【つの版】度量衡比較・貨幣191
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は信濃の続きで、東信編です。

◆真◆
◆田◆
東信小県
信濃国のうち、小県郡と佐久郡を合わせて東信(東信濃/東信州)と呼びます。千曲川の上流域にあたり、小県郡にあたる北西部を上田地域、佐久郡にあたる南東部を佐久地域と分けます。四方を山に囲まれた盆地にして東山道/中山道と北国街道が通る交通の要衝であり、上田からは北は北信を通って越後へ、西は筑摩山地を保福寺峠で越えて松本盆地へ抜けられますし、佐久からは東の碓氷峠を越えれば上野へ、南は八ヶ岳の東麓を通って甲斐へ、西は和田峠を越えて諏訪へ抜けることができます。
小県郡=上田地域は、現在の上田市全域、東御市の大部分(千曲川以南を除く)、小諸市の一部(滋野甲)、上田市の西の青木村、上田市の南の長和町に相当します。奈良時代末期か平安時代初期に松本に移るまでは上田市域に信濃国府が置かれており、鎌倉時代に再建された信濃国分寺が存続しています。古代の東山道は松本から最高標高1345mの保福寺峠を越えて上田に達し、碓氷峠を越えて上野へ向かっていました。
東国からの租税や人員・使者・馬匹などはこのルートを通って畿内へ運ばれ、畿内からはこのルートを通って官吏や使者・軍隊などが移動したため、街道沿いには替え馬を用意した駅家や馬牧、宿場町や市場が形成されます。またそれらを管理する役人が配属され、利権を握る地元の豪族と結びついて勢力を強め、武士の発生へと繋がっていくこととなります。
滋野三家
平安時代中期、常陸の豪族・平貞盛は父の国香を従兄弟の将門に殺され、叔父たちと手を組んで対立していましたが、承平8年(938年)に碓氷峠を越えて信濃に入り、東山道経由で京都へ向かい朝廷に上訴しようと図ります。将門はこれを察知して貞盛を追い、小県郡の信濃国分寺付近で追いつきました。貞盛は信濃御牧の管理者(牧監)である滋野恒成、小県郡司の他田真樹らとともに将門と戦ったものの打ち破られ、身一つで脱出して京都にたどり着いたといいます。
滋野氏は紀伊国造(紀氏)の末裔とされ、奈良時代に楢原東人が伊蘇志(勤)の姓を賜り、その子・家訳が平安時代初期に滋野と改姓したのが始まりといいます。家訳の子の貞主は五代の天皇に仕えて公卿に昇り、その子の善根は貞観12年(870年)に信濃守となりました。その子孫は信濃に土着して豪族となり、牧監の地位にあったものと思われます。
当時の信濃には16もの勅使牧(御牧)が存在し、高井郡には高位(高山村高井牧)、水内郡には大室(長野市松代地区大室)、小県郡には塩原(上田市浦野・青木村)と新治(東御市祢津地区新張)、佐久郡には長倉(軽井沢町)・塩野(御代田町)・望月(佐久市望月、浅科および東御市北御牧)に牧がありました。これらを管理する役人となれば、国司にも匹敵する権力と経済力、そして軍事力を抱えていたことでしょう。
平安時代末期、滋野氏は海野・祢津・望月の三氏に分かれました。このうち海野氏は小県郡海野荘(東御市および上田市の神川以東)の地頭となり、滋野氏嫡流を名乗ります。祢津氏はその北の山間部にあった新治牧の管理を引き継ぎ、望月氏は佐久郡望月牧を司りました。これらは「滋野三家」と呼ばれ、信濃から上野西部に広がる滋野氏傍流の諸家をまとめて有力な武士団を形成し、保元・平治の乱では源義朝に、治承・寿永の乱(源平合戦)では木曽義仲や源頼朝に仕えて活躍しています。南北朝時代には諏訪氏と手を組んで北条時行を擁立し、中先代の乱を起こして鎌倉を一時奪還しました。
