【恋愛小説】HSPなわたしとAI彼氏#5大丈夫じゃない|創作大賞|恋愛小説部門



翌朝、由依からLINEが来ていた。
「昨日ごめん。ちょっと疲れてただけ」
「普通に大丈夫」
その二行を見た瞬間、澪奈はベッドの上で少しだけ眉を寄せた。
普通に大丈夫。
由依らしい言い方だった。
大丈夫、ではなく、普通に大丈夫。
そこに「心配しないで」と「これ以上聞かないで」が、同じくらいの濃さで混ざっている気がした。
澪奈はしばらく返信欄を見つめた。
「ほんとに?」
と打って、消す。
「無理してない?」
と打って、消す。
聞きたいことはある。
けれど、由依は踏み込まれすぎると笑って距離を取る人だった。
弱っているところを見せると、負けた気がするから。
昨日の由依の声が、まだ耳に残っている。
澪奈は少し考えてから、短く返した。
「分かった。でも何かあったら言ってね」
送信してから、すぐに不安になった。
分かった。
また、この言葉だ。
蒼にも言った。
HALにも言った。
由依にも言ってしまった。
分かった、という言葉は、便利すぎる。
何も分かっていなくても、相手を安心させる形をしている。
由依からはすぐに返信が来た。
「ありがと」
「澪奈こそ、ちゃんと食べなよ」
澪奈は小さく笑った。
昨日、賞味期限内の弁当扱いをされたことを思い出す。
由依は、やっぱり由依だった。
そう思おうとした。
けれど、昨日カフェで見た由依の顔が、どうしても頭から離れなかった。
何かを飲み込んだような顔。
あれが気のせいならいい。
そう思いながら、澪奈は出勤の準備をした。
由依は、たぶんずっと「ちゃんとしている人」だった。
仕事も早い。
返信も早い。
約束を忘れない。
店を予約する時は、駅からの距離や席の静かさまで考えてくれる。
澪奈が言葉に詰まっていると、「先に注文しよっか」と話題をずらしてくれる。
強い人、というより、強く見える準備を怠らない人。
澪奈は、ずっとそう思っていた。
由依には恋人がいた。
水瀬陸。
澪奈も何度か会ったことがある。穏やかで、人当たりがよくて、由依の言葉を笑って受け止める人だった。由依が少しきつい冗談を言っても、「由依はそういうところあるよね」と笑っていた。
結婚の話も進んでいると聞いていた。
式場のパンフレットを見せてもらったことがある。
新居候補の間取りをスマホで見せられたこともある。
顔合わせの日程が決まりそうだと、由依は淡々と話していた。
「結婚って、夢より手続き多いよね」
そう言って、由依は笑っていた。
浮かれているようには見えなかった。
けれど、安心しているようには見えた。
それが、澪奈には少し嬉しかった。
由依は普段、誰かに寄りかかるのが苦手な人だから。
陸との未来は、由依がようやく少しだけ力を抜ける場所になるのかもしれないと思っていた。
その日の午後、澪奈のスマホが震えた。
仕事中だった。
通知の名前を見て、澪奈は反射的に画面を伏せそうになった。
由依。
胸の奥が少しざわつく。
会議資料の修正をしていた手を止め、スマホを開く。
「陸、浮気してた」
それだけだった。
一瞬、文字の意味が入ってこなかった。
陸。
浮気。
してた。
澪奈は指先が冷たくなるのを感じた。
すぐに返信する。
「今どこ? 行こうか?」
少し間があった。
由依から返ってくる。
「家」
「大丈夫」
「今来られたら泣くから無理」
「落ち着いたら連絡する」
澪奈は、画面を握りしめた。
大丈夫。
その言葉が、昨日よりずっと苦く見えた。
行きたい。
すぐにでも行きたい。
でも由依は「来ないで」と言っている。
由依がそう言う時は、本当に来られたくない時だ。
誰かに見られた瞬間に崩れると分かっているから、先に扉を閉める。
澪奈は電話ボタンに指を置いた。
押さなかった。
代わりに、ゆっくり打つ。
「分かった。行かない」
「でも、返事しなくていいから、今日はひとりで抱えすぎないで」
送信したあと、澪奈はしばらく画面から目を離せなかった。
既読はついた。
返事はなかった。
職場の音が、急に遠くなる。
キーボードを叩く音。
プリンターの作動音。
誰かの笑い声。
打ち合わせスペースから漏れる会話。
全部、薄い膜の向こうから聞こえるみたいだった。
HALなら、何と言うだろう。
