【つの版】度量衡比較・貨幣192
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は東信の続きで、佐久編です。

◆小◆
◆諸◆
佐久望月
東信地方のうち、現在の小諸市の大部分(滋野甲を除く)と東御市の一部(千曲川以南)、北佐久郡(立科町、御代田町、軽井沢町)、佐久市、南佐久郡(佐久穂町、小海町、北相木村、南相木村、南牧村、川上村)の全域が佐久郡/佐久地域にあたります。千曲川の上流部に位置し、小諸市から佐久市にかけては佐久盆地が広がり、東の碓氷峠や内山峠を越えれば上野へ、南は八ヶ岳の東麓を通って甲斐へ抜けることができます。
また軽井沢の追分宿では中山道と北国街道が分岐し、前者は佐久郡を通り和田峠を越えて諏訪へ、後者は小諸・東御・上田・北信を経て上越へ向かいます。古来の東山道は上田から松本へ抜けていましたが、江戸時代の中山道ではこちらがメインルートになりました。かように交通の要衝ですから、古くから諸国の人間と文物が行き交い、乱世には争奪の場ともなりました。
信濃には多くの馬牧が設置されましたが、佐久郡北部には望月(佐久市望月、浅科および東御市北御牧)、塩野(御代田町)、長倉(軽井沢町)という3つの御牧(勅旨牧)があり、いずれも東山道に近く、馬の飼育と輸送に適しています。「佐久」という地名は「柵」と同音で、牧場を囲んだ柵に由来するのではないかともいいます。ことに望月牧は信濃に16ある勅旨牧のうち最大で、毎年信濃から80疋の馬を都に貢ぐうちの20疋を望月牧が占めたといいます。しかし平安時代中期から貢馬数は次第に減少し、南北朝時代の貞治6年(1367年)を最後に断絶しました。
この望月牧を平安時代後期から管理していたのが、信濃守滋野氏の末裔と称した望月氏です。小県郡の海野氏・祢津氏らとともに「滋野三家」と呼ばれ、信濃から西上野に散らばる諸家をまとめて有力な武士団を形成し、保元・平治の乱では源義朝に、治承・寿永の乱(源平合戦)では木曽義仲や源頼朝に仕えて活躍しています。南北朝時代には諏訪氏と手を組んで北条時行を擁立し、中先代の乱を起こして鎌倉を一時奪還しました。
望月氏は望月城(佐久市望月)を拠点とする有力国人として、南北朝時代から室町時代、戦国時代にかけて割拠しました。松本に拠点を置く信濃守護の小笠原氏は室町幕府と北朝を後ろ盾として彼らを平定しようとしますが、望月氏は北信・東信一帯の国人衆と連帯して対抗し、応永7年(1400年)には小笠原長秀の軍勢を善光寺平(長野盆地)で撃破しました。長秀は幕府から守護職を解任され、信濃は25年にわたり幕府直轄領とされています。
戦国時代には甲斐の武田信虎・晴信(信玄)が諏訪や佐久へ進出し、望月氏の当主・昌頼は抵抗しますが打ち破られ、庶流の昌貞が武田氏に服属して家督を継ぎました。晴信は彼に偏諱を授けて信雅と名乗らせ、自らの甥の信頼・信永・信豊を養嗣子として望月氏の取り込みを図ります。しかし信頼は18歳で病死し、信永は長篠の戦いで戦死し、信豊は武田氏滅亡の時に自害したため、望月氏は別系の昌頼(前述の昌頼とは別人)を擁立します。彼は天正壬午の乱に際しては後北条氏につきますが、依田信蕃に攻められて18歳で自害し、信雅は徳川家康に仕えて駿河に移住、遁世したといいます。
異説では信雅の前に信玄の甥・盛時が望月氏当主を継いでおり、永禄4年(1561年)川中島の合戦で戦死したといいます。また盛時の妻を千代といい、永禄12年(1569年)に信玄から甲斐と信濃の神子(巫女)頭に任じられ、旧縁を頼って小県郡祢津村に移住したといいます。1971年、時代考証家の稲垣史生氏は「祢津村の巫女たちは武田氏が用いた諜報活動員(女忍者/くノ一)ではないか」と仮説を立て、これが引用・孫引きされて「望月千代は忍者であった」とする説が広まりました。しかし確実な史料がない以上は仮説・憶測に過ぎず、盛時や千代の実在さえも明らかではありません。なお望月氏の傍流は近江国甲賀郡に移住し、地侍となっています。
小諸城主
望月城の北東、千曲川の東岸には、戦国時代の天文23年(1554年)に武田氏によって小諸城が建設されました。これは長享元年(1487年)大井光忠が築城した鍋蓋城を拡張したもので、はじめ譜代家老の春日虎綱(香坂弾正)が城代となり、ついで武田氏庶流の下曾根浄喜が入りました。
織田・徳川連合軍による武田領侵攻の際、望月信豊は木曽谷で迎え撃ちますが撃破され、甲斐へ逃げ帰ったのち小諸城に赴き再起を図ります。しかし小諸城代の浄喜に裏切られ、城の二の丸に放火されて一族郎党ともども自害しました。信豊の首は浄喜により織田軍へ献上されますが、不忠であるとして浄喜も誅殺されたといいます。