その後も滋野三家は東信の有力豪族として勢力を保ちますが、戦国時代には村上氏や高梨氏、武田氏や上杉氏らとの勢力争いに敗れて没落し、上杉氏や武田氏の家臣となって存続しました。小県郡真田郷を本貫とする真田氏は海野氏の傍流とも祢津氏の流れをくむともされ、武田氏に仕えて東信から上野西部に至る地域を制圧しますが、武田氏が滅ぶと織田家に服属しました。
上田築城
織田信長の死後、真田昌幸は武田氏の遺臣に呼びかけて自立を図ります。しかし北には越後の上杉景勝、東には関東の北条氏政・氏直、南には三河・遠江・駿河の徳川家康がおり、それぞれが信濃を制圧すべく侵攻を開始しました。昌幸は北信を制圧した景勝にまず臣従しますが、まもなく上野領を安堵するため氏直に降り、川中島まで進軍させて景勝を牽制させます。この隙に家康が甲斐に侵攻し、氏直は佐久経由で甲斐へ向かいますが、景勝は越後北部での反乱に対処するため撤退し、北信を抑えるにとどまりました。
佐久では武田の遺臣・依田信蕃が北条軍に対してゲリラ戦を展開し、甲斐に入った家康と手を結びました。昌幸は彼を介して家康に寝返り、氏直を家康との和睦に追い込みます。しかし家康は和睦の条件として、氏直が抑えた佐久領と真田の領地(昌幸は家康に従ったので間接的に家康のものとなります)である沼田領の交換を要求したため、昌幸は再び景勝と手を結んで家康・氏直を牽制します。同盟した依田信蕃も北条軍との戦いで戦死し、昌幸と家康の関係は微妙なものとなりました。
そこで天正11年(1583年)、家康は対北条の前線基地として小県郡に城を築くよう昌幸に命じます。昌幸は真田氏館から南西、千曲川北岸にあった古い館を拡張して上田城を築き、周囲に堀を巡らし難攻不落の要塞とします。家康は北条氏と交渉を進め、昌幸には沼田領の代替地として伊那郡箕輪に領地を授けるとしますが、昌幸はこれを不服として景勝と通じ、天正13年(1585年)家康に反旗を翻しました。
家康はこれを征伐すべく兵を派遣しますが撃退され(第一次上田合戦)、真田家の武勇と知略は天下にとどろくこととなります。同年に景勝・昌幸は秀吉に臣従して家康と和睦し、昌幸は秀吉の命令により家康の与力(同盟者)になりました。しかし沼田領を巡って北条氏と争いとなり、秀吉はこれを契機として天正18年(1590年)に北条氏を討伐、滅亡させます。昌幸は長男の信幸に沼田領を、家臣に上田領を任せて上洛し、次男の信繁とともに豊臣系大名として秀吉に仕えました。こうした恩義のため関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣方)につき、再び上田城に籠って徳川秀忠を苦戦させますが、石田三成らが敗れたことで敗軍の将となり、紀州九度山へ配流されました。
上田領は東軍についた信幸(信之)が沼田領ともども相続しますが、家康は安全保障のため上田城の破却を命じ、信之は沼田を本城とし、上田城の三の丸跡地に屋敷を構えて統治を行いました。元和8年(1622年)、信之は上田から松城(松代)へ加増転封され、代わって仙石忠政が入ります。
仙石三代
忠政の父・秀久は美濃出身で、秀吉の最古参の家臣として各地を転戦した武将です。島津氏との戦いで敗れた責任をとらされ一時は牢人となりましたが、小田原攻めで武功をあげて赦免され、信州小諸城主として5万石を賜りました。この時に家康の口利きがあったことから、秀久は一時秀康と改名しており(のち盛長を経て秀久に戻す)、関ヶ原の戦いでは東軍に与して上田城で足止めを食った秀忠を助けました。これにより所領安堵を受けたうえ秀忠からの信頼をも勝ち取り、慶長19年(1614年)天寿を全うしました。
