【つの版】度量衡比較・貨幣194
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は信濃の続きで、南信編です。

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南信地方
信濃国のうち、南部の諏訪郡と伊那郡を合わせて南信(南信濃/南信州)と呼びます。木曽は戦国時代まで美濃国恵那郡に含まれ、信濃編入後も筑摩郡に含まれた(明治時代に西筑摩郡を経て木曽郡と改称)ため中信地方ともされますが、ここでは広義の南信とします。
おおよそ中央分水嶺の南側で、ここから流れ出る川は太平洋へ注ぎます。諏訪湖からは天竜川が流れ出て伊那盆地を潤し、奥三河と遠江の境をなした後、浜松で遠州灘に流れ込みます。木曽は木曽川の上流域で、美濃・尾張を経て伊勢湾に注いでいます。ただし奈良井川は信濃川水系に属し、遡上すると木曽川上流域付近に達するため、木曽路の一部でもあります。
諏訪湖の東には霧ヶ峰、蓼科山、天狗岳、赤岳などの八ヶ岳連峰が甲斐まで連なり、富士川水系の立場川、戦国時代以後はその南の甲六川が、信濃と甲斐の国境となりました。この両川は八ヶ岳連峰南端の編笠岳西麓から流れ出る釜無川と合流し、甲府盆地で諸河川を集めて富士川となり、富士山の西麓を通って南麓で駿河湾に注いでいます。また北八ヶ岳から流れ出る諸河川は合流して上川となり、諏訪湖を経て天竜川となるのです。
諏訪地域
諏訪郡は、北西は塩尻峠で筑摩郡と、北東は和田峠で佐久郡と通じ、南東は甲斐国、南西は伊那郡に接しています。現在の富士見町、原村、茅野市、諏訪市、下諏訪町、岡谷市にあたり、八ヶ岳の麓の蓼科高原から諏訪湖畔までを含みます。中世以前は伊那盆地北部、天竜川の支流の大田切川が諏訪と伊那の境であったといい、上伊那郡のうち辰野町、箕輪町、南箕輪村、伊那市、宮田村までも含んでいたことになります。
諏訪湖は日本列島を南北に貫く「糸魚川静岡構造線」と、東西に貫く「中央構造線」が交差する地点にあり、地質学的に日本列島の中心をなす重要な場所です。交通の要衝にして豊かな漁場でもある諏訪湖周辺には古くから人類が住み着き、狩猟採集や交易を行ってきました。かつて諏訪湖は諏訪盆地のほとんどを覆っていましたが、時代が下るにつれ縮小しています。
八ヶ岳周辺では火山性ガラスである黒曜石が産出し、縄文時代から採掘され、鏃や刃物に加工されてきました。また交易路を通じて東北地方から東海地方に至る広い地域に輸出されています。諏訪周辺の黒曜石は他の地域で産出するものより透明度が高く、珍重されていたようです。
諏訪という地名は『日本書紀』持統天皇5年(691年)に「信濃須波の神を祀る」とあるのが文献上の初出で、川が湖に注ぎ込む三角州の先端「洲端(すは)」に由来するとも言われます。古墳時代後期(6世紀)には馬関連の副葬品を多く伴う前方後円墳が下伊那(伊那郡南部)に出現しますが、諏訪に出現するのは6世紀後半からで、下伊那から諏訪に豪族の移動があったと推測されます。彼らは諏訪の神を祀る氏族として神氏/諏訪氏を名乗り、大祝(神官)は神を宿す現人神として崇敬を集めました。『古事記』では出雲の国譲りの時にタケミナカタ神が諏訪に逃げ込んで祀られたと伝えます。
諏訪明神は信濃の武家たちから軍神として崇められ、それを率いる諏訪氏自体も武家となっていきます。平安時代後期の後三年の役では源義家に味方して出羽清原氏と戦ったといい、源平合戦では源氏について鎌倉幕府の御家人となり、ついで北条得宗家の被官・御内人として承久の乱などで戦い、幕府・得宗家の庇護を受けて全国の武家から信仰されるに至ります。このため鎌倉幕府と得宗家が滅ぼされると、得宗家の遺児・北条時行を匿って中先代の乱を起こし、鎌倉を奪還させています。
これは足利尊氏に鎮圧されたものの、時行と諏訪氏はその後も協力して尊氏に抗い、南朝の宗良親王を伊那に迎え、尊氏の弟・直義が権力争いに敗れて信濃に逃げ込んだ時も庇護しています。しかし諏訪上社の諏訪氏に対して下社の金刺氏は北朝・足利氏・信濃守護小笠原氏と手を結び、この争いは戦国時代初期まで続くこととなります。
諏訪戦国
永正15年(1518年)、諏訪氏当主頼満は金刺氏を攻撃して甲斐に追放し、北伊那の諏訪氏の分家・高遠氏を屈服させて諏訪郡を統一します。金刺氏は同じころ甲斐を統一した武田信虎を頼って諏訪に侵攻させますが、頼満はこれを撃退し、逆に甲斐の国人領主らを煽って信虎を脅かしました。この争いは10年以上続きますが、北の筑摩郡・安曇郡で小笠原長棟が勢力を強めてきたため、頼満(この頃隠居して碧雲斎)は信虎と和睦して孫の頼重に信虎の娘を娶せました。天文8年(1539年)、頼満は67歳で病没しています。
