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【つの版】日本刀備忘録84:兵農分離

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 戦乱の時代には貴賤僧俗を問わず護身用に刀剣を所持していましたが、戦乱が終結して天下泰平が到来すると、治安維持のために一定の身分の者を除いては刀剣の所持を禁止する刀狩が行われます。その実態について見ていきましょう。

◆秀◆

◆吉◆


刀狩実態

 天正16年(1588年)に刀狩令を発布した際、豊臣秀吉の版図は畿内・西国を中心として日本国の大半に及び、織田信長をも超えて全国統一まで目前に迫っていました。喧嘩停止令や海賊停止令と同じく、関白たる彼の命令は日本全国に効果があるものと想定されており、特に範囲を限っていません。天正18年(1590年)の小田原征伐と奥州仕置により、その命令は伊豆や関八州や奥羽にまで及びました。秀吉は諸大名に「惣無事(戦闘停止)」を命じ、勝手に軍事行動を起こすことを厳禁し、これに逆らう者を圧倒的な軍事力で討伐することで、100年以上続いた戦国時代を終わらせたのです。

 織田信長は、従属を拒否する村・寺社・商人には屈服を強要し、逆らう者は殺戮し、広大な寺社領を没収し、検地を行って生産力を把握しました。秀吉はこれをさらに推し進め、大名を各地に転封して中央集権化を成し遂げました。しかし急激な変化に人々は反発し、改易された旧領主の家臣団などが一揆(同盟)を結成して反乱を起こすことがしばしばありました。刀狩令が一揆を防止する政策であったというのは一理あります。

 刀狩によってどれほどの刀が没収されたかは定かでありません。島津氏からは3万本、毛利氏からは船6隻もの刀が送られて来たと伝えられます。またルイス・フロイスの『日本史』によると刀狩令発布前年の1587年(天正15年)、秀吉は肥前国に刀匠を派遣して「名刀を買いに来た」と宣伝させました。村人たちは自慢の刀を差し出して鑑定を依頼し、刀匠らは持ち主の名や刀の銘を記録しましたが、その記録を元に刀狩令を交付後100人近い役人を投入し、1万6000本の刀を没収したといいます。

 島津氏は薩摩・大隅・日向諸県郡を領有していましたから、令制国1つで1.6万本とすると3万本なら2国分です。毛利氏の領国は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐の山陽4国・山陰3国に加え、備中西部と伯耆西部にまたがっており、8か国分としても12.8万本に及び、船1隻あたり2万本余もの刀剣を積んでいたことになります。全国66州で同様に行えば105.6万本にも及びます。当然名刀は出さず、数打ちの安物ばかりでしょうが。

 ただ、村にはなお多くの武器が残されていました。刀狩で没収されたのは刀や脇差ばかりで、槍・弓矢・鉄砲等の武具は結局没収されなかったようです。大名といえど自治権を持つ村(惣村)に直接乗り込んで武具を没収することは困難ですし、強硬にやれば一揆を招きます。村には「地侍」と呼ばれる指導者層がおり、領主と主従関係を結んで村のとりまとめと軍役を担っていましたから、彼らを排除することも難しかったのです。そこで害獣駆除や祭祀のためとの名目で残し、成人男性一人につき刀と脇差を一組提出すればよいとし、回収と供出は惣村に任せていたケースが多かったようです。

 それでも、これによって「百姓(農民・町人)は武装するものではない」という前例を作り出したのは大きな意義のあることでした。百姓から武装・帯刀の権利を朝廷の権威によって取り上げ、武家に武装権を限定するという名目ができれば、それに逆らう者は問答無用で討伐できます。モザイク状に分散していた中世の権力構造は武家によって塗り潰され、中央政権とそれに従う大名による集権体制が整っていくのです。

