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【つの版】度量衡比較・貨幣193

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は信濃の続きで、中信編です。

長野県

◆貞◆

◆宗◆


中信地方

 信濃国のうち、西部の安曇あずみ郡と筑摩つかま郡を合わせて中信(中信濃/中信州)と呼びます。狭義では明治時代に分割された諸郡のうち南安曇郡と東筑摩郡のみを指し、これを松本地域と呼びます。すなわち松本盆地(松本平/筑摩野)を中心とする地方です。北端部の北安曇郡は北アルプス地域、南部の木曽郡は木曽地域と区分しますが、木曽は筑摩郡のうちとはいえ諏訪湖より南の部分が多く、南信に含む場合もありますし、戦国時代頃までは美濃国恵那郡含まれていました。さらに広義の中信は諏訪地域も含みますが、とりあえず南北安曇郡と東筑摩郡とします。

 安曇郡(現北安曇郡、大町市、安曇野市など)は信濃国の北西に位置し、東は水内郡、南は梓川を境に筑摩郡、西は越中国、北は越後国と接しています。東は戸隠連山、西は飛騨山脈(北アルプス)、北は妙高山など山岳に囲まれ、南は松本盆地北部の安曇野です。また高瀬川など諸河川が流れ下って犀川に合流し、犀川は北東に流れて千曲川と合流、越後へ向かって信濃川となり、新潟で日本海に注いでいます。

 安曇/阿曇とは筑前国糟屋郡阿曇郷(現福岡県福岡市東区)を本貫とする古代氏族で、ヤマト王権を支援して瀬戸内や淡路、摂津などに勢力を広げましたが、6世紀以降には美濃・信濃・甲斐など東国の内陸部にも安曇氏が進出し始め、安曇郡などにその名を残しています。これは蘇我氏が東国に屯倉みやけ(王権の直轄地)を設置した際、安曇氏をその監督官に任じたことによるのではないかともいいます。安曇野/安曇平は北アルプスの山々から流れ来る清流と地下水が潤す複合扇状地ですが、礫(小石)が積もった地層であるため水はけが良すぎ、農業には向かない地域でした。大規模な灌漑を行えば農地化できますが、当時は馬牧が経営されたのでしょう。

 筑摩郡は、戦国時代まで美濃国恵那郡に属していた木曽を除けば信濃国中部(松本市と塩尻市北部)にあたり、東は小県郡、南は諏訪郡と伊那郡、西は美濃国と飛騨国、北は梓川を挟んで安曇郡と接しています。本来信濃国府は小県郡(現上田市)に置かれていましたが、平安時代前期頃までに筑摩郡北部(現松本市国府町)に移転し、地理的にも政治的にも信濃国の中心となりました。これは仁和3年(887年)に起きた全国的な大地震(仁和地震)で佐久郡八ヶ岳の北側が崩れ、千曲川上流を堰き止めてしまい、翌年千曲川流域を押し流す大洪水が発生したためと考えられます。

 東山道は木曽路を通らず、木曽川支流の湯舟沢川・冷川を遡って神坂みさか峠で美濃国から信濃国伊那郡に入り、伊那谷を北上して善知鳥うとう峠を越え、筑摩郡南部の塩尻に入ります。さらに北上して信濃国府(松本市)に達し、北東の保福寺峠を越えて小県郡に出、佐久郡から碓氷峠を経て上野国へ向かっていました。また犀川沿いに下れば川中島で千曲川と合流して越後国へ向かえますし、安曇郡からの物資も川舟で国府に集まり、諏訪を経て甲斐国・駿河国へ向かうこともできます。かように交通の要衝であればこそ、ここに国府が置かれることになったのです。

小笠原氏

 平安時代後期には信濃国に多くの荘園や牧場が置かれ、院や寺社の所領とされましたが、鎌倉時代には得宗北条氏が領国化し、越後ともども分家を守護として統治しました。鎌倉幕府が滅ぶと甲斐源氏庶流の小笠原貞宗が足利尊氏より信濃守護に任じられ、筑摩郡に井川館を、埴科郡船山(現千曲市)に守護所を設けました。しかし得宗北条氏の遺児・時行は諏訪氏に匿われ、北条残党を率いて中先代の乱を起こし、一時鎌倉を奪還します。これは尊氏により鎮圧されたものの、諏訪氏と時行は南朝と結んで貞宗や尊氏と対立し続け、安曇郡の有力豪族・仁科氏らもこれに加勢しました。

