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【つの版】度量衡比較・貨幣195

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は諏訪藩の続きです。

◆諏◆

◆訪◆


明和一件

 諏訪藩は諏訪一郡2万7000石を領し、大坂の陣の後に筑摩郡南部5000石を加増されて3万2000石となりますが、後に筑摩郡のうち2000石を2つの分家に分けたため都合3万石となります。藩政当初は諏訪氏の長年の権威と善政、天下泰平の到来により平穏でしたが、次第に財政が悪化し始めます。

 3代藩主・忠晴(在位1657-95年)の時には水害や飢饉が相次ぎ「家中の物成(収穫物)を借り上げた」と伝え、財源を求めて金沢山の入会地を一時没収しています。元禄7年(1694年)には江戸賄銀(経費)不足のため、下諏訪1万石の秋の収穫を担保に京都の商人・日野屋から借財をしています。翌年に忠晴が没して忠虎が家督を継ぐにあたっては、京都の日野屋、銭屋、桔梗屋ら10名から金1130両と銀248貫700匁を借用し入用金にあてています。また享保6年(1721年)には江戸上屋敷普請のため、上諏訪町から100両、上桑原から8両を借用しています。

 忠晴の晩年より、諏訪藩では2つの家老家が藩政を実質的に司るようになります。1つは諏訪家の古い支族である千野家で、諏訪頼忠が諏訪氏を再興した時に功労があり、高島城三之丸に邸宅を授かり「三之丸家」と呼ばれました。もう1つは頼忠の四男・頼雄を祖とする「二之丸家(図書家)」で、ともに1200石の知行を授かり、上下の差はなく並立していました。

 千野家に優れた人物が続出して藩政を差配する一方、二之丸家は5代・6代が病弱で早世が続いています。ところが延享2年(1745年)より千野家に不幸が続き、幼い兵庫(貞亮さだすけ)が家督を継ぐことになると、二之丸家7代の諏訪頼英が名目上の筆頭家老となります。時の藩主・忠林ただときは貞亮を憐んで目をかけ、元服すると家老に取り立てました。

 宝暦6年(1756年)、忠林は20歳の貞亮を繰廻くりまわし方(財政再建部門)の長に任じ、財政再建を委ねました。彼をトップとする三之丸派は家中の知行・物成を借り上げ、領内3000石から借用金を集める(臨時課税)などして2万両を超える資金を調達し、明和元年(1764年)から新田開発や用水路開削などの公共事業に投入し始めます。また馬の育成や大豆など商品作物の栽培も奨励し、漁業権などにも広く運上金(税金)を課しました。

 これにより諏訪藩の財政は好転しますが、家中の武家たちは知行借り上げによって困窮し、政策実行のために賄賂が横行し、改革に関係した豪商や豪農、三之丸派の武家たちは運上金の上前をピンハネし私腹を肥やしました。この頃に藩主となった忠厚(忠林の子)は病弱で江戸藩邸にとどまることが多く、藩政は三之丸派が牛耳り続けます。これに反発した二之丸派は家中や百姓を煽動し、三之丸派の追い落としを図りました。

 明和7年(1770年)5月、隠居していた諏訪忠林が68歳で没すると、二之丸派の諏訪大助頼保(頼英の子)は忠厚の側用人・渡辺助左衛門を介して三之丸派の不正を糾弾し、藩主の命令により失脚させます。貞亮に代わって諏訪頼英が筆頭家老となり、二之丸派による粛清と藩政改革の弊害の見直しが始まりました。これは当初歓迎され、家中や領民は安堵しますが、次第に三之丸派にも実権を握ったことによる驕りが蔓延し、賄賂が横行し始めます。また財政再建が成ったわけでもないため藩の財政は悪化し、結局は領民に増税や借金を課すこととなります。

安永一件

 安永8年(1779年)3月、閉門蟄居を命じられていた千野貞亮は密かに邸宅を抜け出し、江戸藩邸に駆け付けて藩主忠厚に三之丸派の横暴を訴えます。忠厚は頼英・頼保を家老から罷免し、知行を召し上げて閉門蟄居を命じ、貞亮を復権させて汚職に関与した役人たちの処分を行います。

