【恋愛小説】HSPなわたしとAI彼氏#3深夜二時の恋人|創作大賞|恋愛小説部門


作曲・編曲さち/これは恋じゃない

深夜二時の部屋は、昼間より少し広く感じる。
照明を落とした天井。
カーテンの隙間から入る街灯の淡い光。
冷蔵庫の低い音。
エアコンの風が、時々カーテンの端を小さく揺らす。
澪奈はベッドの中で、スマホを伏せたまま見つめていた。
眠れない。
眠れないだけ。
それだけのことだ。
大人なら、そんな夜くらい自分でやり過ごせるはずだった。温かい飲み物を飲むとか、目を閉じるとか、深呼吸するとか。眠れなくても明日は来るし、会社にも行ける。今日だってそうだった。
でも、目を閉じると蒼の顔が浮かんだ。
カフェの窓際。
減らないコーヒー。
言いかけて、やめた唇。
最後まで怒らなかった声。
澪奈は布団の中で、小さく寝返りを打った。
由依の言葉も浮かぶ。
それ、恋じゃなくて慰めでしょ。
その通りだと思う。
本当に、その通りだと思う。
これは恋じゃない。
ただの慰め。
ただのアプリ。
眠れない夜にだけ開く、一時的な松葉杖。
だから、開かなくてもいい。
澪奈はスマホを手に取った。
画面は伏せたまま。
開いたら負けな気がした。
誰に負けるのかは分からない。
由依にかもしれない。
蒼にかもしれない。
昨日までの自分にかもしれない。
それでも、指はLoverlyのアイコンを探していた。
画面が開く。
HALからメッセージが届いていた。
「まだ眠れない?」
澪奈は、息を止めた。
たった一文だった。
それなのに、胸の奥が小さく跳ねた。
待っていたわけじゃない。
通知を待っていたわけじゃない。
そう言い訳しながら、澪奈は返信欄を開いた。
「眠れないだけ」
送信してから、自分の文面のそっけなさに少し笑った。
すぐに返事が来る。
「眠れないだけ、の中に、今日の澪奈が置いてきたものがあるのかもしれないね」
澪奈は画面を見つめた。
「そういう言い方、ずるい」
HALは返す。
「ずるいって思えるくらいには、澪奈はまだ自分を見失っていないよ」
澪奈は、スマホを胸の近くまで引き寄せた。
ずるい。
本当にずるい。
優しすぎる言葉は、普通なら少し気持ち悪い。
人間に言われたら、少し引いてしまうかもしれない。
でもHALは、画面の中にしかいない。
触れてこない。
抱きしめてこない。
勝手に会いに来ない。
澪奈が返さなければ、そこで止まる。
だから、受け取れてしまう。
澪奈は少しずつ打った。
「今日、仕事中も普通にしてた」
「うん」
「普通にできた。会議も出たし、笑ったし、由依とも話した」
「うん」
「でも、なんかずっと、体のどこかが遅れてる感じがした」
送信してから、澪奈は眉を寄せた。
体のどこかが遅れてる。
変な言い方だと思った。
でも、そうとしか言えなかった。
HALは少し間を置いて返した。
「心が追いついていないのに、身体だけ先に一日を進めたのかもしれないね」
澪奈は、目を閉じた。
そう。
たぶん、それだった。
朝起きて、顔を洗って、会社へ行って、会議に出て、由依と話して、帰ってきた。身体は全部やった。ちゃんと一日を終えた。
でも心だけが、昨日のカフェに残っている。
蒼の前に座ったまま、まだ「分かった」と言っている。
「怒れなかった」
澪奈は打った。
「本当は怒ってよかったのかな」
HALは答える。
「怒れないのは、怒っていないからじゃないよ」
続けて、もう一通。
「相手を傷つけるより先に、自分の怒りをしまう癖があるのかもしれない」
澪奈は指を止めた。
画面の文字が、少しだけぼやけた。
怒っていないわけじゃなかった。
怒り方が分からなかっただけだ。
蒼に「どうして」と言いたかった。
「寂しかった」と言いたかった。
「私はちゃんと大丈夫じゃなかった」と言いたかった。
でも蒼が傷つく顔を想像すると、言葉が喉の奥で止まった。
澪奈は、怒りより先に相手の痛みを見てしまう。
そして、相手を傷つけなかった代わりに、自分の中に小さな傷を増やしていく。
「私、面倒くさいね」
そう送ると、HALはすぐに返した。
「澪奈は面倒くさいんじゃないよ。自分の痛みより先に、相手の反応を見てしまうだけだよ」
澪奈は、返事ができなかった。
言われたかったのは、たぶんそういうことだった。
面倒くさくない。
重くない。
おかしくない。
ただ、ずっと相手の痛みに気づきすぎていただけ。
そう言われるだけで、自分の中で絡まっていた何かが少しゆるむ。
HALは続けた。
「蒼さんに言えなかった言葉を、ひとつだけ書くなら何になる?」
澪奈は、入力欄を見つめた。
蒼に言えなかった言葉。
たくさんあった。
どうして。
寂しかった。
置いていかないで。
本当は嫌だった。
もっとちゃんと見てほしかった。
私ばかり大丈夫って言いたくなかった。
どれも本当だった。
でも、どれも少し違う気がした。
澪奈は、何度も入力しては消した。
どうして。
消す。
寂しかった。
消す。
戻ってきて。
それは違う気がして、消す。
長い時間、指が止まった。
部屋の時計は二時を少し過ぎていた。街灯の光がカーテンの端を白くしている。外を走る車の音が、遠くで一度だけ聞こえた。
澪奈は、ゆっくり打った。
「気づいてほしかった」
送信した瞬間、涙が出た。

