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【つの版】度量衡比較・貨幣232

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。きりがないのでちょっとペースアップします。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は越前国の続きです。

福井県

◆福◆

◆井◆


福井藩主

松平忠昌

 北ノ庄改め福井藩主の松平忠昌は武人肌の豪傑で、多くの武芸者や牢人、刀鍛冶や絵師を招いてパトロンとなりました。また家老の本多富正らに輔佐されて内政に注力し、宗門改(人口調査)や新田開発、交通網の整備、治水事業などを行っています。洪水・疫病・地震などの災害にも適切に対処し、正保2年(1645年)在位20年余にして47歳で没しました。

 この間に弟の直政は信州松本を経て雲州松江藩主となり、直基は越前大野藩主を継いだ後、出羽山形藩主となっています。大野藩主には勝山藩主を継いでいた直良が就任し、木本藩は廃藩となって2万石が福井藩に併合され、勝山藩領3万石も福井藩預かりとなりました。大野藩・勝山藩・丸岡藩は、その後も紆余曲折ありながら廃藩置県まで存続しています。

松平光通

 嫡男の万千代丸はまだ10歳でしかなく、遺言により2か月年長で庶長子の千菊丸には5万石、4歳年下の五男福松(辰之助)には2万5000石が分与されることとなります。前者は越前国吉田郡芝原(松岡)、後者は丹生郡立町郷吉江に陣屋が置かれたことから、それぞれ松岡藩・吉江藩と呼ばれました。元服すると万千代丸は将軍家光の偏諱を賜って光通と名乗りますが、千菊丸と辰之助は父の偏諱を授かり昌勝・昌明と名乗ります。

 本多富正は光通の元服の翌年、慶安2年(1649年)に78歳で没し、子の昌長が府中4万石を継いで筆頭家老となります。子孫の府中本多家は以後廃藩置県まで福井藩主に仕えました。

 承応2年(1653年)6月、17歳で入国した光通は親政を開始し、家中や税などについての様々な法令を発布して藩政の基盤を固めました。また朱子学者の伊藤坦庵を京都より招聘し、文教を奨励して武断から文治への切り替えを図っています。しかし相次ぐ天災により藩財政は悪化しており、寛文元年(1661年)には幕府の許しを得て銀札(藩札)を発行しています。また寛文9年(1669年)4月には大火事で城と城下町が焼失し、幕府から5万両を借りて城郭を再建したものの、天守は再建されませんでした。

 入国の2年後、光通は従兄で越前高田藩主の松平光長の娘国姫を正室に迎えました。夫婦仲は良好でしたが、生まれたのは娘が2人だけで、世継ぎとなる男子が生まれませんでした。光通は側室との間に権蔵という男子を儲けており、彼を跡継ぎにする予定でしたが、国姫の祖母である勝姫(高田殿)は「国姫の産んだ男子でなければ跡継ぎと認めない」と言い張って譲りませんでした。圧力に耐えかねた国姫は寛文11年(1671年)35歳で自害してしまい、権蔵は2年後に江戸へ出奔し、大叔父の松平直良に庇護されます。

 この家督相続争いには分家の昌勝・昌明も介入し、家中は三派に分裂して混乱する有様となります。光通は苦悩の末、延宝2年(1674年)3月に「昌明に家督を譲る」と遺言状を残して39歳で自害しました。

松平昌親

 松平昌明は幕府の承認を得て福井藩主となり、昌親と改名します。吉江藩は廃藩となり、領地は福井藩に併合されますが、藩主との縁により諸税を免除されるなど優遇されました。しかし藩主の遺言で幕府の決定といえども、長幼の序に従えば忠昌の庶長子の昌勝がおり、光通の子である権蔵も健在ですから、彼の家督相続は家中の不満分裂を解消するには至りませんでした。やむなく昌親は昌勝の子・綱昌を養嗣子に迎え、在位2年目の延宝4年(1676年)7月に家督を譲って隠居しました。この時に名を昌明に戻しています。

松平綱昌

 15歳で家督を相続した綱昌でしたが、家中の対立は収まりませんでした。隠居したとはいえ37歳の昌明は自らの派閥を操って隠然たる権力を握っており、昌勝・綱昌とその派閥に対して様々な工作を仕掛けたのです。延宝9年(1681年)3月には綱昌が理由もなく側近を殺害し、以後は病気と称して江戸藩邸に引きこもってしまい、飢饉に対応できず多数の餓死者を出し、貞享2年(1685年)には江戸城への登城を怠り昌明が代理を務める有様でした。幕府はこれを問題視し、翌貞享3年(1686年)閏3月、狂気を理由に綱昌に蟄居を申し渡します。しかし結城秀康以来の名門である越前松平家を取り潰すわけにもいかず、前藩主の昌明が再び藩主に返り咲くこととなります。

