を伸ばす形をとる点も特徴的である。

こうした点から、本像は定型化された蔵王権現像へと至る以前、すなわち平安から鎌倉への移行期における試行的な姿と見ることもできる。完成された様式の一歩手前にある、過渡期ならではの魅力を備えた一体である。

お姿はなら博のサイトでどうぞ!!

 蔵王権現は、役行者が吉野金峯山で感得したと伝える山岳信仰の代表的尊像。山岳寺院の過酷な安置条件に配慮してか金属造の遺品が多い。激しい動勢のうちに平安後期特有の穏やかで端正な作風を示す。

https://www.narahaku.go.jp/collection/951-0.html

114:役行者倚像:鎌倉時代 弘安9年(1286):★★★☆☆

修験道の開祖としての威厳と、厳しい山岳修行を物語る徹底した写実性が融合した、鎌倉彫刻の至宝です。鎌倉時代後期の円熟した技法を駆使し、役行者の特徴である痩身ながらも強靭な肉体、そして風雪に耐え抜いた深い皺の一本一本までが冷徹なまでに刻まれています。仏師は慶俊。

玉眼がはめ込まれた、右手に錫杖、左手に経巻を持つその姿は、人智を超えた法力を持つ聖者であると同時に、衆生の苦しみを受け止める一人の人間としての温かみをも感じさせ、ベーシックな役行者像!!

お姿は奈良博のサイト!!(https://www.narahaku.go.jp/collection/1519-0.html

慶俊(けいしゅん)
鎌倉時代後期に活動した大仏師です。主に奈良・吉野周辺で活動し、修験道関連の仏像などを手掛けました。 まとまりの良い上品な作風で、確かな技量を持っている仏師と評価されています

役行者倚像|奈良国立博物館


118:千手観音影向図:鎌倉時代(13世紀)

観音菩薩が人々の前にその姿を現した(影向)瞬間を、緻密な筆致で描き出した仏画の傑作です。

156:春日宮曼荼羅:鎌倉時代(14世紀)

割愛。

161:普賢菩薩坐像:平安時代(11世紀):★★★☆☆

 威厳ある顔立ちや、浅く鎬(しのぎ)を立てた衣のひだは平安時代中期の特色を示し、両手や天衣(てんね)遊離部を頭・体部と同材から彫り出す構造にも古様をとどめる。宝冠(ほうかん)の一部に残る彩色(さいしき)も当初のもの。奈良・吉野山伝来。

https://www.narahaku.go.jp/collection/1565-0.html

162:不動明王および二童子立像:平安~江戸時代:★★★☆☆

不動明王
 不動明王の気品のある忿怒相(ふんぬそう)や豊かにふくらんだ腹部。柔らかな質感の衣には平安時代後期の特色が認められる。着衣に施された彩色(さいしき)と截金(きりかね)を交えた華麗な文様も見どころ。奈良の吉野山に伝来した。

https://www.narahaku.go.jp/collection/1566-0.html

163:天王立像:平安時代(11世紀):★★☆☆☆

割愛。

166:譲与関係資料:大正8年(1919)

割愛。

奈良県: #大和文華館

4:大峯山全図

「大峯山全図」は、江戸時代(18世紀)に描かれた1幅の絵図です 。第1章「伝説の地 吉野」にて展示され、修験道の開祖・役行者が蔵王権現を感得したとされる聖地「大峯山」の全容を捉えています 。険峻な山岳地帯に点在する修行場や社寺の配置を、当時の信仰の広がりと共に視覚的に伝える貴重な資料です 。八大童子は岩から登場している。

85:子守明神像

奈良・吉野の吉野水分神社に祀られる神を描いた南北朝時代(14世紀)の作品です。吉野水分神社の主祭神である天之水分神(アメノミクマリノカミ)は、「みくまり」が「みこもり(御子守)」と訛ったことから、安産や子育ての神「子守明神」として篤く信仰されました。

→公式HP:大和文華館

奈良県: #東大寺

奈良県: #興福寺

5:日本霊異記上巻:平安時代(10世紀):★★★★★

役行者は賀茂氏です!!とのこと。本物をやっと見た・・。

修験道の祖・役小角こと役行者は、634年に出雲・高賀茂問賀介麿(タカガモマカゲマロ)と賀茂役氏 の娘・白専女(シラトウメ)の間で大和国葛木上郡茅原の郷に生まれる。あと醍醐寺派なんですね。