 応永7年(1400年)、貞宗の曾孫・長秀は大塔合戦で信濃国人衆連合に大敗を喫し、幕府から信濃守護職を剥奪されます。25年後に弟の政康が守護に復帰しますが、15世紀中ごろには小笠原氏が跡目争いで3つに分裂し、天文3年(1534年)小笠原長棟が再統一するまで争いが続きました。長棟は次男の信定を伊那郡に派遣し、安曇・筑摩・伊那にまたがる勢力圏を築きますが、後を継いだ嫡男・長時は天文19年(1550年)に甲斐の武田晴信(信玄)に敗れ、小笠原氏分家の三好氏を頼って畿内へ逃れました。

 晴信は小笠原氏が居城としていた林城を破却し、支城の深志城に馬場信春を入らせて中信を統治させました。信玄没後、信春が長篠の戦いで戦死すると、子の昌房が跡を継いで城代となりますが、彼は天正10年(1582年)織田長益に城を明け渡して降伏し、城は木曽義昌に引き渡されます。同年に本能寺の変・天正壬午の乱が起きると、流浪の末に越後の上杉景勝に身を寄せていた小笠原長時の弟・洞雪斎が擁立され、景勝の支援を受けて深志城を奪還しました。これに対し、徳川家康は長時の嫡男・貞慶を支援して深志城へ送り込み、洞雪斎は交渉の末に城を明け渡して越後へ退去しました。

 32年ぶりに父祖の旧領を回復した貞慶は、深志城を「松本城」と改名し、家康の家臣として信濃中央部を制圧します。ところが長男の貞政を人質として預けていた石川数正が天正13年(1585年)に家康のもとを出奔し、秀吉の家来となったため、やむなく貞慶も秀吉の家来となります。小田原征伐では戦功をあげ、秀吉から讃岐半国を与えられますが、島津との戦いで失敗して秀吉に追放された尾藤知宣(もと小笠原氏の家臣)を客将としていたことが発覚して怒りを買い、所領を全て没収されてしまいます。代わりに松本城主とされたのは、先述の石川数正でした。

石川数正

 石川数正は三河国出身の武家で、先祖代々三河松平家に仕え、彼も家康の幼い頃から近侍として仕えました。桶狭間の戦いの後は今川氏真や織田信長と交渉し、多くの合戦に参加して手柄をたて、岡崎城代をつとめています。本能寺の変の後は秀吉との交渉を担当し、小牧・長久手の戦いでは家康に秀吉との和睦を提言しましたが、家康に偏諱を賜って「康輝」と改名するほど信頼されています。ところが天正13年11月、突如として秀吉のもとへ出奔したのです。理由は諸説ありますが、秀吉は彼に偏諱を授けて「吉輝」と改名させ、和泉国8万石を与え、出雲守の通称を許しました。

 小田原征伐の後、家康が関東に移封されると、秀吉は彼に小笠原貞慶の旧領である信濃国筑摩郡・安曇郡10万石(8万石とも)を与え、松本城主に任じました。石川吉輝は松本城を天守閣を備えた近世城郭とし、城下町を建設して政治基盤を整備しますが、文禄元年(1592年)末に逝去しました。

 嫡男の康長は家督を継ぐと遺領のうち8万石を相続し、次男康勝は1.5万石、三男康次は5000石を相続します。秀吉没後は家康に与して上田合戦にも参戦しますが、慶長18年(1613年)に大久保長安事件に連座して弟たちともども改易され、豊後国佐伯に配流されて30年後に没しています。