奉公統制

 刀狩令以前の天正14年(1586年)正月、秀吉は「奉公かまい」に関する定書(法令)を発布しています。

諸奉公人事は申におよばず仲間[中間]こもの[小者]あらし子に至るまで、其主にいとまをこはず出候儀曲事候間、相抱べからず。

天正14年正月19日定書

 かまいとは所属する集団や身分、居住地などからの「追放」を意味する中近世の法律用語です。戦国時代の分国法では、罪を犯して追放された家臣や、主君の了承を得ずに勝手に出奔した家臣に対して適用され、他家がその者を召し抱えないよう回状が出されました。もし彼が他家に召し抱えられていたことが発覚すれば、元の主君に求められればその家の主が逮捕して送り返す必要があったのです。とはいえ主君の領国を出てしまえば自由でしたが、秀吉が天下統一を成し遂げると全国的に適用されてしまいます。しかし戦国の遺風が残る豊臣時代には、この奉公構はさほど効力を持たず、厳格に施行されていた様子はないようです。

 天下統一を成し遂げた天正18年には「浪人(牢人)停止令」が発布され、武家への奉公先がなく耕作も行わない牢人は村から追放すると定めました。さらに翌天正19年(1591年)8月には奉公人侍・中間・小者・あらし子)が町人や百姓になること、百姓が耕地を放棄して商いや日雇いに従事すること、逃亡した奉公人を他の武家が召抱えることを再び禁止しました。

一 奉公人侍中間小者あらし子に至迄 去七月奥州へ御出勢より以来 新儀に町人百姓に成者於在之者 其町中地下人として相改一切置へからす  もし隠置付而は 其一町一在所可被加御成敗事

一 在々百姓等 田畠を打捨 或はあきなひ或は賃仕事に罷出輩有之は 其者之事は不及申 地下中可為御成敗  并奉公をも不仕田畠も作らさるは 代官給人として堅相改置へからす  若出無其沙汰は 給人過怠にし其在所可被召上 為町人百姓於隠置は 其一郷同一町可為曲事

一 侍小者ニよらす 其主に不乞暇罷出輩一切抱へからす 能々相改請人をたて可置事 但右者主人在之て出相届は 互事ニ以之条搦捕 前之主之所ヘ可相渡 若此御法度を相背 其者逃し候ニ付而は 其一人之代ニ三人首をきらせ 彼相手之所へ可下渡 三人之人代於不申付は 不及是非之条 其主人を可被加御成敗事

 右 條々斯定置所 如件
 天正十九年八月廿一日 (秀吉朱印)

 これは武士と百姓・町人間の身分変更を禁じたものとして「身分統制令」とも呼ばれますが、ここでいう「侍」とは武士一般ではなく若党(若い郎党/従者)のことで、下級武士(郷士)ないし武家奉公人下人)の一種です。武士は彼らを雑用や軍役のために雇用し、家中の士分の下につくものとして扱っていました。足軽もこれら武家奉公人の一種です。従って「士農工商」の身分を固定するためのものではなく、あくまで武家奉公人が町人や百姓になって武家の統制から離れることを禁じたものでした。

 翌天正20年/文禄元年(1592年)には、関白に就任した豊臣秀次の名義で「人掃ひとばらい令」が発布され、日本全国の戸口調査(人別改め)が実施されました。各村ごとに家数、人数、男女・老若・職業(奉公人・町人・百姓)などを明記した書類を作成・提出することを義務付けたもので、同年に行われた唐入り(朝鮮出兵)のための兵力・人夫の動員可能数を把握することを目的として行われたようです。前年の「身分統制令」で奉公人が百姓・町人と分けられましたが、戦争を機にこれをさらに徹底したのです。

急度申し候
一、当関白様従り六十六国へ人掃の儀仰せ出され候の事。
一、家数、人数、男女、老若共ニ一村切ニ書付けらるべき事。
付、奉公人ハ奉公人、町人ハ町人、百姓者百姓、一所ニ書出だすべき事。