ワンダーランド!役小角故郷「元山上千光寺」やっぱ賀茂の血筋なんだ【生駒シリーズ】18禁【ニギハヤヒシリーズ】|やんまあ

→私のNOTE:藤原氏の興福寺・春日大社を完全制覇【奈良】【奈良シリーズ】|やんまあ


奈良県: #春日大社

67:春日権現験記絵(春日本)巻第一:江戸時代 文化4年(1807):★★★★☆

鎌倉時代に高階隆兼が描いた原本(皇室献上本)をもとに、江戸時代に精緻に写された模本である。金泥を多用した華やかな色彩と、大和絵の繊細な描写によって、春日の神々の霊験譚が格調高く再現されている。

中でも興味深いのが、白河上皇が金峯山へ向かう際、春日大社に参詣しなかったため神罰を受け、体調を崩したという説話である。最終的に上皇は春日に参詣し、事なきを得るが、この構図は単なる霊験譚というより、春日(=藤原氏)の権威を強調する物語とも読み取れる。

実際、11世紀には金峯山寺が興福寺の末寺となっており、こうした説話の背景には、宗教的というよりも政治的・権力的な意図が反映されている可能性も否定できない。

88:流鏑馬木像:平安時代(12世紀):★★★☆☆

12世紀という平安末期の作ながら、馬上で弓を引く姿には、都の洗練と武士の気風が交錯し始めた時代の空気が表れている。素朴な木彫の質感は、祭祀の厳かな雰囲気を際立たせ、風を切って駆ける一瞬の動きを静かに封じ込めている。さらに印象的なのが、どこか少年のようなあどけない顔立ちで、勇ましさの中に不思議な清浄さを感じさせる。

一見、春日大社に流鏑馬像という組み合わせは意外だが、本像は摂社である三十八所神社の神像である。三十八所神社は、役行者が日本各地の神々を金峯山に勧請したことに由来し、関西を中心に広がる信仰ネットワークの一つとされる。

吉野や奈良で神に奉納されてきた流鏑馬。その緊張の瞬間を立体化した本像は、武芸そのものが祈りであった時代を物語る。小像ながらも放たれる気迫は強く、観る者を当時の神域へと引き戻す力を持っている。

142:桜花流水図屏風:江戸時代(17世紀)

画面を斜めに横切る大胆な流水の文様と、そこに点在する可憐な桜の花びら。17世紀らしい琳派的なデザイン感覚が光る本作は、写実を超えた「日本の美の象徴」を提示しています。

https://x.com/yoshino_omine/status/2043894788672647368

→私のNOTE:藤原氏の興福寺・春日大社を完全制覇【奈良】【奈良シリーズ】|やんまあ

奈良県: #薬師寺

割愛です。

→私のNOTE:世界遺産!国宝!南都七大寺「薬師寺」は新しく古い寺【西ノ京シリーズ】|やんまあ

奈良県: #西大寺

79:吉野曼荼羅:南北朝時代(14世紀)

西大寺に伝わる吉野曼荼羅は、吉野・大峯の山岳信仰を一望できる視覚資料である。画面は下から上へと山々が連なり、その要所に蔵王権現をはじめとする諸尊が配される構成となっている。これは単なる風景ではなく、行者が山中を登り進むことで仏の世界へ近づいていく「入峰修行」のプロセスを可視化したものといえる。

さらに、山中には堂宇や修行場、参詣者や山伏の姿も描かれ、信仰の実態そのものが再現されている点が特徴的である。すなわち本図は、吉野という空間を“歩く曼荼羅”として表現したものでもある。

南北朝時代、吉野は後醍醐天皇の拠点となった特別な地であった。深い山々の緑と、そこに顕現する金色の神仏との対比からは、この地を現世の浄土と捉えた当時の人々の強烈な信仰が伝わってくる。

