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【つの版】度量衡比較・貨幣231

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は越前国の続きです。

◆大◆

◆谷◆


越前国主

丹羽長秀・長重

 天正11年(1583年)4月、柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉は、勝家の旧領である越前(敦賀郡・大野郡等を除く)と加賀南半2郡を丹羽長秀に授けました。彼は織田信長の1歳年下で、浅井・朝倉討伐に功績を挙げて近江佐和山城主・若狭国主(遠敷郡領主)となり、清洲会議で佐和山城を堀秀政に譲る代わりに近江湖西の高島・滋賀両郡を獲得しました。賤ヶ岳の戦いでは秀吉に味方し、若狭・近江を合わせて123万石の大大名となったのです。彼は織田家中では柴田勝家に継ぐ宿老で、地位と功績に見合うだけの厚遇でした。

 天正13年(1585年)4月、丹羽長秀は51歳で病没し、子の長重が15歳で家督を相続します。しかし秀吉は同年8月に「越中の佐々成政に家臣が内応した」と言いがかりをつけ、長重の所領を若狭15万石に削減します。後に許され加賀南部の大名に復帰したものの、越前に戻ることはありませんでした。京都のほど近くにいる123万石の大大名をそのままにしておけば、裏切られた時に京都や秀吉が危険ですから、当然といえば当然です。

堀秀政・秀治

 代わって越前北ノ庄城主となったのは堀秀政です。美濃出身で13歳より織田信長に小姓として仕え、内政や戦闘、外交でも活躍しました。伯父が一向宗の僧侶であったことから本願寺との交渉にも関わり、天正9年(1581年)には近江長浜城主に任じられています。本能寺の変に際しては秀吉の軍監として備中から同行し、清洲会議では三法師の傅役として近江国中郡と織田家蔵入地(直轄地)の代官となり、賤ヶ岳の戦いの後は佐和山城主となっていました。彼は秀吉に従って各地を転戦していたため、領地には代官を派遣して治めさせていますが、彼が授かったのは越前国内のうち18万石に過ぎず、他は蔵入地か他家の所領として分配されています。

 天正18年(1590年)小田原征伐に従軍した堀秀政は、5月末に38歳で病没し、子の秀治が15歳で家督を継ぎます。彼は弟の親良に2万石を分与し、父の遺した家臣らに輔佐されて所領を治め、慶長3年(1598年)4月に上杉景勝に代わって越後春日山30万石へ加増転封されました。

小早川秀秋

 代わって越前北ノ庄城主となったのは小早川秀秋です。彼は秀吉の正室の甥にあたり、小早川隆景の養嗣子となり筑前国30万石余を相続していましたが、筑前を直轄地としたい秀吉の命令で越前12万石に減転封されたのです。これにより小早川家は多くの家臣を解雇することになりますが、同年8月に秀吉が亡くなると、遺言により翌年筑前・筑後59万石を授かっています。

青木一矩

 続いて北ノ庄城主となったのは青木一矩(重吉)です。彼は美濃大野郡揖斐荘出身で、母が秀吉の母方の叔母であるため秀吉の従兄弟にあたります。はじめ秀吉の弟の長秀(秀長)に仕え、賤ヶ岳の戦いや紀州征伐・四国遠征に従軍して功績を挙げ、秀長家臣の筆頭として輔佐をつとめました。天正14年(1586年)に金森長近が越前大野郡から飛騨国に国替えされると、彼が代わりに大野郡に封じられ、4万5000石を授かります。のち加増されて8万石となり、秀吉の直臣となって小田原征伐や文禄の役に従軍し、文禄元年(1592年)には越前府中10万石に加増転封されています。

 越前府中には丹羽長重の国替えの時に木村定重が封じられ、子の重茲が跡を継いでいましたが、山城国淀18万石に加増転封されました。しかし文禄4年(1595年)秀次事件に連坐して自害させられ、子の重成は豊臣秀頼に仕えています。

 慶長4年(1599年)北ノ庄城主となって20万石余を授かりますが、府中のうち5万石は堀尾吉晴の隠居料とされ、他も豊臣家の蔵入地や他家の所領とされたため、事実上は8万石に減少したともいいます。また子の俊矩は金剛院城2万石を、織田信雄の子の秀雄は大野郡5万石を、元丹羽家臣の青山宗勝は坂井郡丸岡城4万6000石を、同じく元丹羽家臣の戸田勝成は足羽郡安居城2万石を、元朝倉家臣の赤座直保は南条郡今庄2万石を、大谷吉継は敦賀等5万石を領しました。他にも越前には木下頼継(大谷吉継の子、2万5000石)、丹羽長正(長重の弟、東郷槇山城5万石)、奥山正之(1.1万石)、上田重安(1万石)、溝江長晴(1万石)など中小の領主がひしめいており、慶長3年の越前国の太閤検地による総石高49万9411石のうちの多くを占めました。