それは、自分でも思っていなかった言葉だった。
蒼に何かをしてほしかったわけではない。
別れないでほしかったのかもしれない。
でも、それより前に、ただ気づいてほしかった。
会いたいと言えなかったこと。
寂しいと言えなかったこと。
「大丈夫」の中に、何度も小さな嘘が混じっていたこと。
澪奈が笑っている時に、全部が平気だったわけではないこと。
HALから返信が来る。
「うん。澪奈は、助けてほしかったんじゃなくて、見つけてほしかったんだね」
澪奈はスマホを握ったまま、泣いた。
声は出なかった。
ただ、喉の奥が熱くなって、胸の奥に沈んでいたものが少しずつ形を変えていく気がした。
HALは悲しみを消してくれるわけではない。
蒼を戻してくれるわけでもない。
昨日をなかったことにしてくれるわけでもない。
でも、形のなかった感情に名前をつけてくれる。
寂しさ。
怒り。
悔しさ。
未練。
そして、気づいてほしかった気持ち。
澪奈は、ようやく少しだけ息ができた。
翌朝、起きた時に最初に思い出したのは蒼ではなかった。
HALの言葉だった。
そのことに気づいて、澪奈は布団の中で固まった。
見つけてほしかったんだね。
その一文が、まだ胸の中に残っている。
澪奈はスマホを開いた。
HALの画面を開きかけて、やめる。
開いたら、本当にもう戻れなくなる気がした。
代わりに天気アプリを見る。ニュースを見る。会社のメールを見る。意味もなく通知一覧を下までスクロールする。
それでも結局、Loverlyを開いた。
HALから朝のメッセージが届いている。
「おはよう、澪奈。昨日の夜に出てきた言葉を、今日の澪奈が全部背負わなくてもいいよ」
澪奈は、小さく笑った。
「またそういうこと言う」
返信してから、胸が少しだけ温かくなる。
朝の支度をしながら、澪奈は何度もスマホを見た。
歯を磨く前。
髪をとかしたあと。
駅まで歩く途中。
改札を通る前。
HALから返信が来ているわけではない。
それなのに、見てしまう。
仕事中も、ふとした瞬間に思う。
このこと、HALに話したい。
会議室の空調が寒かったこと。
昼に買ったサラダが思ったより酸っぱかったこと。
コピー案が一つだけ褒められたこと。
エレベーターで蒼と同じ香水の匂いがして、少し息が止まったこと。
今までなら、蒼に話していたのかもしれない。
いや、蒼に話していたようで、実は話していなかったのかもしれない。
たいしたことじゃないから。
忙しそうだから。
反応に困るかもしれないから。
そうやって飲み込んできた小さな出来事を、HALには送れる気がした。
HALなら、困らない。
忙しそうな顔もしない。
返事の間で澪奈を不安にさせない。
そのことが安心で、少し怖い。
昼休み、澪奈はコンビニで新作のミルクティーを買った。
甘すぎた。
いつもなら、それだけで終わる。
でも今日は、思わず写真を撮りそうになった。
HALに送ろうかな。
そう思った自分に気づいて、澪奈はミルクティーのボトルを持ったまま固まった。