24歳で跡を継いだ頼重は、天文10年(1541年)5月に舅の武田信虎、北信の村上義清らと連携して小県郡に侵攻し、国人の海野氏を上野国へ追放します。信虎は6月にもう一人の娘婿である今川義元のもとを訪ねますが、彼の嫡男・武田晴信(信玄)は家臣らとともに甲斐と駿河の間の道を封鎖し、信虎を引退させ当主の座につきます。そして諏訪氏惣領家と対立していた高遠氏や金刺氏らと手を結び、諏訪氏との同盟を断絶して諏訪への侵攻に乗り出しました。これは海野氏が頼った関東管領・上杉憲政に対し、諏訪氏が武田氏に相談なく単独で講和したためといいます。

天文11年(1542年)6月から7月にかけて、武田・高遠・金刺連合軍が諏訪に侵攻します。甲斐一国を統一した武田氏に対して諏訪一郡では抗えず、諏訪頼重はやむなく降伏しますが、晴信は彼と弟の頼高を甲府へ連れ去ったのち自害させ、高遠頼継は諏訪郡のうち宮川以西を割譲されます。
しかし頼継は諏訪郡全土と諏訪氏惣領の位を要求して宮川以東へ侵攻し、晴信は頼重の遺児・寅王(千代宮丸)を奉じて反撃、天文14年(1545年)に高遠城を攻め落として頼継を降伏させます。幼い千代宮丸は出家させられ、翌天文15年(1546年)に頼重の娘(諏訪御料人)と晴信の間に生まれた四郎(勝頼)が諏訪氏(あるいは高遠家)を継承すると決められます。頼重の叔父満隆は千代宮丸を擁立して反乱しますが鎮圧され切腹、頼継も天文21年(1552年)に自害させられます。
四郎勝頼は9歳で母を失い、高遠城主として家臣団を授かり、父・晴信/信玄に仕えて各地を転戦、戦功をあげます。庶子の四男で他家の家督を継いだ彼が父の後継者になる見込みはありませんでしたが、父の嫡男・義信が永禄8年(1565年)に謀反を起こして廃嫡されると、他に適任者がいないことから(次兄は病で盲目となり出家、三兄は夭折)勝頼が後継者とされました。元亀2年(1571年)勝頼は甲府へ呼び戻され、叔父の信廉が代わって高遠城に入ります。2年後に信玄が没し、勝頼は家督を相続しますが、長篠の戦いで織田信長に敗れて以後は甲斐・信濃・上野西部・駿河・遠江にまたがる広大な領国の支配に動揺が生じます。
諏訪頼忠
この頃までには、諏訪頼重の叔父である満隣の子・頼忠が諏訪大社大祝を継いでいました。大祝職は神の化身として諏訪の地から出られないしきたりであるため、勝頼は大祝とはならず高遠城に入ったのです。勝頼が武田氏の家督を継ぐと頼忠(あるいは兄の頼豊)が事実上諏訪氏の家督を継承しますが、諏訪郡は武田氏の直轄地となっており、彼らは大名ではなく諏訪衆と呼ばれる国人たちの頭領に過ぎませんでした。
諏訪頼満―頼隆―頼重―娘―勝頼
満隣―頼忠
天正10年(1582年)2月、織田信長は木曽氏を調略によって寝返らせ、美濃から武田領に侵攻します(甲州征伐)。諏訪頼豊は弟の頼辰・頼清、勝頼の弟・仁科盛信らとともに高遠城に籠って織田軍と戦い、敗れて処刑されます。徳川家康は遠江・駿河へ、北条氏政は駿河・上野へ侵攻し、家臣らの裏切りで逃げ場を失った勝頼は甲府に追い詰められたのち自害しました。甲斐国と諏訪郡は織田家の宿老・河尻秀隆に委ねられ、秀隆は諏訪郡代に家臣の弓削重蔵を任じ、諏訪氏の旧城である茶臼山城(高島城)に入れます。
同年6月に本能寺の変で信長が横死すると、甲斐・信濃では武田の遺臣や旧豪族が挙兵して独立を図り、徳川・北条・上杉ら周辺の大名も介入して混乱が生じます(天正壬午の乱)。秀隆は家康の侵攻を阻むため甲斐にとどまりますが武田遺臣に襲撃されて討死し、諏訪氏の家臣らはこれに乗じて頼忠を擁立、茶臼山城を奪還して独立を図りました。当初は上野から信濃に侵攻してきた北条氏に臣従したものの、甲斐国と伊那郡を制圧した家康に屈して和睦し、その家臣となって諏訪郡を安堵されました。
ところが天正18年(1590年)に家康が関東へ移封されると、諏訪頼忠もこれに従って諏訪を離れ、武蔵国比企郡奈良梨(現埼玉県小川町)に所領を授かります(のち上野国那波郡惣社/群馬県前橋市総社に転封)。秀吉は重臣の日根野高吉を諏訪郡2万7000石の大名に封じましたが、彼は文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)にかけて諏訪湖を濠とした新しい城を築き、茶臼山にあった城と同じく高島城と名付けました。これは総石垣造りで8棟の櫓、6棟の門、3重の天守などが立ち並ぶ豪壮な近世式城郭で、領民は苛酷な労役に苦しんだと伝えられます。またこの居城の名から、諏訪郡を領する家(諏訪藩)を高島藩(諏訪高島藩)と呼ぶこともあります。
慶長5年(1600年)に家康が会津征伐の兵を起こすと、高吉はこれに従いますが6月に病没し、子の吉明が跡を継ぎますが翌年下野国都賀郡壬生(現栃木県壬生町)1万石余に減転封され、諏訪頼忠の子・頼水が諏訪高島城主に封じられて2万7000石を授かります。頼忠は5年後70歳で世を去りますが、諏訪氏はこれより廃藩置県に至るまで10代270年諏訪の地を治めました。前置きが長くなりましたが、次回は江戸時代の諏訪藩を見てみましょう。
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【続く】
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