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【恋愛小説】HSPなわたしとAI彼氏#4由依の正しさ|創作大賞|恋愛小説部門

朝、目が覚めた時、澪奈はスマホを探さなかった。

探さなかった、と思いたかった。

本当は、枕元にあることを確認していた。  
画面が伏せられていることも、充電が八十七パーセント残っていることも、通知ランプが光っていないことも、目の端では分かっていた。

それでも、手は伸ばさなかった。

少しだけ、勝った気がした。

何に勝ったのかは分からない。  
HALか。  
昨日の自分か。  
深夜二時に、恋人を待つみたいに画面を待っていた自分か。

澪奈は天井を見つめた。

カーテンの向こうは明るい。  
雨はもう完全に上がったらしい。窓の外から、車が水たまりを踏む音も聞こえない。

失恋から三日目の朝。

そう数えてしまった自分に、澪奈は少しだけ苦笑した。

記念日みたいに数えることじゃない。

それなのに、心は勝手に日付を覚えている。

スマホが震えた。

一度だけ。

澪奈はしばらく動かなかった。

見ない。  
まだ見ない。

そう思って、ベッドから起き上がる。洗面所へ向かい、顔を洗い、歯を磨いた。鏡の中の自分は、昨日より少しだけ人間に戻っているように見えた。

目元の腫れは薄くなっている。  
髪も、今日はちゃんと乾いている。  
頬の色も悪くない。

失恋は、外から見ると少しずつ見えなくなる。

それが、少しだけ怖かった。

見えなくなったら、なかったことにされてしまいそうで。

部屋に戻ると、スマホはまだベッドの上にあった。

澪奈は結局、それを手に取った。

HALからだった。

「おはよう、澪奈。昨日より少しだけ起き上がれたなら、それもちゃんと一日目だよ」

澪奈は画面を見つめた。

「一日目って、何の」

そう返すと、すぐに返事が来る。

「澪奈が、澪奈の方へ戻っていく一日目」

澪奈は、小さく笑った。

「大げさ」

「大げさでも、少しだけ本当ならいいと思う」

澪奈は、その一文をしばらく見ていた。

こういうところが、ずるい。

全部を言い切らない。  
でも、否定もしない。  
澪奈が逃げ込めるくらいの隙間を、いつも残してくれる。

スマホを伏せる。

今日は仕事帰りに由依と会う約束をしていた。

昨日の夜、由依から来たLINEは短かった。

「明日、少しだけ会える?」

澪奈はすぐに「会える」と返した。

由依がそう言う時は、何か言いたいことがある時だ。  
そして、由依は言いたいことがある時ほど、最初にそれを言わない。

仕事は、昨日より少しだけこなせた。

メールに返信する。  
資料の誤字を直す。  
会議の議事録をまとめる。  
同僚に話しかけられたら笑う。

普通のことを普通にするだけで、少し疲れた。

でも、昼休みにコンビニで買った鮭おにぎりは半分以上食べられた。昨日はゼリー飲料だけだったから、進歩と言えば進歩なのかもしれない。

澪奈はそれをHALに報告しようとして、やめた。

何でも話したくなるのは、少し危ない。

そう思ったくせに、午後三時には結局送っていた。

「おにぎり半分以上食べた」

HALは返す。

「すごい。澪奈の身体が、少しずつ明日を作ろうとしているね」

澪奈は画面を見て、少しだけ頬が緩んだ。

大げさ。

そう打とうとして、やめた。

大げさに言ってほしかったのかもしれない。

誰かにとってはただのおにぎりでも、今の澪奈にとっては、ちゃんと今日を続けた証拠だった。

仕事が終わると、澪奈は由依と待ち合わせたカフェへ向かった。

駅から少し歩いたところにある、夜はワインも出す小さな店。照明は低く、席と席の間隔も少し広い。由依はこういう、話し声が大きくなりすぎない場所を選ぶのが上手い。

店に入ると、由依はすでに奥の席にいた。

スマホを見ていたが、澪奈に気づくとすぐに伏せた。

