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【つの版】日本刀備忘録79:原城石礫

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 寛永3年(1626年)、宮本武蔵は田原伊織貞次を養子とし、播州明石藩主の小笠原忠政(忠真)に仕えさせました。6年後に忠政が豊前小倉へ加増転封されると、武蔵と伊織もこれに従って小倉へ移住します。時に武蔵は49歳でした。

◆魔界◆

◆転生◆


島原之乱

其後、猶も深き道理を得んと、朝鍛夕錬して見れバ、をのづから兵法の道に逢事、我五十歳の比也。それより以來は、尋入べき道なくして光陰を送る。

『五輪書』自序

 寛永10年(1633年)、宮本武蔵は50歳を迎えていました。当時にあっては老境であり、鍛錬の末に「兵法の道」を体得、養子の伊織も出世し(小倉転封時に2500石)、いまや悠々自適の生活を送っています。しかしこの4年後、天下を揺るがす大反乱「島原の乱」が勃発しました。

 島原の乱については以前に触れたので詳しく繰り返しませんが、要は領主の圧政に耐えかねた島原・天草の領民たちが、有馬氏・小西氏・加藤氏らの改易で溢れた牢人たちと結託して起こしたものです。首謀者にはキリシタンがいたため宗教反乱の色彩も帯びました。寛永14年(1637年)10月に島原で挙兵した一揆勢は島原城に攻め寄せて城下町を掠奪し、天草から移動して来た一揆勢と合流して3万7000もの大軍となり(半数弱は女子供でした)、有馬氏の居城であった原城跡に籠城します。幕府は九州諸侯に討伐を命じますが、一揆勢は激しく抵抗し、年末になっても陥落しませんでした。

 小倉藩主の小笠原忠政は、江戸城の普請を命じられて江戸にいましたが、幕府より一揆勢の討伐を命じられ、急ぎ帰国の途に就きます。

 江戸時代後期の小倉藩士が記した小倉の地誌『鵜之真似』によると、この時に将軍家光が忠政に「国元の留守居役の家老は誰か」と尋ね、忠政が「宮本伊織です」と答えました。すると「それなら心配いらぬ。早く帰城せよ」と告げられたといいます。また『青楼年暦考』や享保5年(1720年)の『洞房語園』によると、寛永15年(1638年)春に肥前の島原一揆が起こり西国諸侯が出陣した時、宮本武蔵は江戸吉原の揚屋(または新町の置屋)にいてこれを知りました。そこで「黒田家の幕下へ見回りにいく」として準備をし、騎馬で出発したといいます。果たして本当でしょうか。

『小倉宮本家系図』によると、寛永15年2月に小笠原忠政は肥前国有馬浦に着陣し、26歳の宮本伊織貞次は8人の侍大将の一人かつ惣軍奉行を兼ねる者として付き従いました。戦後は戦功により1500石を加増され、知行4000石を授かっています。また筑前太守の黒田忠之(長政の子、如水の孫)からお褒めの言葉とともに差料の備前宗吉の刀を賜ったとも伝えられます。

 島原の乱の鎮圧には、備後福山藩主であった75歳の水野勝成も嫡男の勝俊や孫の勝貞を率いて駆け付けます。23年前の大坂の陣で宮本武蔵が仕えていたこの老将は、2月末に原城包囲の陣中に到着するや総攻撃を提案し、兵糧や武器弾薬の尽きていた一揆勢は必死で反撃しますが落城します。この時に数え55歳の宮本武蔵が原城攻めに参加し、投石で負傷したと伝えられます。

原城石礫

有[馬]左衛門佐様
 小性衆御中
被思召付尊礼忝次第ニ奉存候。随而せがれ伊織儀御耳ニ立申通大慶奉存候。拙者儀、老足可被御推量候。貴公様御意之様、御家中衆へも手先ニ而申かわし候。殊御父子共本丸迄早々被成御座候通驚目申候。拙者も石ニあたりすねたちかね申故、御目見得ニも祇候不仕候。猶重而可得尊意候。恐惶謹言。
即剋       玄信(花押)

有馬直純宛書状

 宮本武蔵が有馬直純(左衛門佐)に宛てて送った書状が現存しますが、その中で武蔵は「拙者も石に当たり、脛(脚)が立ちかねます」と記しています。これについて調べてみましょう。

