【つの版】度量衡比較・貨幣190
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は信濃・北信の続きです。

◆真◆
◆田◆
真田三代
北信地方の大部分を占める長野盆地(善光寺平)を、元和8年(1622年)から廃藩置県まで10代250年にわたり治めたのが松代藩主の真田家です。もとは東信濃の小県郡真田郷(現長野県上田市真田町)を本貫とする武家で、この地域の有力豪族であった海野氏の傍流と称しました。真田幸綱の時には武田信玄に仕え、調略によって東信・北信進出を助けました。
信玄と幸綱の没後、嫡男の信綱と次男の昌輝は長篠の戦いで戦死し、三男の昌幸が家督を相続します。彼は武田勝頼に仕えて上野西部へ侵攻し、沼田城などを攻め落としますが、勝頼が織田軍に敗れて自害すると織田信長に服属し、所領を安堵されます。同年に信長が死ぬと、昌幸は武田の遺臣を集めて独立を図り、上杉景勝・北条氏直・徳川家康の三勢力に従ったり寝返ったりした末に、天下人となった豊臣秀吉に従属します。小田原征伐に際して家康と和解し、嫡男信幸は家康の養女・小松姫を娶りますが、関ヶ原の戦いで昌幸は西軍につき、上田城に籠って徳川秀忠の進軍を妨害しました。
信幸は父に従わず東軍につき、弟・信繁が立て籠もる戸石城を開城させますが、信繁は上田城に移動して父とともに秀忠に逆らいます。戦後、信幸の助命嘆願により昌幸と信繁は紀州九度山に流され、昌幸はこの地で没しますが、信繁はのちに大坂の陣で豊臣方で参戦し、家康を恐れさせることとなります。信幸は名を信之と改めて父の領地(上田領)を受け継ぎ、もとの沼田領3万石を合わせて9万5000石の大名となりました。大坂の陣には病気で出陣できませんでしたが、子の信吉・信政が参陣しています。
元和8年(1622年)、56歳の信之は北信濃の海津城/松城(松代)の城主として13万石(うち3万石は沼田領)を授かり、父祖代々の領地であった上田領を手放すこととなります。嫡男信吉は沼田城主となりましたが、寛永11年(1634年)に父に先立って40歳で病没し、その子・熊之助も4年後に7歳で夭折したため、信吉の弟・信政が跡を継ぎます。信之はこの時72歳でしたが、幕府に長年隠居を認められぬまま非常に長生きし、明暦元年(1656年)91歳でようやく信政に家督を譲って隠居しました。
しかし信政は2年後に没し、その子で2歳の幸道が跡継ぎとされたものの、信吉の子・信直が家督相続を主張します。幕府の裁定により信直は沼田3万石の藩主として独立し、幸道が残る10万石を相続しますが、後見人の信之は同年93歳で没しました。幸道の後見人には大坂城代・磐城平藩主の内藤忠興が任ぜられ、延宝2年(1674年)に彼が没するまで幸道は江戸で育ちます。
真田幸綱―昌幸―信之―信吉―信直(沼田藩主)
信政―幸道(松代藩主)
松代藩政
17歳でお国入りした幸道は、まず領内の検地を行います。松城藩は信之が上田から持ち込んだ20万両の財産により当初は比較的裕福でしたが、幸道の時には幕府から江戸城の普請(修復工事)を命じられたり、天和2年(1682年)の朝鮮通信使の饗応を命じられたりして出費がかさみ、藩財政が悪化し始めました。天和元年(1681年)には分家の沼田藩が信直の悪政により改易されています。また正徳元年(1711年)には幕命により松城を「松代」と改名しますが、享保2年(1717年)火災により本丸・二の丸・三の丸を焼失、幕府より1万両を借財して再建する羽目になりました。
享保12年(1727年)幸道が71歳で没すると、甥で養子の信弘が58歳で跡を継ぎ、質素倹約を旨として財政再建を図ります。9年後に信弘が没すると、子の信安が23歳で跡を継ぎ財政改革を継続しますが、寛保2年(1742年)に大雨で千曲川・犀川が氾濫を起こし、城下町が水没する大被害となります(戌の満水)。同年には近畿・越後・関東など全国各地で風水害に見舞われており、松代藩はまたも幕府より1万両を借財して災害復興と河川改修の費用にあてることとなりました。
延享2年(1745年)、信安は22歳の側近・原小隼人(岩尾、八郎五郎)を中老兼御勝手御用(財務長官)に任じ、藩政改革を命じました。原は千曲川の治水などに大きな働きをしましたが、藩士の給与半減(半知借上)、年貢徴収の前倒しなど強引な手法で財政再建を行ったため反発を招き、足軽たちが半知借上停止を求めてストライキを行う事態を招きます。寛延3年(1750年)、原は責任を取らされて失脚し、御勝手御用を解任されます。給与の支払いには借金をするしかなく、財政はますます悪化しました。