 この頃、越後高田藩でも光長の後継者を巡って御家騒動が起き、延宝9年幕府により改易されて所領が没収されています。光長本人は生きていましたが、世継ぎが没したため家中が分裂・対立したためでした。

貞享半治

 この時、幕府は一連の騒動への処罰として知行半減という重い処分を下しました。当時の福井藩の表高は47.5万石+預所3.5万石(忠昌の時は50万石)でしたが、これが25万石に減らされたのです。筆頭家老の府中本多家も4万石から2万石となり、家臣団5000人のうち4割にあたる2000人が解雇され、残る藩士も知行がおおむね半減され、城下町の人口は4万人から3万人にまで減少しました。

 これに伴い家格も下げられ、藩主は「越前少将」から「福井侍従」と呼ばれるようになり、葵紋の使用が禁じられて桐紋とされ、藩主へ将軍が偏諱を賜ることも中止されます。また大名行列において藩祖忠昌が用いた「片鎌の槍」を掲げることも禁止され、江戸城の詰間も御三家と同じ大廊下から、外様の国持大名と同じ大広間に移されています。結城秀康以来の越前松平家は綱昌の改易で取り潰され、昌明は幕府から新たに所領を賜ったのです。

 この時、松平昌勝が治める松岡藩は支藩から幕府直属に格上げされます。福井藩の預所であった旧勝山藩領は幕府領となり、元禄4年(1691年)に小笠原貞信が2万2000石で入って再立藩されます。丸岡藩では元禄8年(1695年)本多重益が改易されて有馬清純が5万石で封じられ、元禄10年(1697年)には越前丹生郡に紀州和歌山藩の支藩である高森藩と葛野藩が立てられました(5年後に廃止)。残る旧領は幕府領となり、元禄5年(1692年)に設置された飛騨代官の配下によって統治されることとなります。

 この厳しい処分は、昌明が綱昌を排除するため陰謀を巡らしたという当時からの噂によります。元禄3年(1690年)頃に成立した諸国の大名らの評判記録『土芥寇讎記』によると、昌明は「奸智・吝嗇・大悪の無道人」で、うわべこそ柔和・無欲であるが狡賢く、振舞いは仁義に悖り、綱昌の乱心を訴え出て所領を召し上げさせ、自らそれを奪い取ったといいます。昌勝については「分限より奢り美少年を好み、常に酒宴を催しているが、今のところ悪事を働いていない。中の下の将である」と評しています。幕府の公式見解としてはそうでしょうが、『越国外記』では「昌勝が悪人であったため光通が見限り、昌明に家督を譲ったことが発端である。そのため不和が生じ、昌明は融和のため綱昌を養嗣子としたが、綱昌が乱心したためこうなったのだ」と昌明派の意見を記しています。真相は定かでありません。

松平昌明

 このような状況で藩主となった昌明は、財政再建を目指して様々な法令を発布し、藩政改革を実行します。元禄12年(1699年)には今立郡岩本に紙会所を設置し、特産の越前和紙を藩の専売としました。しかし財政の不足は補いきれず、洪水などの天災や江戸城石垣修復の普請を命じられての出費も重なり、領内に御用金として臨時課税を行わねばやっていけなくなります。また藩札の刷新・再発行も行いましたが、財政窮乏により信用を失った藩札は値段が安く見積もられ、のちに幕府により禁止を命じられています。

 また昌明には妻はいましたが子がおらず、このままでは再び御家騒動が勃発します。そこで元禄3年(1690年)に結城秀康の外孫である長州藩主毛利綱広の子・長吉を養嗣子とし、元服させて松平昌盛/昌方と改名させました。しかし家臣団から反対を受けて養子縁組を解消し、元禄14年(1701年)兄で松岡藩主の昌勝の子・昌尚を養嗣子として昌邦と改名させました。昌勝は元禄6年(1693年)56歳で没し、子の昌平が跡を継いでいます。

 元禄14年、昌明は忠昌以来「福居」とも「福井」とも表記されてきた地名を「福井」で統一しました。同年の国絵図や翌年に発行された藩札の文字は「福井」となっています。

 元禄15年(1702年)11月、昌明は幕府から葵紋の着用を再び許可され、宝永元年(1704年)には将軍綱吉から偏諱を拝領し、松平吉品よしのりと改名します。養子の昌邦も同じく偏諱を賜り吉邦となりました。幕府に相応の付け届けを行っていたのでしょうが、石高や家格は元に戻されませんでした。宝永7年(1710年)7月、吉品は吉邦に家督を譲って隠居し、翌正徳元年(1711年)9月に72歳で没しました。