 有馬氏は鎌倉時代から肥前国高来郡有馬庄を領した豪族で、戦国時代には肥前6郡を支配する戦国大名となり、直純の父・晴信は秀吉・家康に本領4万石を安堵されましたが、慶長17年(1612年)改易のうえ処刑されています。直純は家康の養女を正室としていたため連座を免れ家督を継承しますが、2年後に日向国延岡5万3000石に加増転封されていました。島原は彼の父祖以来の旧領であり、原城はその居城であったため、島原の乱に際しては道案内をつとめ、総攻撃にも参加しました。彼の子の康純は水野勝俊と原城への一番乗りを争ったとも伝えられます。

 武器弾薬が尽きていた原城の一揆勢にとって、投石は極めて有用な武器でした。矢も火薬も必要とせず、ただ地面から拾い上げて投げつければ、下から攻め寄せる敵に位置エネルギーによって大ダメージを与えられます。世界各地の戦場において投石は広く使用され、専門の投石部隊も存在しました。日本でも平安時代から戦国時代にかけて投石が盛んに戦場で用いられたことは記録にあり、原城攻めに際しても一揆勢が「石礫を雨のように」降り注がせたと記録され、仕官のために陣借りし先頭に立って突撃した牢人たちも投石によって多くが戦死・負傷したといいます。掌におさまる程度の小石にとどまらず、重さ数kgの岩石を食らって即死した者も大勢いたようです。

 ところが豊前中津藩(小倉藩の分家)に残る記録『長次肥州有馬陣記』によれば、宮本武蔵は旗本一番組の中で19人を率いる中心メンバーの一人として記されてはいますが、彼が「負傷した」とは記されていません。このリストの中には「手負」「討死」が記録されているため、武蔵についてそう記されていないのであれば、彼が「投石で負傷した」客観的事実はありません。戦場での負傷や討死は武功のうちとして記録され、戦後の論功行賞での評価材料になりますし、それを報告するのは義務のはずです。

 当時の豊前中津藩主・小笠原長次は、小倉藩主・忠政の甥にあたり、父の忠脩は祖父の秀政とともに大坂夏の陣で戦死しています。長次(幼名は幸若丸)が生まれたのは父の戦死から17日後で、家督は彼の叔父である忠政が継承しました。寛永3年(1626年)、数え12歳の幸若丸は播州龍野6万石に封じられ、翌年元服して長次と名乗ります。そして寛永9年(1632年)豊前中津8万石に加増転封されたのです。武蔵が伊織の主君である忠政ではなく、この長次の旗本として参戦したのは、後継者候補の一人である長次とも良好な関係を持っておくのが得策と考えたゆえでしょうか。

 とすると、宮本武蔵はなにゆえ有馬直純に「投石で脚を負傷して動けず、お目見えできません」と書状を送ったのでしょう。実は小笠原家は水野家ともどもこの戦で「後備(後方の守備)」を命じられていましたが、命令を無視して本丸へ攻め込み、手柄は挙げたものの幕府に公式に報告することができませんでした。こうした状況で、公的に原城陥落に尽力した有馬家からの誘いを受けてしまうと、小笠原家から睨まれかねません。そこで仮病ならぬ仮傷を装い遠慮したものと思われます。また『五輪書』にも『小倉碑文』にも、武蔵が原城攻めに参加し負傷したことは記されていません。

高田吉次

 また『丹治峯均筆記』によると、武蔵が小倉にいた頃、高田又兵衛という槍術の達人と藩主の前で仕合を行ったといいます。彼は諱を吉次よしつぐ、号を崇白といい、天正18年(1590年)の生まれといいますから武蔵より6歳年下で、伊賀国白樫村(現三重県伊賀市白樫)の出身でした。若い時に大和国の宝蔵院胤栄とその弟子の中村尚政に弟子入りし、慶長20年(1615年)宝蔵院流槍術の印可を授かります。同年には父の吉春とともに大坂夏の陣に豊臣方で参陣しますが、父が戦死すると大坂城から脱出し、江戸で町道場を開きました。また新陰流の剣術、穴沢流の薙刀術、五坪流の素槍術を学んで取り入れ、宝蔵院流槍術高田派の祖となっています。