続いて財政再建にあたったのは、播州赤穂藩の浪人と称する田村半右衛門です。彼は藩士の4分の1を解雇するとし、郡奉行・代官・手代ら諸役人や豪農らに多額のカネを調達するよう命じました。彼らが百姓から賄賂を得ているというのが理由でしたが、あまりに強引な手法は当然反発を招き、宝暦元年(1751年)に「田村騒動」と呼ばれる一揆が勃発して失脚しました。信安は田村を投獄して獄死させ、翌宝暦2年に38歳で没しています。
13歳で跡を継いだ幸弘は、宝暦7年(1757年)に家老の恩田民親を御勝手方御用兼帯に据え、財政再建に当たらせます。彼は原の政策を踏襲しつつも藩士や領民と直接面談して反発を抑え、質素倹約・綱紀粛正につとめます。また年貢の前納や御用金の賦課は廃止し、年貢を月割で上納させ、開墾や殖産興業に力を注ぎます。さらに藩校「文学館」を開いて藩士を教育し、意識改革も行いました。彼は宝暦12年(1762年)に46歳で病没し、在任中には目覚ましい成果はなかったものの、藩主幸弘や義弟の望月治部左衛門らが意志を引き継ぐこととなります。
真田信之―信政―幸道
信就―信弘―信安―幸弘
しかし天明年間には浅間山の噴火や大飢饉、物価高騰などによる暴動・掠奪(打ちこわし)が相次ぎ、松代藩の財政は悪化の一途をたどります。幸弘は4人の男子に先立たれ跡継ぎがいなかったため、天明5年(1784年)に幕府大老で彦根藩主の井伊直幸の子・幸専を婿養子とします。これは幕閣の有力者を跡継ぎとすることで、財政危機を招く幕府からの課役を避けようとしたものともいいます。
ところが将軍家治が没すると井伊直幸は田沼意次ともども失脚し、寛政10年(1798年)に家督を継いだ幸専の代にも幕府から隅田川の工事などを命ぜられ、財政は好転しませんでした。しかも幸専も跡継ぎに恵まれず、文化12年(1815年)に松平定信の子・次郎丸(幸貫)を養嗣子に迎えます。やはり真田家と血縁関係はありませんが、幸弘の娘が浜松藩主・井上正甫に嫁いで儲けた娘の雅姫を娶り、真田家を継ぐこととなります。彼は幕末に佐久間象山らを登用して藩政改革を進め、名君として名を残しました。
善光寺町
さて、松代城は千曲川の南(現長野市松代町)に存在しますが、現在の長野市の政治・経済的中心部は千曲川と犀川の北、水内郡の善光寺の近くにあります。「長野」という地名もここにあり、長野県庁や長野市役所もここに置かれました。松代城下からは北に10㎞あまり離れていますが、松代城が築かれるより遥か昔からこの地にあり、全国から崇敬され参拝客を迎えてきた善光寺の門前町は、中世・近世より大いに賑わっていたのです。長野盆地を「善光寺平」と呼ぶのも、長野より善光寺の方が有名だったからです。
前述のように、7世紀に成立したとされる善光寺は平安時代後期から鎌倉時代にかけて東国の武家より崇められるようになりましたが、南北朝時代から戦国時代にかけては戦乱に巻き込まれて荒廃します。上杉謙信と武田信玄は善光寺の権威と支配を巡って争い、それぞれ越後直江津と甲府に善光寺の本尊や仏具、別当や僧侶らを移動させ、「浜善光寺」と「甲斐善光寺」を建立しました。浜善光寺に移された本尊は上杉氏とともに会津を経て米沢へ移りましたが、甲斐善光寺の本尊は武田氏滅亡後に織田家によって美濃・尾張へ移され、家康により甲斐へ戻されています。のち秀吉が甲斐から京都へ移しますが、間もなく病気になったため祟りを恐れ信濃善光寺へ戻しました。
荒廃していた信濃善光寺は、天下泰平の到来により秀頼や江戸幕府により再建が進められ、勧進のために御師が全国各地に布教活動を行いました。江戸・京都・大坂など大都市で本尊が出張して御開帳を行う「出開帳」や善光寺縁起の出版、印判を額に押せば極楽往生がかなうという「お血脈」の宣伝などが功を奏し、善光寺には多額の喜捨が集められ、諸国からの参詣者も増加することとなります。天明の浅間山噴火および大飢饉に際しては貫主の等順が被災者救済に尽力し、善光寺中興の祖と称えられました。善光寺周辺は寺領として松代藩とは別扱いでしたが、経済的波及効果は松代藩領にも及んでおり、藩財政を支える一助ともなったのです。
◆善◆
◆光◆
【続く】
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