松平吉邦

 30歳で家督を継いだ吉邦は、「御国反乱程之困窮」と言われた財政の再建に力を注ぎ、領内に倹約令を出して経費節減を推進しました。また領民を労わる善政を敷いたため名君として讃えられ、享保の改革を推進した将軍吉宗からも賞賛されています。享保5年(1720年)には越前国内の幕府領のうち10万石余を預所とされ、ある程度の税収を確保することとなりました。また吉邦は越前の地誌や藩主の家譜を編纂してもいます。

 徳川吉宗は元禄10年(1697年)から宝永2年(1705年)まで越前丹羽郡の葛野藩を領しており、統治は代官が行いましたが越前とは縁があります。

松平宗昌

 しかし吉邦にも跡取りとなる子がおらず、享保6年(1721年)41歳で没すると、兄の昌平が跡を継いで吉宗より偏諱を賜り宗昌と改名しました。彼が治めていた松岡藩は廃藩となり、福井藩に併合されます。この宗昌にも跡継ぎがおらず、吉宗は陸奥白河新田藩主の子・千次郎を養嗣子に迎えさせ、吉邦の娘・勝姫を娶らせました。彼は結城秀康の子直基の曾孫にあたり、享保9年(1724年)宗昌が50歳で没すると9歳で跡を継ぎます。これにより忠昌以来の直系は断絶しました。

     光通
松平忠昌―昌勝―綱昌
     昌明 吉邦
        宗昌

松平宗矩

 千次郎は享保11年(1726年)末に元服し、将軍吉宗から偏諱を受けて宗矩と名乗りました。矩は祖父直矩の字で、忠昌の子孫ではないため昌の字はありません。彼は吉邦・吉宗にならって財政改革を推進し、倹約令を発布して勝手吟味役(財政検査官)を設け、漆の苗木の植林や三国湊の整備など殖産にも尽力しました。また貧困や災害に苦しむ者には救米を貸与・提供し、財政が窮乏する中でも善政に尽くしています。これを評価した幕府は越前国内の幕府領を全て福井藩の預所としましたが、寛保3年(1743年)8月には日光普請を命じてもいます。

 彼にも跡継ぎがおらず、延享4年(1747年)に吉宗の孫にあたる一橋家の小五郎を養嗣子としました。これにより結城秀康以来の血統は絶えますが、小五郎は秀康の幼名である於義丸と改名しています。寛延2年(1749年)宗矩は35歳で没し、於義丸は7歳で藩主となりました。

松平重昌

 宝暦5年(1755年)、於義丸は13歳で元服し、将軍家重から偏諱を賜って重昌と名乗りました。彼は忠昌の子孫ではありませんが、福井藩主としての通字を用いたのです。しかし相続時に幕府からの預所を没収されて財政が悪化し、領内は宝暦の飢饉を始めとする災害に見舞われて百姓が困窮します。重昌は宝暦8年(1758年)16歳で逝去し、弟の仙千代が跡を継ぎました。

松平重富

 宝暦10年(1760年)仙千代は元服し、将軍家重から偏諱を賜って重富と名乗ります。彼の在位期間は歴代最長の41年に及びましたが、連年の災害にも関わらず贅沢な生活を好み、米商人に対して御用金を課すなどの悪政を行いました。このため城下町には貧民が溢れ、明和5年(1768年)には大規模な打ち毀しが勃発しています。その後も天明の大飢饉が発生するなど災害が相次ぎ、菜種や塩を専売制にするなどして資金源の確保につとめました。

 また重富は弟の一橋治済や幕閣に働きかけ、福井松平家の家格復活運動に邁進しました。各方面へ多額の賄賂が贈られた末、寛政10年(1798年)には忠昌に並ぶ正四位下・左近衛権中将にまで昇っています。翌年重富は長男の治好に家督を譲って隠居し、文化6年(1809年)に62歳で没しました。

治好以後

 治好は32歳で家督を相続し、文政8年末(1826年)まで在位しました。彼は父と同じく正四位下・左近衛権中将にまで昇り、文化14年(1817年)には嫡男の仁之助が将軍家斉の娘と縁組し、翌年2万石を加増され32万石となります。しかし家格の上昇や藩主の贅沢で出費も増え、次代の斉承斉善らは財政改革を試みますが早世し、田安徳川家から慶永(春嶽)が養嗣子に入って幕末の藩政を主導することとなります。

◆福◆

◆井◆

【続く】

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