武田氏滅亡後、織田信長は家臣の滝川一益を「関東御取次役」に任じ、上野一国と信濃国佐久郡・小県郡を授けました。一益は上野国厩橋城に入り、小諸城には甥の道家正栄を入らせて城代とし2万石を授けます。同年に本能寺の変が起きて信長が死ぬと、甲斐・信濃の武田家遺臣は一斉に挙兵し、後北条氏も上野・信濃へ侵攻します。一益は後北条軍と戦った後、碓氷峠を越えて信濃に入り、小諸城を依田信蕃に引き渡して美濃へ逃れました。
依田氏は小県郡依田荘を本貫とする武家で信濃源氏を称し、木曽義仲に仕えて平家と戦いましたが、義仲が源義経らに敗れると没落し、承久の乱で北条氏に味方したことで得宗被官となり復権しました。鎌倉幕府・室町幕府では依田氏が要職を歴任し、信濃守護の小笠原氏の傍流・大井氏が佐久郡を領して守護代となると、これに仕えて佐久郡に進出します。大井氏が衰退し武田氏が佐久に進出するとこれに従い、信蕃は武田氏が占領した駿河田中城を任されました。武田氏が滅ぶと遠江に潜伏し、信長死後に佐久へ戻ります。
彼は滝川一益と交渉し、信濃を無事に通過させるために自分を含む国人衆から人質を集めて一益に預け、木曽で解放することを約束させます。感謝した一益は小諸城を信蕃に委ね、美濃へ脱出できました。まもなく一益を追って北条氏直が信濃に侵攻すると、信蕃は小諸城を放棄して南の山岳地帯に逃れ、甲斐に侵攻した徳川家康に通じて北条軍の背後を突き、真田氏らも寝返らせて孤立させます。これにより家康は氏直と有利な条件で和睦し、信濃の大部分を手中におさめますが、佐久郡岩尾城主の大井行吉は氏直に味方する勢力を集めて抵抗します。信蕃は弟の信幸とこれを攻めるも戦死し、嫡男の竹福丸が跡を継ぎます。
家康は信蕃の功績を讃え、竹福丸に偏諱と松平姓を授けて松平源十郎康国と名乗らせ、小諸城と6万石を与えました。とはいえ元服直後の若者ゆえ、家康は重臣の大久保忠世を信州惣奉行に任じて小諸城に赴かせ、康国を輔佐させています。しかし真田昌幸は上杉景勝に寝返り、攻め寄せた徳川軍を撃退して独立を保ち、康国は小田原征伐の時に上野国で戦死しました。家督は弟の康勝が継ぎますが、小田原征伐後に家康が関東へ転封されたため小諸を離れ、上野西部の藤岡城と3万石を授かっています。
秀吉は小諸城主に前述の仙石秀久を任じ、5万石を授けました。彼は関ヶ原の戦いで東軍について所領を安堵されますが、子の忠政の時に上田へ加増転封され、2年間甲府藩領となります。ついで松平憲良が23年(5万石→4.5万石)、青山宗俊が14年(3万石)、酒井忠能が17年(3万石)、西尾忠成が3年(2.5万石)、石川松平家が2代20年(2万石)治めたのち、元禄15年(1702年)に牧野康重が入ってからは牧野家が10代170年続きました。表高は1.5万石まで減少していましたが、実高は3万石あり、新田開発により幕末には3.9万石まで増えています。しかし小藩には違いなく、千曲川の洪水や浅間山の噴火、続く飢饉で大被害を受け、財政状況は厳しかったようです。
大井岩村
現在の佐久市北東部に位置する岩村田には、平安時代末期から鎌倉時代にかけて大井荘という荘園が形成されました。千曲川の両岸に散在し、伴野荘や平賀郷との境界が錯綜していたため正確な荘域は不明ですが、承久の乱の後に甲斐源氏・小笠原長清の子の朝光が地頭となって大井氏を称し、大井城(岩村田城)を築いて室町時代後期までこの地に割拠しました。
鎌倉幕府滅亡後、本家の小笠原氏が足利氏・北朝について信濃守護となるとこれに同調し、大井光長の時には信濃守護代に任じられ、南朝・北条氏についた諏訪氏らと激しく対立します。しかし光長の子・光矩は、小笠原氏と国人連合が激突した大塔合戦ではどちらにもつかず、小笠原氏が敗北した時に仲裁して撤退させるにとどまっています。これにより大井氏の勢力は相対的に増大し、光矩の子・持光とその子・政光の代には鎌倉公方と手を結んで勢力を上野・武蔵に広げ、所領は6万貫に及んだといいます。しかし北信濃の国人村上氏に敗れて没落し、のち武田氏に敗れて屈服しています。
小田原征伐の後、佐久郡はおおよそ小諸城主の所領となりますが、次第に領地を削られて5万石から1.5万石に減少し、幕府直轄領や旗本領とされました。元禄16年(1703年)には武蔵赤沼藩主の内藤正友が佐久郡に転封され、1.6万石を授かって岩村田藩を立てます。小藩ゆえ城ではなく陣屋で、中山道の岩村田宿を管理する役目でした。翌宝永元年(1704年)には三河大給藩(奥殿藩)が佐久郡田野口に1.6万石の飛び地を授かっています。ともに寒冷な山あいの小領地で収入は少なく、浅間山の噴火の被害を受けていますが、廃藩置県まで170年近く存続しました。
◆佐◆
◆久◆
【続く】
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