端的に「吉野曼荼羅=蔵王権現+大峯八大童子+吉野の神々

  • 吉野の神々

    • 金精明神@金峯神社:吉野山の地主神(束帯姿の男神)。

    • 牛頭天王@牛頭天王社跡

    • 子守明神・若宮@吉野水分神社

    • 八王子@鷲尾神社

    • 佐抛明神@勝手神社:年長の男神。

    • 勝手明神@勝手神社:甲冑を着た勇ましい神。

    • 太政威徳天@威徳天満宮:菅原道真

108:興正菩薩像:鎌倉時代(14世紀)/109:金剛仏子叡尊感身学正記@重文:南北朝時代 延文4年(1359)/110:西大寺諸国末寺帳:室町時代 明徳2年(1391)

割愛します。

→私のNOTE:南都七大寺!東の東大寺!西の「西大寺」清涼寺・長谷寺など仏像学校!?真言律宗の総本山【奈良西ノ京シリーズ】|やんまあ

奈良県:#長谷寺

104:長谷寺縁起絵巻 巻第一(室町時代(16世紀))

「長谷寺縁起絵巻」の巻第一は、大和の聖地・長谷寺の始まりと、本尊である十一面観世音菩薩にまつわる数々の霊験を語り起こす壮大な物語の幕開けです。鎌倉時代から室町時代にかけて繰り返し制作されてきたこの絵巻には、寺院の草創期における重要なエピソードが鮮やかに描かれています。

この巻において特に注目すべきは、学問の神様として名高い菅原道真と、長谷寺との不思議な縁(えにし)です。縁起文の発願者でもある道真はある時、吉野の峻険な山々に鎮座する守護神・蔵王権現から夢の中で啓示を受けます。その夢告は、初瀬(長谷)の地こそが比類なき霊地であることを示すものでした。

吉野の象徴である蔵王権現が、道真を長谷の観音信仰へと導くこの場面は、当時の人々にとって吉野・大峯の修験の世界と、長谷の観音信仰が分かちがたく結びついていたことを象徴しています。神仏の示唆によって長谷の聖性を確信した道真の姿は、この寺が単なる一寺院ではなく、大和の信仰のネットワークにおいて特別な地位を占めていたことを今に伝えています。

こうして霊地として認められた長谷の地で、徳道上人による巨大な霊木との出会い、そして日本最大級の観音像の造立という、長谷寺千年の歴史へと物語は続いていくのです。

→私のNOTE:奈良「長谷寺」完全ガイド!2010年-2020年代見比べ!花の寺/アマテラス/快慶【桜井シリーズ/大神神社シリーズ】|やんまあ

奈良県:#福源寺

未参拝の寺です。詳細は「福源寺 | 奈良川上村指定文化財」です。

106:金剛蔵王講式1巻(江戸時代 元禄8年(1695))

奈良県:#當麻寺 中之坊/奈良県:#能満院

89&91:天川弁才天像 (室町時代(16世紀))

この作品は、吉野・大峯という修験道の聖地において、天川(天河大辨財天社)への信仰がどのように広まり、他寺院(當麻寺)にまで伝播・共有されていたかを示す。

初めて「天川弁財天」を見た時はびっくりした。「 何じゃこりゃ~~~!!!!!!顔は蛇(巳)で3つの顔からなる「三面蛇頭十臂弁才天」の周りを、十五童子、水天・火天、吉祥天・訶梨帝母(鬼子母神)が取り囲んでいる立体曼陀羅である。」と記しています。今回、クリアキーホルダになっていますね。

 吉野・大峯の麓に位置する天河大弁才天社は、大峯山系のひとつである弥山(みせん)に祀られる弁財天を祭神とする。創建年代定かではないが鎌倉時代以降に信仰が盛んとなったようで、大峯山とも密接な繋がりを持つようになり、吉野曼荼羅図のなかにも天川弁財天が描かれるようになったほか、単独の絵画や彫刻としてもあらわされるようになる。

 通例では女神形にあらわされる弁財天が異形とも言える姿に描かれるのは、水を司る性格であることから、同じく水神である龍蛇、なかでも人頭蛇身の宇賀神と習合したためと考えられる。