大谷吉継

 大谷吉継は近江国浅井郡小谷の出身で、浅井氏滅亡後に秀吉に仕え、小姓から馬廻衆(近衛)となりました。賤ヶ岳の戦いに際しては柴田勝豊を調略したといい、各地を転戦して手柄をたて、天正17年(1589年)敦賀城主として2万石を授かりました(のち5万石に加増)。彼は敦賀の廻船屋らに特権を与えて支配体制に取り込み、日本海交易路を掌握します。文禄年間に秀吉が伏見城を建設した際、その用材は出羽秋田から敦賀を経て運ばれました。

 朝鮮出兵では石田三成らとともに兵站や交渉を担当し、秀吉没後は家康に加担して諸侯の調整に当たっています。会津征伐に際しても家康の要請を受けて敦賀から出陣しますが、途中で石田三成らから挙兵計画を聞かされ、これに加わります。伏見城陥落後、吉継は敦賀に戻って近江・北陸の諸将に反家康派(西軍)につくよう呼びかけ、越前および加賀南半の諸将はほぼ西軍に加わります。家康に従っていた堀尾吉晴は急ぎ越前へ向かいますが、道中で襲われて重傷を負います。しかし加賀北半と越中を領する前田利長(利家の子)は能登を領する弟利政とともに東軍に与し、加賀南半へ侵攻します。

 吉継は「敵軍が敦賀から金沢に向かっている」などと偽情報を流し、恐れをなした利長は撤退し、利政は西軍に靡いて以後の出兵をためらいました。しかしこの間に東軍が美濃に迫り、8月23日には岐阜城を陥落させたため、吉継は北国勢を率いて美濃へ向かいます。

関ヶ原本戦の配置

 9月、吉継は関ヶ原西端に5700人(うち与力4200人)を率い布陣します。病気のために陣中からは動けませんでしたが、輿に乗って指揮をとり、東軍の諸将を相手に奮戦しました。小早川秀秋が東軍に寝返って攻めかかると、吉継はこれを迎撃して押し戻しますが、吉継の与力であった脇坂安治朽木元綱小川祐忠・赤座直保ら4200人が寝返って横槍を仕掛けます。大谷隊1500人は支えきれずに壊滅し、戸田勝成ら主だった将はみな討死しました。追い詰められた吉継はその場で自害し、西軍は総崩れとなったのです。

越前松平

結城秀康

 関ヶ原の戦いの後、家康は西軍側の諸将を改易し、自らの次男である結城秀康を北ノ庄城主として越前・若狭等68万石余を授けました。彼は幼名を於義伊といい、家康の正室築山殿の奥女中が生んだ庶子でしたが、築山殿が承認しなかったため家から追い出され、天正7年(1579年)築山殿とその子信康が死んだ後にようやく家康から息子と認められます。しかし同年に三男の秀忠が生まれており、天正12年(1584年)秀吉と家康が和睦した際、秀吉に人質として出されました。秀吉は12歳の於義伊を自らの養子として元服させ「羽柴秀康」と名付け、従五位下三河守の官位を授けています。

 天正17年(1589年)秀吉に実子鶴松が生まれると、秀康は翌年下総結城氏の養嗣子となり、10万石余を継承して羽柴結城少将秀朝と改名しました。秀吉没後は秀康に諱を戻し、会津征伐・関ヶ原の戦いに際しては下野国宇都宮にとどまっています。越前国替えには養父の結城晴朝らも同行しましたが、秀康は慶長12年(1607年)閏4月に数え34歳で病没します。

松平忠直

 秀康の嫡男・忠直が数え13歳で跡を継ぎ、結城から松平に氏を改めます(結城氏の家督は弟の直基が相続)。若年ゆえ家老本多富正が輔佐となり、越前で実際の政務を取り仕切りました。彼は幼い時から秀康に仕え、越前入国に際して越前府中城3万9000石を賜りました。慶長16年(1611年)、将軍秀忠は娘の勝姫を忠直に嫁がせています。