松本藩政

 代わって松本藩主となったのは、小笠原貞慶の子・貞政(秀吉より偏諱を賜り秀政)です。父が所領を失った後、彼らは家康の仲介で秀吉と和解し、家康は秀政に孫娘を娶らせ、関東移封後に下総古河3万石を授けました。関ヶ原の戦い後に信濃国伊那郡南部の飯田城に5万石で転封され、12年後にようやく松本に帰還できたのです。ところが2年後の大坂の陣で秀政は嫡男の忠脩ともども戦没し、弟の忠政(忠真)が家督を継ぎますが、2年後に播州明石10万石に転封されます。

 続いて戸田松平家の松平康長が7万石で入り、15年間在位します。彼は在地の地侍72名を召し抱え、家臣への俸禄を地方知行(所領)から蔵米制(米払い)に切り替えて兵農分離を行い、領内を15組に区分して行政区画を定め、総検地を実施するなど藩政の基礎を固めました。彼が没すると子の康直が継ぎますが、翌年播州明石へ転封され(小笠原忠真は豊前小倉へ)、越前松平家の松平直政が入りますが、5年後に雲州松江に転封されます。彼は松本の蕎麦を気に入り、雲州へ松本の蕎麦職人を伴い、領国南部の山間地などに蕎麦を植えさせて広めたといいます。

 代わって徳川家光の老中・堀田正盛が入りますが4年で下総佐倉に転封され、家康の従弟にあたる水野忠清が入ります。これより水野家が6代83年に渡って松本藩主となりますが、相次ぐ飢饉や藩主の放蕩で財政危機に陥り、財政改革も試みられますが焼け石に水でした。貞享3年(1686年)には安曇郡への増税に対する大規模な百姓一揆が勃発し(貞享騒動)、首謀者らは磔獄門に処せられますが増税は中止となりました。6代藩主の水野忠恒は暗愚かつ短気で、享保10年(1725年)に江戸城松の廊下で長州藩の世継ぎに小刀で斬り付ける事件を起こし、直ちに所領を没収されて改易処分とされます。御家断絶だけは免れますが忠恒は蟄居となり、14年後に没しました。

 代わって松平光慈が志摩国鳥羽から6万石で入り、以後廃藩置県まで9代150年近く存続しました。しかし転封前から同家の経済状況は悪く、国替えの費用として2500両を借財しており、火災や藩主の相次ぐ早世により借財はたちまち1.8万両に膨れ上がります。歴代藩主は倹約や財政再建につとめますが効果はあがらず、家臣の俸禄を半減したり解雇したりして出費を減らしつつ、領民に御用金を課してやりくりすることとなります。

塩尻陣屋

 松本盆地の南端、諏訪盆地との境には塩尻峠があります。これは中央分水嶺のひとつで、南側に降った雨は諏訪湖から流れ出る天竜川に合流して太平洋へ、北側に降った雨は犀川に合流して千曲川・信濃川となり日本海へ向かいます。「塩尻」とは小県郡の上田市、水内郡の栄村などにもある地名で、本来は塩田に砂を塚のように盛り上げた形をいい、塩や海産物とは無関係と思われます。またここは美濃を経て畿内に通じる木曽路の出入口でもあり、内陸交通の要衝であって、武田信玄も伝馬宿を整備しています。

 江戸時代には中山道の塩尻宿が設置され、洗馬宿を経て木曽路へ、下諏訪宿を経て和田峠へ、南は伊那谷北端の小野宿へ道が通じていました。松本藩はこの塩尻を所領のうちとして税金をとっていましたが、水野家が改易になった際に幕府に没収され、信州5.3万石の幕府領を治める塩尻陣屋が設置されました。困った松本藩は返還を求め、寛保3年(1743年)に預かり地として松本藩の管轄に戻されています。

 塩尻宿の西、洗馬宿との間には桔梗ききょうヶ原という原野が広がっています。ここは奈良井川の扇状地ですが、礫層の上に火山灰土が重なった地質で水はけが極めて良く、農耕に適さぬ無人の草原でした。周辺の村々はここを草刈り場とし、刈った草を肥料や牧草としていましたが、ひと気がないので狐狸妖怪のすみかとみなされ、玄蕃之丞を筆頭とする化け狐たちが出没して人を化かすと信じられました。ここがブドウなどの農地として開拓されるようになるのは明治以後のことです。

◆玄◆

◆蕃◆

【続く】

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