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【つの版】日本刀備忘録85:慶長新刀

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 豊臣秀吉による天下統一は、日本刀の歴史にとっても画期となりました。国内での戦乱が終結し、刀剣の大量生産・大量消費の時代が終わりを告げたのです。しかし刀剣の需要は尽きず、様々な地域の刀工が移動・交流して技術を伝え合い、新たな時代を切り開くこととなります。

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慶長新刀

 振り返ってみましょう。戦国時代には全国各地に刀鍛冶の工房が出現し、大名や寺社・国人衆などからの大量発注に対応して大量生産体制を整えていました。特に東国では美濃、西国では備前が中心地となりましたが、小田原征伐直後の天正18年(1590年)8月、吉井川が氾濫し、山崩れが重なって長船・畠田・福岡の地を飲み込みます。死者は7000名を超え、刀工とその家族の多くが死亡し、長年繁栄した長船派は滅亡しました。

 これにより、備前と並んで大量生産・流通体制を整えていた美濃が全国一のシェアを占めるようになり、秀吉や全国の大名から美濃の刀工に注文が殺到しました。美濃の刀工は要望に応えるため畿内や近江、尾張や越前など諸国へ移住し、美濃伝の技術を伝えました。また大名に召し抱えられた刀工たちは、大名の転封によって全国各地へ移住していきます。備前やその周辺の刀工たちも生き残ってはいましたが、豊臣時代から江戸時代にかけて美濃伝が圧倒的に広まっていったのは、こうした事情によるものです。

 刀剣史において慶長元年(1596年)以降の作品を「新刀(新身/新刃)」と呼び、それ以前を「古刀」と呼びます。この分類法は享保6年(1721年)に出版された軍学者・神田白龍子の『新刃あらみ銘尽』から現れ、後世の分類法では慶長年間(1596-1615年)から慶安末年(1652年)までに作刀されたものを、特に「慶長新刀」といいます。

 古刀と新刀の大きな違いは、刀剣の素材である鋼鉄(地鉄)にあります。従来は各々の地域で砂鉄を採取し、鋼を製錬して刀剣に加工していたため、各地の独自色が強く出ていました。しかし天下泰平になると全国各地を繋ぐ流通や技術交流が盛んになり、鋼も技術も均質になっていきます。また慶長新刀にはチャイナや南蛮から輸入された鉄も使用されましたが、いわゆる鎖国により海外貿易が制限されると、これらは使用されなくなっています。

 慶長新刀は戦国時代の遺風を保ち、身幅が広く重ねは厚く、切先が延びて大きい豪壮な姿をしています。反りは比較的浅く、古刀の太刀を磨り上げたようで、刃文は大乱れという華美な様相を呈しています。また打刀であっても太刀のように刃を下に向けて帯に差す「半太刀拵」の様式が正装に取り入れられ、拵(装飾金具)も打刀と太刀の折衷的になっています。

埋忠明寿

 さて、この新刀の祖とされる刀工が埋忠うめただ明寿みょうじゅです。文政年間の『刀剣鑑定歌伝附録』によると、埋忠はもと梅多田と書き、内裏東北にあった地名で、平安時代の伝説的な刀工・三条宗近の子孫の所領でした。称光天皇の応永23年(1416年)、この地にあった溜池を埋め立てたので「埋忠」と改め、名字も埋忠となったといいます。これは宗近19世の孫・彦之進橘重宗の時代でしたが、彼の父・重義は足利義満に仕えて刀の鍔を鍛え、子孫代々銘に「重義」と切りました。

 宗近24世の孫・彦次郎重隆(宗隆/明欽)は足利義晴・義輝・義昭に仕え、元亀元年(1570年)に三条から西陣へ移りました。この時、彼の次男の彦次郎重吉は13歳で義昭の近習となっています。元亀4年(1573年)義昭が織田信長に反旗を翻して宇治の槇島城に立て籠もると、重隆らはこれに従いますが、嫡男の彦五郎重政が病死したため重吉に家督を継がせます。義昭は事情を聴いてこれを許し、黄金作りの陣刀を授けて彼らを城外へ逃がしました。

 京都に戻った重隆と重吉は信長に仕え、本能寺の変・山崎の合戦後は秀吉に仕え、秀吉・秀次をはじめ黒田・鍋島・吉川・藤堂など諸大名からの注文を受けて刀や鍔などを作るようになります。また刀剣鑑定家の本阿弥家から依頼を受け、古太刀を磨り上げて打刀に仕立て直す仕事も請け負いました。ただし本業は鍔など刀装具を作る金工であり、刀身に細工を施すことも行いましたが、作刀例そのものは多くありません。

 明寿が考案したとされるのが「し法」と呼ばれる鍛刀法です。これは鋼を熱して打ち延ばす際、水に入れて急速に冷やす「焼き入れ」のことで、炭素量の多い脆い部分(不純物)がこれによって自然に剥落するためそう呼ばれます。また粘泥と藁灰をかけて火床に入れ、熱して不純物を絞り出す「沸かし」と呼ばれる技法も創始したとされ、鉄山からある程度加工済みの鋼を購入することで鍛錬回数を少なくし、焼き刃を重視するという現代まで続く工法もこの頃に編み出されたとされます。

 関ヶ原の戦いの翌年、明寿の弟の家隆は徳川秀忠に従って江戸に移りますが、明寿は京都に残りました。しかし跡継ぎが早世したため家督は家隆に譲り、寛永8年(1631年)5月に74歳で没しています。家隆とその子孫は幕府に仕えたものの、刀工よりは金工の方面で活動しました。