 元和9年(1623年)、34歳の又兵衛は村上源氏久世家の斡旋により明石藩主であった小笠原忠政に召し抱えられ、400石・馬廻役の格式で仕官し、武術指南役となりました。これは武蔵が伊織を仕官させるより早く、武蔵本人が明石藩の武術指南役とはなっていないのは彼がいたからでしょうか。また寛永5年(1628年)3月には将軍家光の御前で槍術を披露し、島原の乱における原城攻めでは槍手一隊を率いて本丸を陥れる手柄をあげ、300石の加増を受けて禄高700石を授かっています。侍大将・惣軍奉行として4000石を賜った宮本伊織には遥かに及ばぬものの、小姓として成り上がった若造の伊織よりは、武芸の腕前では上だとの自負はあったでしょう。

又或時小倉ニテ、寶藏院三代ノ十文字高田又兵衛[法名宗白]ト、忠真卿之御前ニテ試闘アリ。武州ハ常之ツカイ木刀二刀ニテ立合ル。又兵衛十文字ノ竹刀ニテ立向フ。武州中段ノ位ニテ三本迄入込ル。三本目之時、「今ノハアタリタリ。サレ共サガリニテ足ニアタレリ」トノ玉フ。見物ノ面々モ見トメザルト也。又兵衛其後人々ニ向ヒ、武州ガ兵法ハ中々我等ナドガ段式ニテハナシ。申タリ共、各合点ユクマジ。三本目アタリタリト武州ハイヘド、ワレハ曽而覚ヘズ。當時ノアイサツタルベシ。至極ノ達人、言語ニワタラズト云ヘリ。

『丹治峯均筆記』

 かくて仕合となりますが、忠政にとっては殺し合わせるわけにはいかず、武蔵は使い慣れた木刀、又兵衛は十文字槍ならぬ十文字の竹刀で戦うこととなります。槍と刀では俗に「剣道三倍段」というぐらいで、間合いの長い槍の方が圧倒的に強く勝負になりませんが、武蔵は中段の構えから三本打ち込んで「三本目は足に当たった」と主張します。見物人たちどころか当の又兵衛も納得しませんでしたが、どちらかが勝つと差し障りがあるので、曖昧な決着にとどめたということのようです。これも兵法のうちでしょう。

肥後到来

 翌寛永16年(1639年)、武蔵は小笠原忠政とともに江戸へ赴きます。寛永12年(1635年)に武家諸法度が改正され、諸国の大名は毎年江戸に参勤することになっていました。これは時代が下るにつれて形骸化しますが、島原の乱の直後ゆえ諸大名への統制を強化する必要があり、忠政も御一門の血筋を継ぐ以上は忠誠を示さねばなりません。伊織は今回も留守居家老として国元にとどまったようです。翌年7月に武蔵が例の長岡興長に送った書簡にも、自分はこの頃「江戸上方」にいたと書かれています。

 翌寛永17年(1640年)8月、57歳の武蔵は熊本藩主・細川忠利に招かれて肥後に赴きます。細川藩奉書によれば、給与は当座は7人扶持合力米18石(武公伝や二天記では17人扶持)、年末より300石とされました。忠利は元和6年(1620年)から寛永9年まで小倉藩主をつとめ、世嗣として中津城にいた頃には小笠原忠政の姉妹である千代姫を徳川秀忠の養女として正室に迎えました。また武芸を好み、柳生宗矩に師事して「兵法家伝書」を授かっています。島原の乱では家来の神野佐左衛門が一揆の総大将である天草四郎時貞を討ち取る大功を挙げました。寛永16年には忠利も江戸に参勤しており、武蔵が忠政を介して紹介され、肥後へ赴くことになったのでしょう。

 忠利より2歳年上の武蔵は客人として扱われ、同年10月には足利義輝のご落胤とされる足利道鑑(尾池義辰)とともに山鹿に建てられた御茶屋で入念なもてなしを受けています。武蔵は伊織を小倉に残して肥後国で晩年を過ごし、『五輪書』を著すこととなるのです。

◆宮本◆

◆武蔵◆

【続く】

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