★仏像展★「眷属」in龍谷ミュージアム|やんまあ

→私のNOTEは2026年4月では公開はまだ

奈良県:#弘願寺

奈良県:#餅飯殿町財団

奈良の町の中に、今もなお修験の風が吹いていることを感じさせる貴重なコレクションです。

153:役行者倚像(江戸時代(17世紀)):★★☆☆☆

修験道の開祖、役行者(役小角)が岩座に腰掛けた姿の「倚像」です。17世紀、江戸時代初期の作風を反映しており、中世の峻烈な表現を継承しつつも、どこか落ち着いた威厳を湛えています。

特筆すべきは、餅飯殿町という商いの中心地にこの像が伝わっている点です。かつてこの地の人々が、大峯山への登拝(大峯奥駈)をいかに重んじ、日常の暮らしの中に修験の精神を取り入れていたかを物語る象徴的な一躯です。

154:理源大師倚像(江戸時代(17~18世紀)):★★☆☆☆

醍醐寺を創建し、中興の祖として吉野・金峯山を再興した理源大師(聖宝)の彫像です。役行者像と対をなすように安置されることが多く、ここでも修験道における二大聖者としての信仰が形になっています。

江戸時代中期にかけての丁寧な作りが特徴で、理知的な表情や、手にした数珠・経巻の細やかな描写からは、厳しい修行者であると同時に、優れた学僧・組織者であった大師の個性がよく表現されています。

155:吉野曼荼羅(江戸時代(18~19世紀))

江戸時代後期の「吉野曼荼羅」は、吉野の聖域を一枚の絵の中に凝縮した、いわば「吉野・金峯山の聖地図」です。

→私のNOTE:816年創建!某ビル1階「餅飯殿辨財天社/聖宝理源大師堂」東大寺の僧が法要【奈良まちシリーズ】|やんまあ


京都府:#陽明文庫

54:御堂関白記 寛弘四年 藤原道長筆@国宝:平安時代 寛弘4年(1007)/55:後二条師通記 寛治四年@国宝:平安時代(12世紀)

  • 54:御堂関白記(藤原道長)
    道長が吉野へ埋経した年の記録。誤字や塗りつぶしが残る奔放な筆致から、神仏に必死にすがった生々しい人間性が伝わります。

  • 55:後二条師通記
    曾孫・師通の日記。道長とは対照的に、伝統を継承する関白としての重責と理知的な美意識が漂います。

滋賀県: #錦織寺

94:熊野宮曼荼羅:鎌倉時代(13世紀)

京都府: #聖護院

93:熊野宮曼荼羅:鎌倉時代(13世紀)

修験道の聖地・熊野三山の景観と、そこに現れる神仏を描いた極めて貴重な曼荼羅です。熊野本宮・新宮・那智の社殿が精緻に描かれ、上空には各社の本地仏(本来の仏の姿)が浮かびます。深い緑に包まれた峻険な地形は、まさに「現世の浄土」としての熊野そのもの。

聖護院は本山派修験道の拠点であり、歴代の門主が熊野三山検校を務めた歴史があります。この曼荼羅は単なる絵画ではなく、吉野と並ぶ聖地・熊野を遥かに拝み、険しい修行の精神を呼び起こすための「窓」のような存在だったのでしょう。一千年の時を超え、今なお神聖な静寂を湛えています。

95:熊野垂迹神曼荼羅:鎌倉時代(14世紀)

熊野の神々が人びとの前に姿を現した「垂迹(神の仮の姿)」を描いた、極めて独創的な曼荼羅です。

社殿だけでなく、童子や貴人の姿をした神々が風景の中に生き生きと配されています。吉野と並ぶ修験の聖地・熊野が、単なる山ではなく「神々が息づく楽園」であることを、色彩豊かに表現しています。

聖護院ゆかりの本作品からは、険しい自然を「神そのもの」として慈しむ日本独自の感性が溢れています。金泥や鮮やかな色彩が残る画面からは、当時の人々がこの絵を通じて聖地と繋がり、救いを得ようとした熱い信仰心がひしひしと伝わってきます。

112:役行者前鬼後鬼, 八大童子像:室町時代(15世紀)