肥前忠吉

 埋忠明寿の弟子のひとりが肥前忠吉です。本名を橋本新左衛門尉忠吉といい、元亀3年(1572年)肥前国佐賀郡高木瀬村長瀬(現佐賀県佐賀市高木瀬町大字長瀬)に生まれました。祖父盛弘、父の道弘は少弐氏の一族とされ、肥前の戦国大名龍造寺隆信に仕えましたが、天正12年(1584年)3月の沖田畷の戦いで主君ともども島津・有馬連合軍に敗れて討死し、隆信の子・政家は島津氏に降ったため、忠吉は13歳で知行を失います。

 そこで忠吉は刀工に転身し、同郷で加藤清正のお抱え刀工となった同田貫善兵衛に教えを受け、慶長元年(1596年)25歳で上洛すると明寿の門人となりました。慶長3年(1598年)帰国すると佐賀城下町の長瀬町に居を構え、戦功ある家柄であったことから佐賀藩主・鍋島氏に25石の俸禄で改めて取り立てられ、以後代々佐賀藩に仕えました。寛永元年(1624年)には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠広と改めています。寛永9年(1632年)66歳で没し、子の近江大掾忠広が後を継ぎ、以後は養子を含めて幕末まで9代続きました。坂本龍馬は何代目かの作を持って脱藩しましたが、道中路銀に困って外装を売却し、岡田以蔵に貸し与えたといいます。

三品金道

 美濃出身の刀工のうち、上京して朝廷に仕えたのが三品派です。祖の三品兼道(大道)は志津三郎兼氏の9世孫と称し、元亀元年(1570年)4月に正親町天皇へ御剣を献上し、左衛門尉に任じられた記録があります。戦乱が治まった文禄2年(1593年)2月には関白二条晴良の招きに応じ、美濃国関から京都西洞院夷川えびすがわ(現京都市上京区夷川町)に移住しました。翌年陸奥守を賜り、彼の子である伊賀守金道・和泉守/越後守来金道・丹波守吉道・越中守正俊、及び来金道の弟子である近江守久道は「京五鍛冶」と称され、埋忠派や堀川派と並び京都で栄えました。

 長男の金道は文禄3年(1594年)に伊賀守を受領し、禁裏御用を賜りました。また関ヶ原の戦いの前に徳川家康より太刀千腰の注文を受け、在京の鍛冶の頭領に任じられることを条件に引き受けて達成したため、戦後に「日本鍛冶惣匠(宗匠)」の称号を賜ったと伝えられます。金道は寛永6年(1629年)末に没しますが、子孫は代々これを称して幕末まで11代続きました。朝廷が刀匠に受領を命じる時は、この金道家が斡旋をつとめたといいます。

 寛永11年(1634年)11月、牢人の荒木又右衛門は義弟・渡辺数馬の弟の仇討ちを助太刀し、伊賀国鍵屋の辻の決闘で勝利しましたが、この時に伊賀守金道(または弟の来金道)の刀を帯びていました。しかし敵に木刀で打ちかかられた際にこれで受けたところ、刀身が折れてしまいます。又右衛門は生き残ったものの、これを聞いた藤堂高虎の家来・戸波親清は「折れやすい新刀などで挑むからだ」と叱責し、恥じ入った又右衛門は数馬とともに親清の弟子になって新陰流を学んだといいます。金道にとっては恥となる話ですが、使い手の問題もあるかと思われます。

 次男は同じく金道を名乗りましたが、文禄4年に和泉守、慶長5年(1600年)越後守を受領し、山城伝の来派を再興して「藤原来金道」などの銘を用いました。こちらも初代の作は極めて少なく、二代目・三代目から多作となります。三男の丹波守吉道は、銘の「丹」の形から「帆掛丹波」と呼ばれ、刃と並行に筋状の焼きが入る「すだれ刃」という技法の創始者とされます。石田三成が佐竹義宣に西軍への助勢を願った際、この吉道の薙刀を贈ったといい、代々佐竹家に伝来しました。越中守正俊は四兄弟のうちもっとも技量優れ、備前伝を真似るなど作風が広く器用であったといいます。

越前康継

 慶長新刀の刀工のうち、特に出世したのが越前康継です。本名を下坂市左衛門といい、近江国長浜下坂浜(現滋賀県長浜市下坂浜町)の出で、先祖は美濃国赤坂千手院派と伝えられます。ここは臨済宗妙心寺派の古刹・平安山良疇寺の門前町で、多くの刀工が活動していましたが、天正13年(1585年)の大地震で琵琶湖に沈んでしまいます。同年近江佐和山城主の堀秀政が越前北ノ庄へ転封されると、彼らはこれに付き従って越前へ移住しました。ただ市左衛門が越前へ移ったのは慶長初年(1596年)ともされます。

 関ヶ原の戦いの後、越前は家康の次男・結城秀康の領国となります。市左衛門は彼に見出されて40石を授かるお抱え鍛冶となり、その推挙で家康・秀忠に召し出され、江戸で鍛刀を命じられました。腕を認められた市左衛門は御用鍛冶に任じられ、50人扶持を授かって士分待遇となり、家康より偏諱を賜って「康継」と改名し、葵の御紋を刀の茎に切ることを許されました。

 秀康は慶長12年(1607年)病没しますが、康継はその子・忠直にも引き続き仕え、江戸と越前に隔年交替で勤務するよう命じられています。大坂の役にも従軍し、元和元年(1615年)には家康に命じられて大坂落城の際に焼けた名刀の打ち直しや写しを行っています。康継は元和7年(1621年)68歳で没し、子の市之丞が後を継ぎました。彼の没後に跡目争いが生じ、江戸と越前の両家に分かれ、ともに幕末維新期まで存続しています。しかし幕府御用鍛冶の立場にあぐらをかいてしまったのか、四代目以後は作刀も少なく、技量も初代や二代目には劣るとされています。

◆肥前◆

◆忠広◆

【続く】

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