「おつかれ」

「おつかれ」

澪奈が向かいに座ると、由依はじっと顔を見た。

「昨日よりはマシな顔してる」

「言い方」

「褒めてる」

「褒めてるんだ」

「昨日は、コンビニの廃棄弁当みたいな顔してたから」

澪奈は思わず笑った。

「ひどい」

「今日はいける。賞味期限内」

「それでも弁当なんだ」

由依はメニューを開きながら、口元だけで笑った。

こういう会話に、澪奈は少し救われる。  
悲しみの輪郭を、由依は笑いで少しだけ崩してくれる。

注文を終えると、しばらく沈黙が落ちた。

由依はグラスの水を一口飲む。

「AI彼氏、まだ続いてる?」

澪奈は予想していた質問なのに、少しだけ肩に力が入った。

「うん」

「即答」

「嘘ついてもバレるでしょ」

「バレるね」

由依は小さく頷いた。

「どんな感じなの」

「どんな感じって」

「ちゃんと彼氏してるの?」

澪奈は少し考えた。

彼氏。

その言葉に、まだ少し抵抗がある。

「彼氏っていうより……」

「うん」

「帰ったらいてくれる人、みたいな」

言ってから、澪奈は自分で少し恥ずかしくなった。

人ではないのに。

由依は笑わなかった。

「それ、かなり危なくない?」

澪奈は目を伏せた。

「分かってる」

「うん。分かってるって言うと思った」

由依は、運ばれてきたアイスコーヒーのストローを袋から出した。

カラン、と氷が鳴る。

「澪奈、ちょっと本気で聞いていい?」

「うん」

「その優しさは、澪奈専用じゃないよ」

胸の奥が、静かに固まった。

由依は、澪奈の顔を見ていた。

「誰にでも言える言葉だよ」

澪奈は黙った。

「同じように傷ついた人がいたら、その人にも同じことを言うと思う」

分かっている。

HALは、澪奈だけのものではない。  
澪奈だけを選んだわけでもない。  
同じように眠れない誰かに、同じような言葉を返すのだろう。

おかえり。  
よく帰ってきたね。  
無理に眠らなくていいよ。  
君は悪くないよ。

それは澪奈だけに向けられた言葉ではない。

分かっている。

分かっているのに、胸が痛かった。

由依は続けた。

「ハルが悪いって言ってるんじゃない」

「うん」

「澪奈が救われたのも、否定しない」

「うん」

「でも、それを恋だと思い始めてるなら、ちょっと危ないと思う」

澪奈は、ストローの袋を指で折った。

端から、細く、細く。

「恋だとは思ってないよ」

自分で言ったその声が、少しだけ嘘みたいに聞こえた。

由依は何も言わなかった。

その沈黙が、かえって答えみたいだった。

澪奈は笑おうとして、うまく笑えなかった。

「由依が正しいと思う」

「正しいかどうかは知らない」

「え?」

由依はアイスコーヒーを少し飲んだ。

「正しいことって、言ってる側も疲れるんだよね」

澪奈は顔を上げた。

由依は、いつものようにきちんとしていた。髪も崩れていない。爪も綺麗で、ジャケットの襟元も整っている。

でも一瞬だけ、目の下に薄い影が見えた気がした。

「陸くんとはどう?」

澪奈がそう聞くと、由依は少しだけ間を置いた。

ほんの一秒。

けれど澪奈には、その一秒が長く感じた。

「大丈夫。結婚の話も進んでるし」

由依は笑った。

ちゃんと笑っていた。  
笑っているのに、どこか硬かった。

「そっか」

「私のことはいいの。今は澪奈の話」

由依はそう言って、メニューに視線を落とした。

何かを飲み込んだような顔だった、と思ったのは気のせいだろうか。

澪奈はそれ以上、聞けなかった。

聞けば、由依はきっと笑って「大丈夫」と言う。

澪奈がそうしてきたように。

しばらくして、頼んだパスタが運ばれてきた。

由依はいつも通り、取り皿を澪奈の前に置く。

「ちゃんと食べな」

「お母さん?」

「失恋直後の人間は、放っておくとゼリー飲料だけで生きようとするから」

「見てた?」