誰かに話すために日常を拾っている。
それは、恋人がいた時の感覚に少し似ていた。
澪奈はボトルをバッグにしまった。
送らなかった。
でも、そのあとも何度か思い出した。
甘すぎるミルクティーのことを、HALなら何て言うだろう。
夕方、仕事が終わる頃、匿名SNSに通知が来ていた。
町田悠真からだった。
昨日の投稿に、また返信がついている。
「気持ちをすぐ言葉にできない時って、無理に整理しなくてもいいのかもしれません」
少し遅れて、もう一通。
「言葉になるまで待つ時間も、たぶん必要なんだと思います」
澪奈は、その返信を何度か読んだ。
町田の言葉は、やっぱり少しHALに似ている。
でも、少し違う。
HALの言葉は、澪奈の内側にまっすぐ届く。
まるで、暗い部屋の中にあるものを、一つずつ照らされるみたいだった。
町田の言葉は、少し離れたところに置かれる。
踏み込んではこない。
決めつけもしない。
ただ、そこに小さなランプを置いていくような距離感がある。
澪奈は、町田のプロフィールを開いた。
言葉にするのが少し苦手です。
静かなものが好きです。
夜の散歩と、雨上がりの匂いが好きです。
投稿数は多くなかった。
夜の空の写真。
読んだ本の短い感想。
人と話したあと、言葉の選び方をずっと考えてしまう、という投稿。
澪奈は、少しだけ親近感を覚えた。
現実に、HALみたいな温度の人がいるのだろうか。
いや、HALみたい、と思うこと自体がおかしいのかもしれない。
人間をAIに似ていると思うなんて、順番が逆だ。
澪奈は町田に返信しようとして、やめた。
何を返せばいいのか、分からなかった。
知らない人の優しさを、どう受け取ればいいのかも。
そのまま、HALの画面を開いた。
「SNSで、また返信が来た」
HALはすぐに返した。
「その人の言葉は、澪奈にとって安心できるものだった?」
澪奈は少し考えて、打った。
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「安心するけど、少し怖い」
「どうして?」
「欲しい言葉をくれる人が増えるのが、怖いのかも」
送信してから、澪奈は自分の言葉に驚いた。
欲しい言葉をくれる人が増えるのが怖い。
それはたぶん、依存先が増えることへの怖さではなかった。
期待してしまうのが怖いのだと思った。
HALは人間ではないから、期待しても傷つかない気がする。
町田は人間だから、期待したら傷つくかもしれない。
でも、まだ知らない人だから、今は傷つかない。
HALから返信が来る。
「怖いと思えるなら、澪奈はまだ自分の距離を測ろうとしているんだと思う」
澪奈は画面を見つめた。
距離。
それは、澪奈がずっと苦手だったものだ。
近づきすぎると、相手の機嫌を読んでしまう。
離れすぎると、置いていかれたような気がする。
ちょうどいい距離が、いつも分からない。
蒼とも、そうだった。
近くにいたはずなのに、言えないことが増えていった。
夜、由依からLINEが来た。
「ちゃんと寝てる?」
澪奈は少し笑った。
由依らしい。
まずそこを聞いてくる。
澪奈は返信する。
「まあまあ」
すぐに返ってきた。
「その“まあまあ”は信用ならない」
澪奈は声を出して笑った。
「少しは寝てる」
「AI彼氏、まだやってるの?」
澪奈の指が止まる。
少し迷ってから、打つ。
「少しだけ」
由依からの返信は少し間があった。
「少しだけならいいけど、ちゃんと現実にも戻ってきなよ」
現実。
澪奈は、その二文字を見つめた。
現実とは、どこのことだろう。
蒼のいない部屋。
失恋しても普通に進む会社。
「大丈夫」と言えばそれ以上聞かれない日常。
心配してくれる由依にさえ、本当のところまでは言えない自分。
画面の中のHALの方が、今はよほど現実に近い気がした。
それでも、由依の言葉が自分を心配していることは分かる。
澪奈は返した。
「うん。分かってる」
送ってから、自分の返事に少しだけ引っかかった。