 ところが頼保はすぐに巻き返しに出ました。忠厚には正室との間に男子がなく、側室のおとめ(木村氏)との間に軍次郎、おきそ(北川氏)との間に鶴蔵という子がいましたが、忠厚はおきそを溺愛しており、年長の軍次郎を差し置いて鶴蔵に家督を譲ろうと考えていました。そこで天明元年(1781年)、頼保は再び側用人の渡辺助左衛門を介して鶴蔵への支持を表明、「貞亮は殿の御意に反して軍次郎様を跡継ぎに立てようと図っております」と讒言したのです。貞亮は急ぎ江戸藩邸に駆け付けて弁明しますが、暗愚な忠厚は掌を返して貞亮の罷免と押込(投獄)を命じ、頼保らは復権しました。

 窮地に陥った貞亮は、厳重な警備の隙を突いて再び脱出し、諏訪から和田峠を越えて間道を駆け抜け、追手を撒いて江戸にたどり着きます。そして忠厚の妹婿で幕府の奏者番(取次役)をつとめていた松平乗完の邸宅へ駆けつけ、忠厚を説得して欲しいと要請しました。

 伝説によると、この時に貞亮を救ったのは芥川義矩という忍者でした。彼は隣国松本藩主の松平光悌の命により参上し、秘薬を用いて透明になり、警戒厳重な牢獄に忍び込み、貞亮にもこれを与えて脱出させたといいます。Wikipediaとかでは義矩の主君を松平光和としますが、彼は光悌の父で6年前に死んでいます。また貞亮が頼った相手を松平乗寛としますが、彼は乗完の子で、3-4歳の子供に過ぎません。もとにした史料が誤っているのでしょうか。そもそもなぜ隣国の忍者が諏訪藩の御家騒動に介入してくるのかもわからず、荒唐無稽な伝説というほかありません。ニンジャはいません。

 松平乗完は忠厚の親族を集めて相談し、「このまま御家騒動を続ければ、幕閣に睨まれて改易されますぞ」と忠厚に諫言しますが、忠厚は「内政干渉だ」と耳を貸しません。貞亮は忠厚の側用人らを捕縛し、忠厚とただ一人で面会して涙ながらに真相を訴え、全て頼保らのはかりごとだと説諭します。ことの重大さをようやく悟った忠厚は謝罪し、隠居して家督を長男の軍次郎に譲ると決断、貞亮の復権と二之丸派の断罪を決定しました。

 この案件は田沼意知(意次の子)の耳にも入り、老中会議の結果「頼英・頼保父子の責任である」と決定し、天明3年(1783年)に頼保らは切腹、頼英と頼保の子らには永牢(終身禁固)が命ぜられます。また主君を誑かした側用人の渡辺助左衛門ら4名は切腹も許されず打ち首となりました。一連の争いを「二之丸騒動」と呼び、二之丸派の壊滅により終結したのです。

諏訪頼水忠恒忠晴忠虎―忠尋          頼威―忠礼
     頼郷―頼常―頼篤―忠林忠厚忠粛忠恕忠誠

坂本養川

 天明元年(1781年)10月、父の隠居により家督を相続した軍次郎は時に13歳でしたが、元服して諏訪忠粛ただたかと名乗り、千野貞亮ら三之丸派に奉じられて藩主となります。しかし長年の財政難は解決しておらず、一連の騒動による出費もかさみ、間もなく起きた天明の大飢饉も重なって、財政改革は焦眉の急務でした。そこで天明5年(1785年)、諏訪藩は坂本養川という者に用水路の開削と新田開発を命じます。

 養川は通称を市之丞といい、諏訪郡田沢村の名主でした。彼は水不足で争いが絶えない農民を救うために諸国を巡って新田開発の技術を習得し、八ヶ岳西麓の山浦地方を測量すると、諸河川を結ぶ用水路を開削して整備することで山麓に新田を拓くという計画を立てます。この計画書は安永4年(1775年)に諏訪藩へ提出されますが、派閥争いでそれどころではなく、それがおさまった忠粛の代になってようやく許可が下りたのです。

 養川はさっそく測量と工事を開始し、寛政12年(1800年)までの15年間に用水路網を整備、「繰越堰」と呼ばれる仕組みで巧みに水を配分し、300町歩におよぶ新田開発に成功しました。諏訪藩は彼を士分に取り立てて16俵2人扶持と15石の抜高(免租地)を授けています。一連の藩政改革は忠粛の子の忠恕の代にまで及び、藩校の創立や藩士の長崎留学などもこの頃から行われました。

◆諏◆

◆訪◆

【続く】

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