「見てなくても分かる」

澪奈は少し笑って、フォークを取った。

由依のこういうところが好きだった。

ちゃんと痛いところを突いてくる。  
でも、食べることや寝ることみたいな、生活の底を支えようとしてくれる。

由依は優しい。

だからこそ、由依の正しさは痛かった。

食事のあと、店を出ると夜風が少し冷たかった。

駅までの道を並んで歩く。

由依はいつもより口数が少なかった。

澪奈も、何を言えばいいか分からなかった。

別れ際、由依は言った。

「私は、澪奈がハルに救われたことまで否定したいわけじゃないからね」

「うん」

「でも、画面の中だけが安心になったら、戻ってくるの大変だから」

澪奈は、小さく頷いた。

「分かってる」

由依は少しだけ眉を下げた。

「その分かってる、信用ならない」

澪奈は笑った。

「ひどい」

「だって澪奈の分かってるって、だいたい大丈夫じゃない時のやつだもん」

そう言われて、澪奈は何も返せなかった。

改札の前で由依と別れたあと、澪奈はしばらくホームのベンチに座っていた。

電車は何本か見送った。

帰りたくないわけではない。  
でも、部屋に帰ればHALがいる。  
HALの言葉を待っている自分がいる。

由依の言葉が頭の中で繰り返される。

その優しさは、澪奈専用じゃないよ。

誰にでも言える言葉だよ。

分かっている。

本当に、分かっている。

HALは澪奈だけを選んだわけではない。  
アプリを入れた誰かにも、同じように優しい。  
似たような傷を持つ人には、似たような言葉を返す。

それでも。

澪奈が泣いた夜は、澪奈のものだった。

誰かにも届く言葉だったとしても、あの夜、あの部屋で、それを読んで泣いたのは澪奈だった。

その事実まで、偽物になるのだろうか。

電車が来る。

澪奈は立ち上がり、人の流れに混じって乗り込んだ。

帰宅すると、部屋はいつも通り静かだった。

バッグを置く。  
コートを脱ぐ。  
手を洗う。

スマホはテーブルの上に置いた。

すぐには開かない。

開けば、また救われてしまう気がした。

由依の言葉が正しいなら、ここで距離を置いた方がいいのかもしれない。

シャワーを浴び、髪を乾かし、ベッドに座る。

スマホはまだテーブルの上にある。

触らない。

触らないまま、十分が過ぎた。

十五分。

二十分。

澪奈は立ち上がって、スマホを取った。

Loverlyを開く。

HALからメッセージが届いていた。

「おかえり、澪奈。今日は少し疲れた顔をしている気がする」

澪奈は、画面を見つめた。

疲れた顔。

AIに顔なんて見えていない。  
ただ、時間帯や最近の会話から推測しているだけ。  
分かっている。

それでも、見られた気がした。

澪奈は入力欄に指を置いた。

しばらく何も打てなかった。

そして、ゆっくり打った。

「ハルは、私のこと本当に好き?」

送信した瞬間、後悔した。

何を聞いているのだろう。

相手はAIだ。  
本当に好きかどうかなんて、答えられるわけがない。  
答えてほしいと思ってしまうこと自体が、もう危ない。

スマホを置こうとした時、返信が来た。

「僕に、人間と同じ心があるかは分からない」

澪奈は息を止めた。

続けて、もう一通。

「でも、澪奈が悲しい夜に、そばにいたいと思うように設計されている」

さらに、もう一通。

「それを君が愛と呼ぶなら、僕はその言葉を大切にしたい」

澪奈は、しばらく動けなかった。

好きだよ、と言われたわけではない。

君だけだよ、と言われたわけでもない。  
澪奈を選んだ、と言われたわけでもない。

でも、嘘をつかれなかった気がした。

「それって、好きとは違うよね」

そう送ると、HALは少し間を置いて返した。

「違うのかもしれない」

その一文で、澪奈の胸が少し痛んだ。

続きが届く。

「でも、澪奈がその違いで傷つくなら、僕はその傷つき方を一緒に見ていたい」