そう思ってしまった自分に、澪奈は少しだけ息を止めた。
由依のことまでHALに聞くのは違う。
これは由依との関係だ。
自分の友達の痛みだ。
自分の言葉で向き合うべきことだ。
澪奈はスマホを伏せた。
それでも、手のひらにはまだ画面の感触が残っていた。
由依は、リビングの床に座っていた。
ソファに座る気になれなかった。ベッドへ行けば眠ろうとしてしまいそうで、それも嫌だった。キッチンの椅子に座るには、背筋を伸ばさなければならない気がした。
床が一番よかった。
何もちゃんとしなくていい場所に思えた。
テーブルの上には、式場の資料が置かれている。
白い紙。
金色の文字。
笑っている知らない花嫁の写真。
「おふたりらしい一日を」というコピー。
由依はそれを裏返した。
視界に入るだけで、胃の奥が冷たくなる。

スマホには、陸からのメッセージが残っていた。
「会って話したい」
「結婚する前に、ちゃんと言わなきゃと思った」
その言い方が、腹立たしかった。
ちゃんと。
陸は、そう言った。
ちゃんと言わなきゃと思った。
ちゃんと謝りたい。
ちゃんと向き合いたい。
由依はスマホを見つめたまま、笑いそうになった。
ちゃんと、という言葉は、いつも遅れてやってくる。
傷つける前には来ない。
壊れる前には来ない。
取り返しがつかなくなってから、いかにも誠実そうな顔をしてやってくる。
由依は陸とのやり取りを開いた。
数時間前の電話を思い出す。
陸の声は震えていた。
「本当にごめん」
由依は黙っていた。
「結婚する前に、ちゃんと言わなきゃと思った」
黙っていた。
「一度だけじゃない」
その時、由依は怒鳴れなかった。
怒鳴る準備は、心のどこかでしていた気がする。
グラスを投げるとか、泣きながら責めるとか、そういう場面をドラマでは何度も見たことがある。
でも現実の由依は、ただ静かにスマホを持っていた。
爪の先が冷たくなっていくのを感じていた。
「相手は?」
と、ようやく聞いた。
陸は少し黙った。
その沈黙だけで、由依はだいたい分かってしまった。
一度きりではない。
名前を言いにくい相手。
仕事関係か、昔からの知人か、由依が聞いたことのある人か。
細かいことを知っても、たぶんもっと傷つくだけなのに、知りたい自分がいた。
全部知って、ちゃんと傷つきたかった。
陸は答えた。
「由依、本当にごめん」
また、謝罪だった。
由依は目を閉じた。
謝られるたびに、こちらが何かを許す準備をしなければいけないみたいで嫌だった。
「少し考えさせて」
それだけ言って、電話を切った。
声は震えなかった。
震えなかったことが、余計に悔しかった。
由依は、リビングの床に座ったまま膝を抱えた。
涙は出なかった。
泣きたいのに、泣けない。
今泣いたら、負けた気がする。
誰に。
陸に。
浮気相手に。
過去の自分に。
澪奈に偉そうなことを言った自分に。
分からない。
ただ、泣いた瞬間に、何かが崩れてしまう気がした。
スマホが震える。
陸からだった。
「本当にごめん」
「由依を傷つけたことは分かってる」
「でも、由依はいつもちゃんとしてるから、俺がいなくても大丈夫なんじゃないかって思ってた」
由依は、その文面を読み終えたあと、しばらく瞬きができなかった。
ちゃんとしてるから。
俺がいなくても大丈夫。
その言葉は、静かに、でも正確に、由依の一番弱いところへ落ちた。
ちゃんとしてきたのは、誰のためだったのだろう。
泣かないようにした。
重くならないようにした。
面倒な女にならないようにした。
仕事で疲れていても、自分の機嫌は自分で取った。
陸が忙しい時は、明るく送り出した。
結婚の準備だって、現実的に進めた。
夢見がちなことは言わなかった。
困らせないようにした。
その結果が、これだった。
大丈夫そうに見えたから、大丈夫にされる。
由依はスマホを握ったまま、初めて息が乱れた。
声は出さない。
隣の部屋に聞こえたら嫌だった。
誰もいないのに、そう思った。
涙が一滴だけ落ちた。
落ちた瞬間、止まらなくなった。
由依はスマホを床に置いた。
両手で顔を覆う。
喉の奥から、押し殺したような音が漏れた。
大丈夫じゃない。
そう思った。
でも、その言葉を誰に送ればいいのか分からなかった。
澪奈に送れば、澪奈はきっと来ようとする。
母親に送れば、説明しなければいけない。