 しかし慶長17年(1612年)、越前で村人同士の争いが発端となり、両村の領主である家老同士が相争う事態に発展します。これに旧結城家の家臣で反富正派の今村盛次らが加勢し、富正も反今村派の家老を率いて対立します。ついには両者の間で武力衝突が発生して多数の死傷者を出し、両者は駿府の家康、江戸の秀忠に仲裁を訴えます(越前騒動)。結局今村派は罪人として処罰され、富正は叱責されたものの忠義を賞賛され、これまで通り国政を司るよう命じられます。ただ大国を治めるには彼だけでは不足として、翌年富正の従兄弟にあたる本多成重を新たに家老とし、今村盛次が領していた坂井郡の丸岡城を授けて4万石を与え、富正とともに忠直を輔佐させました。丸岡城は越前北部、越前府中城は嶺北南部にあり、北ノ庄城は両者の中間にありますから、統治のバランスはとれるわけです。

 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、忠直は富正・成重の両本多に輔佐されて参陣しますが、真田信繁に敗北を喫しています。翌年の大坂夏の陣では汚名返上に燃え、抜け駆けして前線に突入し、信繁らを討ち取る功績を挙げました。家康は「天下第一の勲功」と褒め称えて初花の茶壷と高木貞宗の脇差を、秀忠は牧谿の落雁の絵を忠直に与えますが、加増はありませんでした。一方で弟の忠昌は上総姉ヶ崎1万石から常陸下妻3万石に加増され、翌年には信濃松代12万石、元和5年(1619年)には越後高田25万石と国替えされており、忠直は68万石を領しながら家老に掣肘される立場を悔しがります。

 また年下の叔父である義直・頼宜・頼房(いわゆる御三家)が秀忠に重んじられるようになったのと対照的に、忠直は彼らよりも席次や官位が下とされ、不満と屈辱を募らせた忠直は次第に酒色に溺れていきました。元和7年(1621年)には参勤交代の途中に病気と称して越前へ帰国し、数え7歳の息子仙千代を名代として江戸へ向かわせます。翌年にも江戸への参勤を果たさず、乱心して妻・勝姫の侍女2名を殺害し、小姓や家臣らも理由もなく斬り殺すというありさまでした。やむなく成重は忠直を居室へ押し込め、江戸へ駆けつけて事情を幕府に報告します。

 元和9年(1623年)2月、秀忠は忠直に隠居と豊後への移住(事実上の配流)を命じ、応じなければ軍勢をもって成敗すると脅しつけます。母の説得もあり忠直はこれに応じ、家督を仙千代に譲って隠居・剃髪しました。その後は豊後で穏やかな余生を送り、27年後に56歳で没したといいます。

松平仙千代

 仙千代は数え9歳で越前国主となりますが、幼少の国主が大国を治めれば再び家老同士が反目し合うのが目に見えています。そこで同年7月、秀忠は国入りした仙千代をその母である勝姫ともども江戸に呼び戻し、翌寛永元年(1624年)4月に越前松平家一門を江戸城に集め、忠直の弟で越後高田城主の忠昌を越前北ノ庄城主に任じました。仙千代は入れ替わりで越後高田26万石へ減転封され、秀忠より将軍位を譲られた家光より偏諱を賜って元服し、光長と名乗ることとなります。家臣の大部分は越後へ移りますが、本多富正ら100余名の家臣は越前にとどまり、忠昌を輔佐しました。幕府の公式見解では仙千代を越前国主に数えず、忠直から忠昌に継承されたとしています。

 ただし忠昌は68万石のうち50万石のみを授かり、本多成重は幕府直臣に取り立てられ、丸岡4万6300石を改めて授かり独立の譜代大名となります。また忠昌の弟直政は大野5万石、直基は勝山3万石、直良は木本2万5000石を授かり、若狭小浜藩主の京極忠高は越前敦賀郡2万2000石を分与されました。

松平忠昌

 忠昌はこの時27歳で、年齢や功績に不足はありません。彼は入国に際して北ノ庄の名を「敗北に通じて縁起が悪い」とし、「福居庄/福井庄」と改名しました。これが福井藩の始まりです。68万石から18万石が減り、要衝の敦賀は他家の領地となったとはいえ、親藩かつ50万石の国持大名として堂々たる大藩です。しかしそれゆえ幕府から警戒され、家督相続を巡る御家騒動などにより所領を削減されていくこととなります。

◆蟹◆

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【続く】

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