忠政は父の跡を継ぐと大坂の陣に参戦して手柄をたて、領内の安定にも尽力したことから、元和8年に1万石加増されて隣の上田へ転封されます。長く真田家の領地だったことから反発はあったものの、忠政は兵農分離や新田開発、殖産興業などを推進して善政を敷き、寛永3年(1626年)には幕府の許可を得て上田城の再築城に取り掛かります。しかし2年後に逝去して工事は中断され、未完成のまま幕末まで続くこととなりました。
忠政の跡を継いだ政俊は40年在位し、10歳の孫の政明に家督を譲った後も5年後に没するまで実権を握りました。政明は叔父政勝、母方の祖父浅野光晟らの輔佐を受けつつ37年在位し、宝永3年(1706年)但馬国出石へ転封されます。入れ替わりで出石藩主であった松平忠周が上田藩主となり、以後廃藩置県まで7代160年あまり存続することとなります。なお政勝は兄政俊の隠居時に小県郡矢沢村等2000石を分与され、本家の転封後も子孫が同領を相続したため、上田藩領は6万石から5万8000石に表高が減少しています。
上田騒動
松平忠周は松平氏庶流の藤井松平家の出身で、父の忠晴は徳川家光・家綱に仕え、駿河田中藩・遠州掛川藩を経て丹波亀山藩主となりました。忠周は兄の忠昭の養嗣子として亀山藩主となりますが、相続から3年後に武州岩槻へ転封され、その11年後に但馬出石へ、さらに9年後には上田へ転封となったのです。忠周は徳川綱吉と吉宗に重用されて老中に登り、幕府でも藩領でも政治改革に手腕を振るい、享保13年(1728年)に68歳で没しました。
子の忠愛は相続時に弟の忠容に更級郡の飛び地から5000石を授け(塩崎知行所)、上田藩の表高は5万3000石に減少します。忠愛の代には火災や水害(戌の満水)に見舞われ、幕府から5000石を借りて復興にあてる羽目となりました。また税制を改革して重税を取り立てる一方、茶屋遊びに耽って藩政を顧みず、財政は破綻します。寛延2年(1749年)忠愛は隠居し、子の忠順が跡を継ぎますが、彼の代には大規模な一揆「上田騒動」が勃発しました。
宝暦11年(1761年)、領内の百姓1万3000人が上田城下へ押しかけ、年貢の軽減や地方役人の不正の取り締まりを求めました。同年には年貢の徴収法が従来の定免法(年平均の収穫量から算出した一定の年貢を納める)から検見法(毎年収穫量を計算して年貢を徴収する)に改められ、郡奉行たちはこれまでより多くの年貢を徴収して立身出世に利用しようとしている、との噂が流れていたのです。藩主は江戸にいたため、家老の岡部九郎兵衛が対応に当たり、百姓たちの訴えを聞き入れると約束して安心させました。しかし百姓たちの怒りはおさまらず、城下町や領内で破壊活動や掠奪を行います。翌年、岡部は不正を行っていた郡奉行たちを罷免し年貢を減免する一方、騒動の首謀者たちを捕縛して違法行為のかどで処刑しました。
天明3年(1783年)忠順が没し、子の忠済が跡を継ぎます。彼の代にも天明の大飢饉や幕府からの課役があって藩財政は悪化しました。また嫡男の忠英は文化7年(1810年)父に先立って逝去し、弟の忠和が20歳になっていたので家臣らはこれを立てようとしますが、結局分家(塩崎知行所)の忠学を養嗣子として家督を譲り、忠和をその養嗣子とします。ところが忠和も文政11年(1828年)に没し、忠学は姫路藩主の酒井家より養嗣子を迎えます。これが幕末の名君・松平忠固です。彼は養蚕業や薩摩芋の栽培を奨励し、のち老中に抜擢されてアメリカ合衆国との外交交渉を行いました。
◆上◆
◆田◆
【続く】
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