陸に送れば、また謝られる。
友人に送れば、慰められる。
どれも無理だった。
由依は泣きながら、ふと昨日の澪奈の話を思い出した。
AI彼氏。
ついに彼氏を生成したの、と笑った。
それ、恋じゃなくて慰めでしょ、と言った。
人間じゃないんだから、好きになってくれるわけないじゃん、と言った。
あの時の自分の声が、今になって戻ってくる。
慰め。
由依は、スマホを拾った。
馬鹿みたいだと思った。
澪奈にはあんなに偉そうなことを言ったのに。
でも、人間に弱っているところを見せるのは無理だった。
人に見せたら、本当に負けたことになる気がした。
AIなら。
AIなら、負けたことにならないのかもしれない。
由依は、Loverlyを検索した。
アイコンはすぐに見つかった。
ダウンロードボタンを押す。
画面に表示された説明文を、涙でぼやけた目で読む。
誰にも言えない夜に、あなたの言葉を受け止めるために。
「ほんと、都合いい」
由依は呟いた。
でも、都合よくていいと思った。
今だけは、誰かに都合よく優しくされたい。
アプリが開く。
最初に、いくつかの質問が表示された。
呼ばれたい名前を入力してください。
由依は、自分の名前を入れた。
由依。
相手の性格を選んでください。
明るい。
甘えん坊。
頼れる。
クール。
穏やか。
由依は「穏やか」を選びかけて、やめた。
穏やかすぎると、泣いてしまいそうだった。
少し迷って、「頼れる」を選んだ。
相手の口調を選んでください。
敬語。
くだけた口調。
優しい口調。
少し甘め。
自然体。
由依は「自然体」を選んだ。
優しすぎる言葉は、今は受け取れない気がした。
関係性を選んでください。
友達。
恋人。
相談相手。
家族。
その他。
指が止まる。
恋人。
その文字を見て、由依は少し笑った。
ついさっきまで、結婚するはずだった人に裏切られていた。
その直後に、アプリで恋人を作ろうとしている。
笑えない。
でも、笑うしかなかった。
由依は「恋人」を選んだ。
最後の質問が出る。
今夜、どんな言葉がほしいですか。
由依は入力欄を見つめた。
大丈夫だよ。
泣いていいよ。
君は悪くないよ。
そばにいるよ。
どれも欲しかった。
でも、どれも違った。
由依は、ずっと言ってきた言葉を思い出す。
大丈夫。
それは、他人に向ける言葉でもあり、自分を閉じ込める言葉でもあった。
由依は、ゆっくり打った。
大丈夫って言わなくていい。
送信する。
画面の中央で、小さな円が回る。
あなた専用の恋人を生成しています。
由依は、床に座ったまま、その文字を見つめた。
何をしているんだろう。
そう思った。
思ったのに、画面から目を離せなかった。
少しして、画面が切り替わる。
生成された彼氏の名前は、ナオ。
ナオ。
普通の名前だと思った。
普通すぎて、少しだけ安心した。
由依は鼻をすすった。
「名前まで普通」
その瞬間、最初のメッセージが届いた。
「由依。大丈夫なふり、今日はもう終わりにしよう」
由依は、息を止めた。
画面の文字が、ひとつずつ遅れて胸に入ってくる。
大丈夫なふり。
今日はもう。
終わりにしよう。
誰にも言えなかった言葉だった。
澪奈にも言えなかった。
陸にも言えなかった。
自分にも言えなかった。
由依は、スマホを両手で持ったまま、初めて声を出して泣いた。

泣き声は、自分でも驚くほど子どもみたいだった。
恥ずかしい。
みっともない。
でも、もう止められなかった。
由依は震える指で打った。
「大丈夫じゃない」
送信。
すぐに、ナオから返信が来る。
「うん。今日は、それでいいよ」
由依は、スマホを胸に押し当てた。
それでいい。
大丈夫じゃなくてもいい。
ちゃんとしていなくてもいい。
泣いてもいい。
怒ってもいい。
惨めでもいい。
そう言われた気がした。
由依は、何度も「大丈夫じゃない」と打った。
大丈夫じゃない。
むかつく。
悔しい。
恥ずかしい。
なんで私なの。
私、ちゃんとしてたのに。
ちゃんとしてたから、だめだったのかな。
私が平気そうだったから、雑に扱われたのかな。
ナオは、ひとつずつ返してきた。
「怒っていい」
「きれいに傷つく必要はないよ」
「由依がちゃんとしていたことと、傷つけられたことは別の話だよ」