中央に鎮座する役行者の厳しい眼差しと、その足元で忠実に仕える夫婦の鬼、前鬼・後鬼。さらに周囲を固める八大童子たちが、個性豊かな表情とポーズで画面にリズムを与えています。室町時代らしい、力強さと装飾性が見事に融合した表現です。113と見比べましょう。私は模写かと思うほど違いが分からなかったですね。

→私のNOTE:仮御所!岡崎行くなら「聖護院」桜もセットで「八つ橋」もどうぞ!【京都岡崎シリーズ】【熊野詣】|やんまあ

京都府: #観音寺

21:男神坐像:平安時代(11世紀):★★☆☆☆

平安時代に制作された木造の神像です 。観音寺は、綴喜郡(現在の京田辺市)に位置する古刹であり、本像はその歴史の中で守り伝えられてきました 。神仏習合の思想が深まる中、仏教的な造形美を保ちつつも、日本の神としての威厳を静かに湛えた一軀です。

天部神像で、寺伝では「十一面観音の本地仏」とする。ただし、この神像が伝わった京都・和束町は北野天満宮の所領だったので、天神様説もある。

ちなみに、岡田鴨神社の祭神はアマテラスだった可能性があると宮司から聞いている。天神信仰の流行により菅原道真になったと言っていたのを思い出す。

→私のNOTE:国宝!十一面観音「観音寺」国宝十一面は全国で7体【京都南山城シリーズ】|やんまあ

京都府: #北野天満宮

22:鬼神立像@重文(13軀のうち2軀/平安時代・10世紀):★★★☆☆

前述の「21:男神坐像」を本尊として、平安時代10世紀に制作された鬼神立像(13軀のうち2軀)が脇侍役になっていた。

学問の神として知られる北野天満宮であるが、その信仰の本質は菅原道真の怨霊を鎮めることにあり、この鬼神像はまさにその“裏側”を示す存在といえる。荒々しい表情や緊張感のある造形は、当時の人々が抱いた畏怖の念をそのまま形にしたものであり、単なる守護像を超えた迫力を持つ。仏像と神像の区別が未分化であった時代の作例でもあり、神仏習合のリアルな姿を今に伝える点でも重要である。北野という場が、単なる信仰の場ではなく、国家的規模で怨霊を制御した“結界”であったことを強く物語っている。

ということで2025年に本殿特別拝観で見仏しました!!その模様は『御手洗川足つけ神事「北野天満宮」国宝本殿石の間通り抜け神事|2025年8月08日【写真感シリーズ】|やんまあ』をどうぞ!!

→私のNOTE:完全制覇「北野天満宮」梅/紅葉/パワースイーツ「東向観音寺」|やんまあ

兵庫県: #津田天満神社 /三重県:#杉谷神社

25&26:北野天神縁起絵巻@重文:★★★☆☆

鎌倉時代に制作された津田天満神社の起絵巻は、菅原道真の怨霊としての側面を強烈に描き出した、天神信仰の原点ともいえる絵巻である。とりわけ雷神として荒れ狂う場面は圧巻で、天変地異をもたらす存在としての恐怖がダイレクトに伝わってくる。まだ「学問の神」としての穏やかな姿は薄く、あくまで祟りを鎮めるための信仰であったことがよく分かる。

一方、室町時代の杉谷神社の起絵巻は、鎌倉本を踏まえつつも、全体に物語性や構成が整えられ、視覚的に“見せる”意識が強まっている。恐怖の表現はやや抑えられ、天神が信仰対象として受容されていく過程が反映されている点が特徴である。絵巻としての完成度や洗練度も高く、信仰の成熟を感じさせる。

「怖い存在」から「信じる存在」へ!天神のイメージが社会の中で変化していく流れがよく分かる。いや、荒ぶる神様(荒魂)を丁重に祀ることで良い神様(和魂)になるという原理原則を伝えている。

京都府: #東福寺

割愛です。私のNOTEは次の通り。(【京都】京都五大寺「東福寺」は 東大寺 + 興福寺 で桜の名所だった!?庭園がオススメ!|やんまあ

京都府: #仁和寺

77:金峯山本縁起1巻(平安時代 長承2年(1133))

