【つの版】日本刀備忘録80:五輪之書
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
寛永17年(1640年)8月、57歳の宮本武蔵は熊本藩主・細川忠利に招かれ肥後に赴きます。武蔵は伊織を小倉に残して肥後で晩年を過ごし、『五輪書』を著すこととなるのです。
◆宮本◆
◆武蔵◆
枯木鳴鵙
宮本武蔵を肥後熊本に招いた翌年、細川忠利は55歳で逝去しました。子の光利が光尚と改名して後を継ぎ、武蔵はこれまで同様300石の俸禄を賜っています。『武公伝』によると、武蔵は上級武士が居を構える熊本城郭内の高屋敷(旧千葉城)に住み、家臣ではなく客分として遇され、藩主・家老から陪臣・軽士まで1000人あまりが入門したといいます。また細川家の菩提寺である泰勝院の住持・春山玄貞(大淵玄弘とも)に参禅し、連歌や書画、細工などを作っていたと伝えられます。
武蔵の残した絵画は10点ほどが正筆とされており、落款として「二天」「武蔵」「宝」などの印章が使用されています。作品はすべて水墨画で、画題には鵙などの猛禽類を好んで取り上げています。特定の師匠はおらず、南宋の水墨画を参照して技法を学んだものと思われ、武人・剣豪ならではの視点で独自の境地を描いていると評価されています。
五輪之書
兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練の事、始て書物に顕さんと思ふ。
時、寛永二十年十月上旬の比、九州肥後の地岩戸山に上り、
天を拜し觀音を礼し、佛前に向かふ。
生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。
…兵法の利に任て、諸藝諸能の道となせバ、万事におゐてわれに師匠なし。今此書を作るといへども、佛法儒道の古語をもからず、
軍記軍法のふるき事をも用ひず。
此一流のミたて、實の心を顕す事、天道と觀世音を鏡として、
十月十日の夜、寅の一天[夜明け前]に筆をとつて、書始るもの也。
寛永20年(1643年)10月、60歳となった武蔵は熊本近郊の岩戸山/金峰山霊巌洞(現熊本市西区松尾町平山の雲巌禅寺境内)に参詣し、自らの剣術について書き記した兵法書『五輪書』の執筆を開始します。洞窟に籠って執筆したというのは後世の伝説で、熊本の屋敷か別宅で書いたのでしょう。ただし『五輪書』という題は後世の『武公伝』などから見えるもので、武蔵や弟子たちは「五巻」「地水火風空之五巻」などと呼んでいます。これは仏教で万物を構成する元素・五大のことで、日本では五輪塔を建てて墓碑・供養碑とします。内容が五大に対応しているわけではなく、自らの遺言を書き墓碑を建てるつもりで五輪塔になぞらえたものでしょう。武蔵は翌年夏に発病して執筆が思うに任せなくなり、次の年の5月に没しています。
従って、いわゆる『五輪書』は完成品ではなく、彼が遺言として残した草稿を弟子たちが編纂したものです。弟子たちが手を入れて完成させたならばもっと体裁が整っているはずですが、その様子もありません。また自筆は失われており写本が残るばかりですが、これもいくつかのバリエーションがあります。これ以前に三十九か条ないし三十五か条の兵法書を武蔵が細川家に献上したとの伝説もありますが、『五輪書』自序に「始て書物に顕さん」とある以上、これ以前に武蔵の著作があったとも思えません。「二天一流」は同書では「二刀一流」とも書かれ、同時代に「武蔵流」と呼ばれた彼の兵法の流派の名として後世に残ることとなります。
また『五輪書』は弟子に免許皆伝の印に授けられた兵法の奥義書ではなく(武蔵が免許皆伝を授けた弟子は誰もいません)、細川家に献上するためのものでもなく、兵法の初心者が学ぶために書かれた教本に過ぎません。地の巻では自らの生涯とその兵法のあらましを基礎として書き、水の巻では二天一流の剣術や水のような体捌きを具体的に書き、火の巻では実戦や戦場においての心構えなどを書き、風の巻では他の流派(家風)についての批判を書き、空の巻では真実の道である「空」について短く書いています。入門者がこれを読んで学べば、兵法の基礎はおのずから身に着くのです。さらに進んで達人となるには、武蔵と同じく実践の中で学んでいくほかありません。
また武蔵は、武術・兵法を「治国平天下の道」などと説くことはなく、「戦いに勝つためのもの」と断定します。武士は戦場にあって主君のために死ぬのが仕事ではなく、敵を殺して生き残り、名声と俸禄を獲得するのが仕事です。天下泰平にあっても武が不要になったわけではなく、島原の乱のように一揆や反乱も勃発しますし、盗賊も横行しています。文に生きず、ただ武に生きた武蔵が教えられるのは、人殺しの技術である武術だけです。彼はその技術を実用的、具体的に教えるために『五輪書』を残したのです。さらには「剣術のみならず広く様々な武術・兵法を学べ」とも記しています。
武公長逝
寛永21年(1644年)11月、武蔵は病気となり、細川光尚は病状を気遣って医者を派遣しました。また武蔵の弟子であった寺尾求馬助が看護のために遣わされています。同年末に正保と改元され、翌正保2年(1645年)5月、宮本武蔵は62歳で逝去しました。葬儀は長岡是季が取り仕切り、泰勝寺で大淵玄弘を導師として営まれ、熊本の弓削に葬られました。
逝去の7日前、弟子の寺尾孫之允(求馬助の兄)は『五輪書』草稿とともに「独行道」と呼ばれる遺言書を授かり、事実上の武蔵の兵法の後継者とみなされ、二天一流第二代師範と呼ばれることとなります。彼らの父・寺尾勝正は細川忠興に仕えて鉄砲五十挺頭をつとめ、1050石を授かった重臣でしたが、家督は嫡男の九郎左衛門が継いでおり、次男の孫之允は耳が少し不自由であったため出仕しませんでした。その弟の求馬助は別に200石の俸禄を授かり、寛文12年(1672年)に孫之允が60歳で没すると第三代師範となり、彼の子孫と弟子たちが肥後の二天一流の系統を継いで幕末まで続きました。有名な武蔵の肖像画は寺尾家に伝来していたものです。
小倉藩の筆頭家老である宮本伊織は、武蔵没後9年目の承応3年(1654年)小倉郊外の手向山の山頂に武蔵の彰徳碑を建立し、いわゆる『小倉碑文』を刻みました。彼は武蔵の兵法を受け継いだわけでもありませんが、武蔵の武名と宮本の家名を高からしめたのです。伊織は延宝6年(1678年)65歳で没し、子孫は代々小倉藩筆頭家老の地位を世襲しました。
寺尾孫之允の弟子の柴任三左衛門は、後に肥後を出て小倉藩・福岡藩・大和郡山藩・播州明石藩・姫路藩に招かれて仕え、各地に二天一流を広めたのち、宝永7年(1710年)85歳で没しています。福岡藩士の立花峯均は三左衛門らによる伝承をもとに『丹治峯均筆記』を著しました。
◆宮本◆
◆武蔵◆
宮本武蔵についてはこれぐらいにしましょう。次回からは伊東一刀斎を始祖とする一刀流と、剣術の一種である居合術/抜刀術について見ていきます。
【続く】
◆
いいなと思ったら応援しよう!
つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。