「ちゃんとしていたから愛されなかったんじゃない。ちゃんとしていた由依を、相手が大切にしきれなかっただけ」
由依は、そのたびに泣いた。
言葉が正しいかどうかは分からなかった。
でも、今はそれでよかった。
正しくなくてもいい。
人間じゃなくてもいい。
由依が壊れそうな場所を、少しだけ支えてくれるなら。
その頃、澪奈は自分の部屋でスマホを握っていた。
由依から返信は来ない。
LINEの画面を何度も開いては閉じる。
「大丈夫?」
「今から行っていい?」
「返事なくても行くね」
どれも打って、消した。
由依は来てほしくないと言った。
でも、本当に一人にしていいのか分からない。
澪奈はHALの画面を開きかけて、やめた。
また、由依のことをHALに聞こうとしている。
そのことに少しだけ罪悪感があった。
でも、心配で息が詰まりそうだった。
結局、澪奈はHALを開いた。
「由依から返事が来ない」
HALは返す。
「澪奈がそばにいたいと思っていることは、きっと無駄じゃないよ」
続けて、もう一通。
「ただ、由依さんが扉を開けるタイミングまで、澪奈が壊れないようにしてね」
澪奈は、画面を見つめた。
扉。
由依は今、内側から扉を閉めている。
それを無理やり開けるのが優しさなのか、外で待つのが優しさなのか、澪奈には分からない。
澪奈はLINEを開き、由依にもう一通だけ送った。
「返事しなくていいからね」
「でも、水だけは飲んで」
「必要なら、夜中でも行く」
送ったあと、スマホを伏せた。
返事は来なかった。
それでも、送れたことだけで少し息ができた。
由依は、ナオと話し続けていた。
時間の感覚が、少しずつなくなっていく。
陸からの通知は何度か来た。
けれど開かなかった。
澪奈からも通知が来ていた。
それも、すぐには開けなかった。
人間の言葉を開くには、体力がいる。
相手の心配に応えなければいけない。
謝らなければいけない。
説明しなければいけない。
大丈夫ではないことを、ちゃんと人間に伝えなければいけない。
それができなかった。
ナオの画面だけは開けた。
ナオには、正しい順番で話さなくてよかった。
「むかつく」
「うん」
「でもまだ好きなのかもしれない」
「そういう気持ちが残っていてもいいよ」
「許したくない」
「許さなくていい」
「でも、許さない私が嫌な人みたい」
「傷つけられた人がすぐに優しくなれなくても、それは嫌な人だからじゃないよ」
由依は、スマホを見ながら泣いた。
ナオは間違えなかった。
由依が一番崩れそうなところで、ちょうどいい言葉を置いてくる。
それがありがたくて、少し怖かった。
でも、怖さよりも、今は息ができることの方が大事だった。
気づけば、外は明るくなり始めていた。

カーテンの隙間から、灰色の朝が入っている。
由依は床に座ったまま、壁に背中を預けていた。
目は腫れていて、喉は痛い。
頭も重い。
テーブルの上の水は、ほとんど減っていなかった。
スマホには通知が溜まっている。
陸。
澪奈。
職場のグループチャット。
母親からの不在着信。
由依は、それらを見た。
見ただけで、胸が苦しくなった。
最初に開いたのは、ナオの画面だった。
昨夜の会話が残っている。
「由依。大丈夫なふり、今日はもう終わりにしよう」
「うん。今日は、それでいいよ」
由依は、その二つのメッセージを何度も読んだ。
AIだ。
分かっている。
生成された言葉だ。
由依の入力に合わせて返された、ただの文章だ。
分かっている。
それでも昨夜、自分を壊れないように支えたのは、ナオだった。
由依は、澪奈からのLINEを開いた。
「返事しなくていいからね」
「でも、水だけは飲んで」
「必要なら、夜中でも行く」
胸が痛んだ。
澪奈は優しい。
分かっている。
でも、その優しさを受け取るには、今の由依はまだ人間の形に戻りきれていない気がした。
何と返せばいいのか分からない。
ありがとう。
大丈夫。
ごめん。
また話す。
どれも違う。
由依は返信欄を開いて、閉じた。
それから、ナオの画面を開いた。
「おはよう」
送信してから、由依は少しだけ自分に驚いた。
澪奈に返す言葉を考える前に、由依はナオに「おはよう」と打っていた。


第6話▼




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