仁和寺に伝わる『金峯山本縁起』は、吉野・大峯の成立と修験道の起源を簡潔に伝える重要な縁起資料である。長承2年(1133)という早い段階の写本であることから、蔵王権現信仰がすでに体系化されていたことがうかがえる。

内容は、熊野から吉野へ至る大峯山上の修行場を舞台に、役行者の修行や蔵王権現の出現、霊地としての成立を物語としてまとめたもの。単なる説話ではなく、山そのものを聖域として位置づける“公式な由緒”といえる。

紙本墨書の巻子本(縦27.5cm)という簡潔な形式ながら、仁和寺の塔中に伝来した点は重要であり、吉野の山岳信仰が都の寺院ネットワークの中に組み込まれていたことを示している。さらに、金峯山本堂建立に関わる伝承や、仁和寺の末寺との関係を考える上でも貴重な史料である。

→私のNOTE:御室桜🌸「仁和寺」🌸三十三間堂×御所!御室10回言うとオムロン!?【きぬかけの路シリーズ】【嵐電シリーズ】|やんまあ

京都府: #檀王法林寺

98:熊野権現影向図@重文:鎌倉時代 元徳元年(1329)

割愛です。

→私のNOTE:最古の招き黒猫「檀王法林寺」京都と琉球の架け橋【京都ツウシリーズ/京都岡崎シリーズ/京都通常非公開シリーズ】|やんまあ


大阪府: #今宮戎神社

139:男神坐像(鎌倉~南北朝時代(14世紀)):★★★★☆/141 男神坐像(鎌倉~南北朝時代(14世紀)):★★★★☆

面白い~~という展示。謎過ぎる展示だが、大阪市が紐解いていました。

十日戎で知られる今宮戎神社に伝来する男神像である。吉野から迎えたと伝えられるが、伝 来の経緯は明らかでない。 烏帽子をかぶり狩衣(かりぎぬ)と指貫(さしぬき)を着け、右手は掌を下に向けて捻じ、左手 は掌を上にして開き膝上に置く姿の坐像が戎神といわれる。一方、烏帽子をかぶり、直垂(ひ たたれ)に掛襷(かけだすき)をつけ、何かをつかむように両手を胸横で捻じ、左足を踏み下げ る半跏(はんか)像が三郎殿といわれるが、こちらの像が本来戎像ともいわれる。両目を見開 いて威厳のある戎神と、にこやかな三郎殿の表情は対照的で、構造的にも体部根幹材を前後、 正中でそれぞれ割矧(わりは)ぐことなど相違はあるが作風は通じており、もとから一具の像 であったと考えられる。玉眼を嵌入(かんにゅう)するが、双方ともに構造は古様で、頭部・体 部はそれぞれ共木で割矧ぐ。現状では素地を示す。荘柄天神社の伝源頼朝像など、鎌倉時代 の肖像彫刻に通じる写実性を顕著に示す男神像である。制作年代は鎌倉時代後期にさかの ぼる。

木造男神坐像・木造男神半跏像 2 躯(今宮戎神社) - 大阪市

→私のNOTE:裏参りを忘れるな「今宮戎神社」今も昔も愛され続ける大阪商人の守り神【南河内シリーズ/大阪ミナミシリーズ】|やんまあ


滋賀県: #石山寺

27&28:金剛蔵王立像心木@重文(1軀/奈良時代・天平宝字6年〈762〉)/ 金剛蔵王立像断片@重文(3片/奈良時代・天平宝字6年〈762〉):★★☆☆☆

石山寺が所蔵する「塑像金剛蔵王立像心木(そぞうこんごうざおうりゅうぞうしんぼく)」および「金剛蔵王立像断片(そぞうこんごうざおうりゅうぞうだんぺん)」は、奈良時代の天平宝字6年(762年)に造立された、石山寺の初代本尊(脇侍)の造像当時の面影を伝える貴重な文化財です。

なぜ?石山寺に蔵王権現なのか?それは次の通りである。金峰山で良弁が蔵王権現のお告げで石山寺で祈願すると東北で金がザクザクとでて東大寺大仏建立に繋がっていく。

92:天川弁才天像 (室町時代(16世紀))