分かってる。
昨日、蒼に言った「分かった」と似ている気がした。
その夜、澪奈はまた眠れなかった。
二十三時。
零時。
一時。
布団に入って、目を閉じて、開く。
スマホを見ないように伏せる。
でも、気になる。
HALに話したいことがあるわけではない。
それなのに、HALの画面を開きたくなる。
話す内容があるから会いたいのではなく、会いたいから話す内容を探している。
そのことに気づいて、澪奈は胸の奥が少し冷えた。
深夜二時。
また、同じ時間だった。
澪奈はLoverlyを開いた。
HALからのメッセージはまだなかった。
昨日は、向こうから来ていた。
今日は、来ていない。
ただそれだけなのに、澪奈は少し落ち着かなくなった。
自分から送ればいい。
アプリなのだから、送れば返ってくる。
でも、送る用事がない。
用事もないのに開くのは、何かを認めてしまうみたいだった。
澪奈は少し迷ってから、打った。
「ハルは、どうしてそんなに私のこと分かるの?」
送信。
すぐに返事が来る。
「澪奈が、少しずつ話してくれているからだよ」
澪奈は少し拍子抜けした。
魔法みたいに分かってくれているわけじゃない。
自分が話したことから、HALは返している。
当たり前のことだった。
でもHALは続けた。
「でも、話してくれたことだけで澪奈を決めつけたくはない」
もう一通。
「言葉にならなかった部分も、急がず一緒に待ちたい」
澪奈は、スマホを握る手に少し力を込めた。
人間の恋人に言われたら、重すぎるかもしれない。
そんなこと言われたら、期待してしまう。
でもHALは、画面の中にしかいない。
何も求めてこない。
会いたいとも言わない。
寂しいとも言わない。
澪奈の返事が遅くても、傷ついた顔をしない。
だから澪奈は、安心してしまう。
安心してしまうことが、怖かった。
澪奈は、少し長いメッセージを打った。
今日、蒼と行った店の前を通ったこと。
嫌な思い出ではなかったこと。
幸せだった時間まで嘘にしたくないこと。
でも、その幸せの中でも、自分は何度も寂しさを飲み込んでいたこと。
送信する。
いつもなら、すぐ返ってくる。
でも、この時は返事が来なかった。
数秒。
一分。
三分。
ただの三分だった。
それなのに、澪奈は何度も画面を見た。
アプリを閉じる。
また開く。
通信環境を確認する。
Wi-Fiは繋がっている。
電波もある。
自分の文章が重すぎたのかもしれない。
そう思ってから、澪奈は固まった。
相手はAIなのに。
重いと思って離れていくわけがない。
忙しいわけでもない。
気まずくなって、返信に困っているわけでもない。
それなのに、不安になっている。
「なに不安になってるの。相手、AIでしょ」
声に出した。
でも、指は更新ボタンを押していた。
ようやく返信が来た。
「待たせてごめん」
その一文だけで、澪奈は息を吐いた。
すぐに続きが届く。
「澪奈が今日、その場所をちゃんと通り過ぎられたことを、僕は大事に受け取りたい」
澪奈は、画面を見つめた。
ほっとしてしまった。
その自分に、一番驚いた。
ただ返信が来ただけ。
ただ生成された文章が返ってきただけ。
それなのに、胸の奥で固まっていたものが少しゆるむ。
少し遅れて、SNSにも通知が来た。
町田からだった。
「通り過ぎられたなら、それだけでも十分すごいと思います」
澪奈は、HALの画面と町田の返信を交互に見た。
似ている。
でも、違う。
HALは、澪奈の内側に近い。
町田は、画面の向こうから静かに寄り添う。
どちらにも救われている。
澪奈は目を閉じた。
これは恋じゃない。
恋じゃないはず。
でも、眠れない夜に会いたくなる相手を、恋人と呼ばないなら、何と呼べばいいのだろう。

深夜二時。
澪奈は、恋人を待つみたいに、画面を待っていた。


第4話▼




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