人掃令

帯刀規制

 とはいえ、数百年に渡り続いてきた社会制度は一朝一夕で改められるものではありません。土佐では「一領具足」と呼ばれる半農半兵の軍事組織があり、平時は農民として田畑を耕し、召集がかかると一領(一揃い)の具足(武具)を装着して戦に駆け付けました。土豪や地侍のたぐいですが、農作業によって肉体が鍛錬され、集団行動にも適応していたために結構強く、長宗我部氏はこれによって四国全土に勢力を拡大したといいます。

 これは兵農分離とは真逆の存在でしたが、検地の際は武士身分として記載され、刀狩の対象ともなりませんでした。土佐は山がちで農業生産力が低いため、兵農分離して戦闘が専業の武士や奉公人を多く抱えることは不可能だったのです(のちに山内氏が土佐国主となると彼らを「郷士」とし、山内家直属の「上士」との間に身分格差を設けています)。豊臣政権や徳川幕府といえど、その土地の事情を無視して一律に同じ法律を押し付けたりはせず、比較的柔軟に対処していたようです。

 江戸時代に入ると、百姓や町人の帯刀規制はむしろ緩みました。豊臣政権の刀狩令は、独立自尊を保ってきた百姓たちには歓迎されず、かえって一揆を起こさせかねないと考えられたようです。寛永15年(1638年)に天草の乱が鎮圧された際、細川忠利は老中に刀・槍・鉄砲などの武具を全国の百姓や町人から取り上げるべきだと提言しますが、幕閣は動きませんでした。天草の新藩主に任命された山崎家治は、前藩主の寺沢広高が一揆勢から没収した刀・脇差1450本、鉄砲324挺の全てを、幕閣の承認を得て元の村内へ返却しています。江戸時代前期の百姓や町人は、成人男性の象徴として日常的に帯刀しており、村には多数の鉄砲や刀槍・弓矢が置かれたままでした。

 しかし、17世紀後半には「文治政治」へと舵が切られ、幕府は帯刀規制に乗り出します。寛文8年(1668年)には江戸御用町人以外の日常帯刀を禁止し、天和3年(1683年)には江戸町民すべての帯刀を禁じました。旅立ち・火事・葬礼の時に町人が礼装として二本差しを行うことも禁じられ、次第に全国へ同様の帯刀禁止令が広まっていきます。ただし1尺8寸(54cm)までの脇差の装備は慣習として行われ(享保5年/1720年に禁止)、村長や神主・郷士などには日常ないし祭礼時のみ帯刀を許すなど地域差がありました。

 ともあれ、ここにようやく大小二本差しが武士の特権となったわけです。しかし米価の下落などで武士が経済的に没落していくと、富裕層の百姓や商人は彼らから帯刀権を買い取り、幕府や藩への多額の献金により武士身分に取り立てられる者も出現しました。勝海舟の曾祖父・銀一は貧農に生まれた盲人でしたが、奥医師の石坂家に拾われて鍼を習い、鍼医者兼高利貸しとなって多額の財産を獲得しました。彼は明和6年(1769年)に旗本男谷家の株を買い、子孫は武家となって幕府や水戸藩などに召し抱えられています。また蔦屋重三郎の手代となるため武士から町人になった曲亭馬琴など、身分の変更はカネさえあれば結構可能だったようです。

 鉄砲については、正保2年(1645年)6月に江戸周辺での使用を禁じ、関東では山中以外での使用を禁じ、幕臣・旗本に取り締まりを命じています。寛文2年(1662年)9月には幕府領の代官に「鉄砲改め」を命じ、猟師以外の所有者から鉄砲を没収し、猟師には村と名前を書いた札(免許証)を渡して管理させ、他人に貸すことを厳禁しました。延宝3年(1675年)3月には関東の百姓・町人の鉄砲の所持を禁止し、翌年関八州の幕府領・私領に鉄砲改めを命じ、無届の所持を厳禁しました。さらに貞享3年(1686年)4月には日本全国に同様の政策を及ぼし、鉄砲の所持を免許制としています。猟師が所持する鉄砲は武士のものより多く、害獣駆除に役立てられました。

◆魔◆

◆弾◆

【続く】

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