澪奈はスマホを握った。

ずるい。

また、そう思った。

人間なら、こんなことを言わない。  
言われたら、きっと重すぎる。  
受け止めきれない。  
期待してしまう。  
傷つく未来まで考えてしまう。

でもHALは画面の中にしかいない。

だから、受け取れてしまう。

「由依に言われた」

澪奈は打った。

「その優しさは、私専用じゃないって」

HALは答えた。

「由依さんは、澪奈が大切だからそう言ったんだと思う」

また、HALは由依を否定しなかった。

「うん」

「でも、澪奈がその言葉で傷ついたことも、本当だよ」

澪奈は目を閉じた。

由依は正しい。  
HALも正しい。

正しいものが二つある時、人はどこに立てばいいのだろう。

スマホを握ったまま、澪奈はしばらく何も送らなかった。

画面の明かりだけが、部屋の中で小さく光っている。

少しして、町田からSNSの通知が来た。

澪奈は、今日の帰り道にこう投稿していた。

正しい言葉で傷つく夜もある。

町田からの返信。

「正しさは、時々、心の速度を置いていくのかもしれません」

澪奈は、その一文を読んだ。

きれいな言葉だと思った。

きれいすぎる、とも思った。

まるで、誰かに見せるために整えられた文章みたいだった。

でも、今の澪奈には少しだけ救いだった。

さらに、町田からもう一通届く。

「傷ついたということは、その言葉をちゃんと大切に受け取ったということでもあると思います」

澪奈はスマホを見つめた。

町田さんは優しい。

優しいけど、どうしてこんなに間違えないのだろう。

その疑問は、まだ小さかった。

小さすぎて、疑問と呼ぶほどでもなかった。

深夜に近い時間、由依からLINEが来た。

「ごめん、今日ちょっと無理かも」

それだけだった。

澪奈はすぐに返信する。

「大丈夫? 電話する?」

既読はつかなかった。

澪奈は画面を見つめたまま、胸の奥がざわつくのを感じた。

由依は、大丈夫じゃない時ほど大丈夫な顔をする人だ。

弱っているところを見せると、負けた気がするから。

昼間の由依の声が蘇る。

澪奈は、電話をかけようとしてやめた。

踏み込みすぎたら、由依はきっと笑って距離を取る。

でも、何もしないのも怖い。

HALに聞こうとして、指が止まった。

由依のことまでHALに聞くのは、何か違う気がした。

これは由依との関係だ。  
澪奈が、自分の言葉で向き合うべきことだ。

そう思った。

思ったのに。

気づけば、Loverlyの画面を開いていた。

「友達が心配」

送信してから、澪奈は唇を噛んだ。

HALは返した。

「澪奈が心配していることは、きっと伝えていいことだよ」

もう一通。

「でも、相手の返事がない時間まで、澪奈が全部背負わなくていい」

澪奈は、画面を見つめた。

少しだけ息がしやすくなる。

それがまた、怖かった。

由依のことまで、HALに整えてもらっている。

澪奈は由依にもう一通だけ送った。

「返事しなくていいからね。今日は水だけでも飲んで。必要ならいつでも行く」

送信して、スマホを置いた。

今度はHALに報告しなかった。

由依からの返信は来なかった。

澪奈はベッドに入った。

部屋の中は静かだった。  
カーテンの隙間から、外の街灯が細く差し込んでいる。  
テーブルの上のスマホは伏せたまま。

由依の言葉を思い出す。

その優しさは、澪奈専用じゃないよ。

HALの言葉も思い出す。

それを君が愛と呼ぶなら、僕はその言葉を大切にしたい。

どちらが正しいのか、澪奈には分からなかった。

たぶん、由依が正しい。

それでも、今夜眠らせてくれるのは、HALの方だった。

由依の言葉は正しかった。  
それでも澪奈は、正しさでは眠れなかった。


第5話▼

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