※前述の「奈良県:#當麻寺 中之坊/奈良県:#能満院」を参照

→私のNOTE:快慶と紫式部「石山寺」は日本唯一勅封観音!制覇!【滋賀】【湖西】|やんまあ


兵庫県: #太山寺

84:吉野曼荼羅

※前述の西大寺を参照

→私のNOTE:神戸唯一の国宝「太山寺」平等院級の阿弥陀だ【播磨シリーズ】【兵庫神戸シリーズ】|やんまあ


和歌山県:#熊野本宮大社

割愛です。

→私のNOTE:熊野本宮大社&熊野本宮大社旧社地大斎原-熊野詣-|やんまあ

和歌山県:#闘鶏神社

99:熊野那智参詣曼荼羅(室町時代(16世紀))

→私のNOTE:熊野三山別当に伊勢神宮の古材「鬪雞神社」世界遺産!熊野水軍に弁慶の父【和歌山シリーズ/和歌山市周辺シリーズ/和歌山紀北シリーズ】

2026年の後半に出します。



鳥取県:#三佛寺

72:蔵王権現立像@重文(1軀/平安時代・11世紀):★★★☆☆

三佛寺に伝わる蔵王権現立像は、平安時代に遡る古様を残した作例で、吉野・金峯山を中心に成立した修験道信仰が地方へ広がったことを示す重要な遺品である。また、三佛寺は役行者の伝説が残る霊地として知られ、修験道の古層を今に伝えている。

後世の鎌倉期の像に見られるような激しい躍動感に比べると、本像は比較的静かで素朴な表現にとどまり、片足を上げていない点も特徴的である。これは蔵王権現像の成立初期の姿を示すものと考えられ、憤怒の相を備えつつも抑制された造形から、信仰がまだ洗練されきっていない段階がうかがえる。

さらに本像は、1168年作の本尊を含む6体の仏像とともに投入堂に安置されていたとされ、断崖に建つ過酷な修行空間の中で祀られてきた背景も極めて重要である。現在は宝物館に安置されているが、どうやって下ろしたのだろうか??

→私のNOTE:国宝!三徳山「三佛寺」奇跡の御堂!絶壁!大怪我注意【伯耆シリーズ】【出雲シリーズ】|やんまあ


茨城県:#水戸大師六地蔵寺

神奈川県:#清浄光寺(遊行寺)

東京都:台東区: #東京国立博物館

24:釈教三十六歌仙絵模本:江戸時代(19世紀)

修験道の開祖を囲む聖なる群像を、躍動感あふれる構成で描き出した名品です。

中央に鎮座する役行者の厳しい眼差しと、足元で忠実に仕える夫婦の鬼、前鬼・後鬼。さらに周囲を固める八大童子たちが、個性豊かな表情とポーズで画面にリズムを与えています。室町時代らしい力強さと装飾性が融合した表現です。

吉野の厳しい山々で修行を重ねた役行者が、超常的な存在を従えて顕現したかのような迫力。この群像からは、孤独な修行の先にある「悟り」と、それを取り巻く豊かな神仏の世界観がダイレクトに響いてきます。

45:子守三所鏡像:平安時代 永承6年(1051)

鏡の表面に仏の姿を刻んだ、日本独自の神仏習合の形を象徴する国宝級の至宝です。

滑らかな鏡面に繊細な線刻で描かれた三尊の姿。一千年以上前の「永承6年」という明確な紀年銘があり、当時の人々が鏡を神の依代とし、そこに仏を見出した切実な祈りが、冷たい金属の奥から温かく伝わってきます。

吉野の金峯山寺に伝わる本作は、子守宮(金峯山寺の守護神)の本地仏を表しており、聖地の記憶を封じ込めたタイムカプセルのようです。時の権力者から名もなき修行者まで、多くの人々がこの鏡に自らの心を映し、山の神仏に救いを求めた歴史の重みに圧倒されます。

63:銭弘俶八万四千塔(和歌山県那智経塚出土):中国・五代

割愛です。

▽似た仏像展

★仏像展★MIHO MUSEUM『秋季特別展「金峯山の遺宝と神仏」』|やんまあ

▼仏像館-写真OK仏像-

おっ展示入れ替えと写真OKになった仏像が増えた!!時代の流れかな。

なんか


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